- 締切済み
和歌陀羅尼観について
和歌陀羅尼観とはどのような考え方なのでしょうか。わかりやすく教えていただければと思います。よろしくお願いします。
- みんなの回答 (1)
- 専門家の回答
みんなの回答
- usagisan
- ベストアンサー率71% (105/146)
「自信なし」ですが、以下、私の推論。 一般的に「〔甲〕〔乙〕観」というと、日本の神は仏教の仏が示現したものという神仏習合・神仏混淆・本地垂迹の考え方を表す「神仏一体観」のごとく、〔甲〕を〔乙と〕みなす(今の例で言うと「神仏」を「一体」とみなす)考え方をいいますよね。 したがって、「和歌陀羅尼観」は「和歌は(単なる芸術・文学作品でなく、実は)陀羅尼であるという考え方」ということになりますよね。 「陀羅尼」はご存じと思いますが(念のため、goo国語辞書の当該URLを挙げます)、 http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%C2%CB%CD%E5%C6%F4&kind=jn 「ナントカ、カントカ、ソワカ」というような梵語の呪文のようなもので、それぞれの仏の教えや働きの真髄を表す言葉ですね。 よって、「和歌陀羅尼観」は、「和歌は単なる芸術でなく、仏教の教えの精髄を示したものであるという考え方」ということになります。 たとえば、法華経化城喩品の偈の翻案とされる和泉式部の「暗きより暗き道にぞ入りぬべき遥かに照らせ山の端の月」(この歌に関しては、) http://www1.ttcn.ne.jp/~agora-shoronbun/bun6.htm を参照ください。) のように、歌は仏の教えをこの世の人々に教えるために詠まれるのだという考え方ではないかと思います。 googleの検索で「和歌陀羅尼観」がヒットするのは次の一件のみですが、この例から見ても私の推論はそう間違ってはいないと思います。 > 金井清光氏は和歌陀羅尼観も踏まえながら、一遍の和歌は「神仏の託宣にほかならない」(「一遍の和歌と連歌」『時衆研究』一九六六年『時宗文芸研究』風間書房一九八八年P八五) とし、(以下略) http://sorami1.hp.infoseek.co.jp/kotokoui1.htm