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江戸幕府崩壊直後の年貢.

旗本の多くは、明治元年1868(慶応4・明治元)年8月~ 10月頃までの間に、先の見込みがないまま家族共々駿河・遠江に移り住んだそうです。 関東一円には多くの旗本の知行地がありましたが、この年あるいは翌年の年貢はどうなったのですか。 例えば、旗本が居なくなったので、百姓は、年貢を納めずに済んだというような例もあるのですか。 どこの村でもよいのですが、何か具体例があれば教えてください。 よろしくお願いします。

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  • ベストアンサー
  • rikimatu
  • ベストアンサー率19% (629/3297)
回答No.3

旗本がなくなったとはいえ、廃藩置県など行われたりするまではやはり今までの殿様(知事)がやってたりしてました。 廃藩置県まではそう大して変わらなかったという事です。

kouki-koureisya
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。 廃藩置県は、明治4年7月でしたから、それまでは「今までの殿様(知事)」ということですね。 明治元年・二年の「年貢割付状」や「年貢皆済目録」のようなものがあれば、分かると思いますので調べてみます。

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その他の回答 (2)

  • rikimatu
  • ベストアンサー率19% (629/3297)
回答No.2

いえ、明治政府も初めの方は年貢でやっていましたよ。NO,1さんの言う通り納める場所が変わったというだけで。 西南戦争などの集まった武士たちは早い話こいつらにはっらう給料(年貢米)がバカにならなかったからリストラしたという意味合いもあります。 地租改正した時に、地代の3%ときめて検地とかをしてそこから農家の自己申告にしたらしいです。(一揆をおこされたら困るから。)

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 明治元年、役場がそんなに早く整備されたのでしょうか。 割元が年貢を徴収したとしても、どこへ納めたのだろう、という疑問です。 旗本は、なくなっていますから。

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  • tzd78886
  • ベストアンサー率15% (2590/17104)
回答No.1

基本的には役場に代わっただけです。農民はそれまでと同じように納めていました。今でいう税金のようなもので、当時はまだ現金ではなく、米で納めていたのです。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 明治元年、役場がそんなに早く整備されたのでしょうか。 割元が年貢を徴収したとしても、どこへ納めたのだろう、という疑問です。 旗本は、なくなっていますから。

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