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将軍不在の江戸城での政事、儀式

14代将軍・家茂は慶応元年5月16日、長州再征のため江戸城を出発しています。 この日以後、江戸城は3年近く将軍不在となったまま、明治となります。 そこで疑問に思うのですが、この期間の江戸城における政事、儀式はどうなったのでしょうか。 例えば、「御目見え」や月次登城、礼式日の登城など将軍が出席する行事が多数あったと思いますが…。 また、老中は、将軍のお供で上洛した人もいれば、江戸に残る人もいたのですか。 よろしくお願いします。

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  • tanuki4u
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回答No.2

将軍のいるところが幕府です。 なので、史料に残っているもので言うと、八朔に関しては 維新史料綱要 【編/冊/頁】 7巻 201頁 【和暦年月日】 慶応3年8月1日(18670080010) 【綱文内容】 征夷大将軍徳川慶喜、八朔祝儀のため、高家京極高福「丹後守・侍従」を以て太刀及び馬を献ず。 とのこと。形式的には儀式は行われている。

kouki-koureisya
質問者

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ご回答ありがとうございます。 八朔祝儀を行ったということは、その他の行事も簡略化して行われた可能性もありますね。 八朔祝儀は太刀および馬を宮中に献上するそうですが、慶応3年8月時点では、慶喜は京にいましたので、好都合だったでしょう。 >将軍のいるところが幕府です。 なるほど!明快。

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回答No.5

こんばんわ。 bungetsu です。 >>将軍が不在だから儀式ができるわけがない、ということですね。 そういうことです。主人(あるじ)が居ないのに、面倒くさいことをする意味がなかったということです。 もし、伝統ある儀式を施行するとすれば、家茂のいる二条城でですが、家茂は朝廷との板挟みになって、若くして死んでしまいましたので、何もできなかったのでしょう。 >>政事に関しては、例えば幕領や江戸市中で起きた諸々の案件があると思うのですが、当然、江戸に残った老中が決済したと思えばよいのでしょうね。 そうです。 江戸に残っていた、松平慶永が全ての決裁権を持っており、安藤信正や安部正外、松前崇広などが審議に加わりました。 >> >★松平慶永は、15代慶喜の代まで老中を務めましたが、大政奉還について朝廷との調停に失敗し辞職。 老中に就任したのでしょうか。 老中には就任していません。 「政治総裁職」という臨時(特別)の役職で、老中よりも上位に位置しました。 現代で言うと「全権大使」のような役目をしました。

kouki-koureisya
質問者

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ご回答ありがとうございます。 慶応元年5月16日以降、江戸城では将軍不在となります。 将軍不在時の江戸城における政事についての疑問でした。 松平慶永が政事総裁職であったのは、家茂が江戸城に居た文久年間だったと思いますが、政事総裁職を解かれても、江戸に居た老中の相談にのっていたと解釈しました。 何度も回答を戴いて恐縮です。

回答No.4

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>この期間の江戸城における政事、儀式はどうなったのでしょうか。 >>例えば、「御目見え」や月次登城、礼式日の登城など将軍が出席する行事が多数あったと思いますが…。 これは、二つを合わせてお答えしましょう。 家定の代には、政治総裁職という新たな役職ができ、松平慶永(まつだいらよしなが=越前国福井32万石)がその職に就きました。一旦は、大老の井伊直弼と対立をし、役職を退きますが、井伊が暗殺されてから復職しています。 そして、江戸城(正しくは、舞鶴城=ぶかくじょう)で幕政の指揮をとり、決裁権を持っていました。つまり、将軍の代行役をしたことになります。 時の老中には安藤信正や板倉勝静(かつきよ)、安部正外(まさと)、本荘宗秀(ほんじょうむねひで)、松前崇広(たかひろ)、小笠原長行(ながみち)らがいましたが、 ★松平慶永は、15代慶喜の代まで老中を務めましたが、大政奉還について朝廷との調停に失敗し辞職。 ★安藤信正は、皇女和宮の降下に奔走したが、文久二年(1862)尊攘派に坂下門外で襲撃にあい、身の危険を感じ辞職。 ★板倉勝静は、戊辰戦争では日光山南照院で恭順の意を表したが、奥羽に走り、奥羽越列同盟の参謀となるも同盟解体後函館に渡り抵抗を続けた。 ★安部正外は、兵庫即時開港を主張したため慶応元年(1865)罷免され謹慎処分を受ける。 ★本荘宗秀は、第二次長州征伐では総督徳川茂承(もちつぐ)を補佐するも、捕えた長州藩士を開放し、単独で休戦交渉を始めたため、大坂の家茂に呼ばれて罷免された。 ★松前崇広は、兵庫開港問題で、安部正外とともに英、仏、米、蘭の四国公使と折衝にあたり、勅許を得ずして開港を決したため、責任を問われて罷免。 ★小笠原長行は、戊辰戦争で奥羽越列同盟の参謀として、最後まで政府軍と戦った。 諸国の大名たちも「尊王攘夷派」と「佐幕派」に分かれていましたので、参勤交代も中止され、当然、城内での式日などの登城もありませんでした。 また、御目見得格の旗本などは御家人共々家茂や慶喜に従って従軍していますので、江戸城への登城どころではありませんでした。 但し、御三家は度々登城して幕政に文句をつけていました。 >>また、老中は、将軍のお供で上洛した人もいれば、江戸に残る人もいたのですか。 上記のように、老中でも家茂や慶喜に従って参戦した人もいます。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >参勤交代も中止され、当然、城内での式日などの登城もありませんでした。 >また、御目見得格の旗本などは御家人共々家茂や慶喜に従って従軍していますので、江戸城への登城どころではありませんでした。 儀式については分かりました。 将軍が不在だから儀式ができるわけがない、ということですね。 政事に関しては、例えば幕領や江戸市中で起きた諸々の案件があると思うのですが、当然、江戸に残った老中が決済したと思えばよいのでしょうね。 老中は、いつもどおり月番で交替していたとすれば、複数残ったのでしょう。 3人の老中(小笠原長行、本荘宗秀、板倉勝静)は、従軍して前線に出ていることを知りました。 「将軍の居るところが幕府」と考えれば、老中その他の上層部の大多数も将軍に従って二条城他に滞在していたことでしょう。 以上のように推測できるようになっただけでも私は満足しています。 >★松平慶永は、15代慶喜の代まで老中を務めましたが、大政奉還について朝廷との調停に失敗し辞職。 老中に就任したのでしょうか。 調べてもよく分かりません。

  • tanuki4u
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回答No.3

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%91%89%E6%AD%A3%E9%82%A6 この人などは、江戸にいて自分のところの淀藩が朝廷側に恭順したため立場がなくなっている。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 稲葉正邦は <江戸で将軍の留守政権の首脳として活動していた> のですね。 参考になりました。

回答No.1

そりゃあなた 副将軍と大老が将軍名代を努めたでしょ 老中は将軍にお供してません 付いてったのは旗本と近習です

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

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