- ベストアンサー
大阪の箕面市に神社や寺が多いのはなぜですか?
大阪の箕面市に神社や寺が多いのはなぜですか? あと丸山城趾という城跡がありますが当主は誰だったのでしょう? 箕面市って昔は大きな城下町でもあって栄えていたってことですか? 開成皇子の墓があったり、昔の箕面市は奈良や京都みたいな神聖なところだったのに衰退して見る影もなくなったのはなぜですか? 丸山城址にある神社も物凄く廃れています。 なんでこんなに廃墟になったのでしょう?
- みんなの回答 (1)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
- ベストアンサー
noname#230414
回答No.1
修験道の道場であった、勝尾寺・龍安寺・延喜式内である阿比大神社 為那都比古神社などの西国街道の宿場町。 延喜式=平安時代中期の格式(律分施行細則)三大格式。 摂津の国・能勢氏丸山城。 清和源氏頼光系で,多田源氏である源光仲から流れて、鎌倉中期、多田頼綱の 孫国基が能勢に入り能勢氏と名乗り国基が丸山城を平安末期に築いたとされる。 室町期には徳川御三家人として北摂屈指に勢力に成長。 能勢頼道は将軍足利義輝に仕え、のちに織田信長に属しましたが 1578年荒木村重の信長離反の歳に曖昧な態度であったために 1580年織田方多田領主塩川長満に惨殺される。 頼道のあとを継いだ弟の頼次は1582年本能寺の変の時に明知光秀に加担し 豊臣秀吉方の河原長右門宣勝に攻められて城は落城、能勢頼次は一時没落。 能勢頼次は1600年関が原の戦いで東軍に付き戦功により旧領(約1万石)に 復帰、江戸時代は地黄陣屋を築き明治維新まで代々旗本能勢氏4008石が受け継がれた。
お礼
有難う御座いました