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幕府崩壊し江戸城開城。
4月11日、城明渡しのこの日、大奥の一室には、徳川所有の美術品、書籍などいわゆる「宝物」が飾ってあった、という話があります。 何かの本で読んだ私の記憶では、その日城内に入った官軍の誰かの記録では、城内にも大奥にも目ぼしい物は何もなかった、と書いてあったと思っています。 「宝物」説は、どこから出てきた話ですか。 もし、史実であれば「宝物」はその後、どうなったのですか。 よろしくお願いします。
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再登場、失礼致します^^ 再び「真偽は別として」の但し書きはつきますが、 『明治維新財政経済史考/神長倉真民/東邦社/昭和18』にて 面白い記述を見つけましたので御報告申し上げます。 GoogleBooks ◇『明治維新財政経済史考/神長倉真民/東邦社/昭和18』 http://books.google.co.jp/books?id=XFjpqV2U36oC&pg=PT220&dq=%E6%98%8E%E6%B2%BB%E7%B6%AD%E6%96%B0%E8%B2%A1%E6%94%BF%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%8F%B2%E8%80%83++%E5%A4%A7%E6%9D%91%E7%9B%8A%E6%AC%A1%E9%83%8E&hl=ja&ei=ojaETt6qB8zrmAWK8-kG&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=1&ved=0CC0Q6AEwAA#v=onepage&q&f=false 第二編 御用金經濟篇 七、横濱に對する課金其他 (200~201頁) ◎寺島秋介(官軍参謀)遺談 それから臼砲を鑄立てる、多勢で總掛りといふ工合であつた、 が何しろ一番困ることは金がない。太政官も貧乏極つて居るしか仕方ない。 そこで西丸の寶藏へと私と先生大村益次郎と毎日入つたのだ。 御用が濟みさへすれば寶藏へ行つて、何でも金氣のあるものは片端から引張り出した。 銀瓶でも何でも構はぬ、取出して銀座で吹かして一方で金を拵へる、 そうして置いて使うといふ有様でその苦しみといふものは一通りでなかつた。 其中にドルを買つたりして潰したこともある。 また次の如き例もあつた。 ◎「漫談明治初年」 翁前島密曰く、維新匇々の際には随分奇談もあるが、今から考へると實に馬鹿々々しい。 維新の當初朝廷で鐡砲三千挺入用とあつて、獨逸の商人に注文に及んだ。 さて其の價が壹萬五千圓で、品物は調達したが、仕拂の金の調達が出來ぬ。 據所なく五千圓を現金で仕拂ひ、壹萬圓は品物で渡すといふ窮策を取つた。 其の品物は何かと云ふと、徳川氏の什器什物である。 勿論當時城内に幾代の徳川氏が榮華を極めた其の名殘りの贅澤品は充ち滿て居つた。 是等の品物を手當り次第幾千點となく大書院に陳列して商人を呼び寄せて之を見せ、 サア之を一萬圓の擔に遺るから引取れと命じた。 彼是異議を云へば其の儘に置かぬといふ見幕だから、商人は直に承知したが、 實は商人は恐悦であつたに相違ない。 自分も其の陳列された品物を一覧したが、なか\/立派なもので蒔繪ものや陶器や書畫や、 實に目を驚かす程のもので、今などは一品で何萬圓もするものが少なく無かつた。 これは、みな彰義隊戰爭の前後に行はれたものである。 以上
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- dayone
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お久し振りです^^ 秦野エイト>歴史のお勉強>江戸の歴史>江戸文化の破壊者達 -江戸文化を守った人 海江田信義 http://www.ne.jp/asahi/davinci/code/history/edo/index5.html によれば、 ◇『幕末の大奥―天璋院と薩摩藩/畑尚子/岩波新書(新赤版1109)/2007』 (182頁)には、以下のような記述があるそうです。 和宮と天璋院の部屋にはそれぞれ、 嘉祥を表す三幅対の絵画と希代の珍品である香炉と時計が飾られていた。 自らの部屋を普段と同じ状態のまま、飾り付けて退去したという逸話は、 真実といえるが、宝物を残したのは準備が間に合わなかっただけで、 官軍に渡しても構わないという考えがあったわけではなかった。 後日入城した大村益次郎らによって、徳川家の名品は略奪され、 海江田の返還の約束を果たすことができなかった。…(以下略) ほか同様に、GoogleBooks ◇『知らなかった!?大奥の秘密 徳川300年の封印を解く 雑学3分間ビジュアル図解シリーズ/畑尚子/PHP研究所/2009』 http://books.google.co.jp/books?id=JKhFJCE0KToC&printsec=frontcover&dq=%E7%95%91%E5%B0%9A%E5%AD%90&hl=ja&ei=e419Tv-FOO-WmQWdoJSjBQ&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=1&ved=0CC0Q6AEwAA#v=onepage&q&f=false (202頁)にも、以下の記述があります。 明け渡された大奥内部 天璋院が大奥を出た翌日の4月11日、江戸城は官軍に明け渡され、 薩摩藩士である海江田信義ら4人が江戸城に入りました。このとき、 天璋院と静寛院宮の部屋には、嘉祥(めでたさ)を表す三幅対の絵画や、 珍品の香炉、時計などが飾られたままになっていました。退去にあたっ て充分に道具を整理する時間がなかったのです。 海江田は江戸城内に残された徳川家の名品を蔵に厳重に保管して後 日返還するつもりでいました。しかしこれらの品は、あとから入城し てきた長州藩士の大村益次郎らによって略奪されてしまいました。 残念ながら裏付けとなる資・史料は判明しませんが、 著者の畑尚子さんにつきましては、 http://spysee.jp/%E7%95%91%E5%B0%9A%E5%AD%90/1343010/ 下記の ◇岩波書店「徳川政権下の大奥と奥女中」 http://www.iwanami.co.jp/.PDFS/02/6/0241480.pdf の文章から判断する限り、上記2冊の著書内容には信憑性があるように思います。 なお、「…長州藩士の大村益次郎らによって略奪…」について調べてみると、 明確な典拠が示されていませんので真偽は?ですが、 上杉家の戊辰戦争> 上野戦争:武士の誇りを叩き潰し、徳川家再興の野望を打ち砕いた大村益次郎の智謀 http://www7a.biglobe.ne.jp/~soutokufu/boshinwar/ueno/main.html に下記のような記述があります。 大村益次郎の東下と戦争準備 …資金25万両を交渉役の大隈重信から分捕り、 更に江戸城内の徳川家の財宝を外国商人に売り払い、 最終的には新政府の会計をつかさどる由利公正に掻き集めさせた20万両を併せて 何とか50万両を揃え、 これにより作戦実地に必要な銃砲弾その他の物資を揃えていよいよ作戦実地に入ります。… 以上 中途半端なカキコミで申し訳ありませんm(_"_)m
お礼
ご回答ありがとうございます。 大村益次郎については、おいおい調べてみます。 私は、司馬遼太郎氏の「大村益次郎感」しか知りませんでしたので、「泥棒説」には驚きました。 どこまで真実なのか、新たな疑問が湧いてきました。 私の最初の疑問は、「天璋院が江戸城を去るとき宝物を飾ったのか」ということでしたので、この疑問はお陰さまで解消しました。 ありがとうございました。
- 川原 文月(@bungetsu)
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こんばんわ。 私は、自称「歴史作家」です。 >>4月11日、城明渡しのこの日、大奥の一室には、徳川所有の美術品、書籍などいわゆる「宝物」が飾ってあった、という話があります。 これは、天璋院篤姫の日記に、 「我は去る、されど徳川は永遠なり、徳川の宝、城を飾りて全てを投げ打つ、城は黄金色なり」 という記載から千代田城の開城に「表」も「大奥」も徳川家代々の宝物で飾って、篤姫は身一つで一橋家に向かったと考えられています。 >>史実であれば「宝物」はその後、どうなったのですか。 官軍にしてみれば徳川の全てが「憎い」・・・従って、何も価値のある物は無かった・・・と、考えられます。 現代では、そうした物全てが歴史的価値を見出せるのですが、当時としては、全く無意味だと感じたのではないではょうか。 千代田城開城後の「宝物」と呼ばれる物は、徳川御三家や御三卿の各家に引き取られ、現代では「徳川美術館」などに保管されています。
お礼
ご回答ありがとうございます。 そうなんですか!! 天璋院の日記にあるのですか。 私は、てっきり「作り話」だと思っていました。 大奥へ、どたどたと踏み込んで来た官軍の兵も、綺麗に飾ってある「宝物」には、その価値が分からなくても、一瞬たじろいたことでしょう。 略奪されずにすんでよかったです。
お礼
再度のご回答ありがとうございます。 態々調べてくださったのですね。 ご教示のURL『明治維新財政経済史考/神長倉真民』は、読みやすく、実に面白かったです。 江戸城開城当時、倒幕勢力に「金カネ」が全く少なかったという事情がよく分かりました。 宝物蔵を漁りまわる姿が目に浮かびます。 この本をヒントに検索すると、広島経済大学の「経済研究論集 由利財政の研究」を見つけました。 この「論集」の中に、『明治維新財政経済史考』の記述の一部が引用されています。 「財政」をキーワードに調べるとは、まさに「目からうろこ」でした。 度々のご教示に感謝します。