- 締切済み
優しさってなにですか。
長いですけど、誰か教えてほしいです。 私は20歳になる今までずっと優しさってなになのかわからずモヤモヤしてたのでどなたか教えてください。私が今の時点で最終的に行き着いたのが、どんな優しさも「利己」ということです。 私は文字で書けば優しい人間だと思います。人の意見も自分の意見と同じように尊重するし、困っている人がいれば助けますし、自分に悪いことをした人でも寛容に自分の思ってもみない複雑な気持ちからの行動言動だったのかなと許したり、ほんとに怒りません。でもそれは、その人が自分を嫌いにならないようにだし、人に好かれるようにです。そう思ってみたら優しさって自分の利益があったり、自尊心を満たしたりする以外のものってあるのか、と思いまして。もちろんわたしだって一心不乱の優しさを発揮することはあります。全然見知らぬ子供が危ない時、自分の危険を顧みずに助けることだってあります。ある人を守るために自分が嘘をついてわざと悪い奴をひきうける、なんてこともあります。が!その行動言動のほんの一瞬の隙間に無意識にも、この子を助けた自分は賞賛されるだろうか、とか後で感謝されて嬉しい気持ちが味わえるだろうなとかたーぶん自分は考えてるんじゃないかと思います。覚えてませんけど。そうおもったら本当に見事に、いわゆる学校の道徳の時間でならうような美しい「優しさ」ってわたしにはないような気がしてうんざりです。そのうんざりも、そんな美しい「優しさ」という概念を学校や親から植え付けられたから感じるものだと思いますが。家族を守る心もすごくあります!でもそれも自分になくてはならない存在がなくなったとき自分がすごく傷つくから守るのであって、それも全部自分のためかよ!泣っておもいますね笑家族が傷つくのをみたときすごく悲しくなって慰めます。その慰めも傷つくのをみて傷つく自分のためです。 優しさってこれで正解ですか?
みんなの回答
言いたいことも解るし、私も同じ感覚ですが、 別にそれでいいと思ってる。 そういう思考に至った時点で、真性の優しさを持つ人間にはなれない。 利己的でいいじゃん。自分の人生、自分の利を求めて当然。 周りに演じた優しさで優しいと勘違いされるのは、 お互いマイナスにはならないですよ。 迷惑かけてないし、後は開き直ればいいだけ。 自分のことを優しいとか言ってる人はバカジャネーノと思うけどね。 お前ごときが優しさを語るな、と。 自分で言うな、と。
- gongorogon
- ベストアンサー率16% (706/4250)
あなたの考え方はいわゆる「偽善」でしょうか。 私の考え方は「犠牲」です。 自分が満足の状態で相手を思いやることは、誰にでもできます。 しかし、窮地に陥っていても相手を思いやることができるのが、本当の優しさだと思うからです。 でもあなたの今の振る舞いで、良いと思いますよ。
お礼
回答ありがとうございます。そうですよね、余裕がない時こそ本当に優しい人間か寛大な人間であるか試されますね。
- Dr_Hyper
- ベストアンサー率41% (2483/6032)
「利己」と言えば,そうだと思います。でも人はそれを「選択」と呼びます。 川で小さい息子が溺れている,自分は泳げないけどどうしよう そこに選択があります。このまま大声で助けを呼んでみよう。でも周りに自分より近くにいない。子供が酸欠になれば脳に障害がでるかもしれない。 そんな子供のかわいそうなところを見てられない,ましてや子供がいない家庭など俺は考えたくもない。じゃあ俺がいく。俺が死んだら?でもそのとき子供がいない家庭はみなくてすむし,すくなくとも子供はお父さんが近くに来てくれれば少しだけ安心するよね。 これは利己ですよね。でもまわりの人はそれを父親の愛と呼ぶでしょう。 息子はお父さんの勇気と愛情を一生忘れないでしょう。 それが普通なんじゃないですか?ぎりぎりの選択になったとき,何かの基準がなければ自分は選択できないですよね。選択があるかぎり,そこにはどちら向きに進んでも自分のなかでの意思があり,それは外からどうみても自分なかでは「利己的な」選択であるはずです。 その利己的な選択が,周りの人を幸せにできるように,人間はずっと学び続けなくてはいけません。守るべき人の為に,守られるひとのために,少しでもただしい選択ができるために,多くの事を学び,後悔しない選択ができるようにするのだと思いますよ。 そうゆう意味であなたはまちがっていません。
お礼
回答をありがとうございます。自分では湧き出なかった言葉を教えてくださり感謝します。とても爽快なきもちになりました。
- E-1077
- ベストアンサー率25% (3258/12620)
たぶん不正解だろうね。 後付される理由とか、考える時点でズレている気がします。 利己的であったりすることとは別。 また、自分のためであるという結論はまあ分かる。だけどそれはレッテル貼りでしかないと思います。優しい自分を演じているだけ。心の底から利害関係なく、本心で湧き出るモノが、そうであって欲しいと思います。 結局は自己満足なのは、それはそうだとしか言えないでしょうね。 本当の優しさとは労り労い、そして真実から目を背けること無く向き合う、そうできるように行動することじゃないかな?と、考えています。 私は貴方の年代の時にはこの様な事は考えた事はありませんでした。 あって当たり前な事は敢えて考えて行動する事が無かったからです。 本当の優しさとは敢えて突き放す様な事も含まれると思いますし。 獅子が子を谷底に落とすような、あれです。 優しさを持つ自分に酔っている間は、本当の意味で優しいひととは言えないかな、とも思います。 あくまでも、私の個人的見解です。
お礼
回答をありがとうございます。そうなのです、私は後付けしています。優しさを演じる自分がいるのが悩みです。私はその本当の意味での優しさを知りたいです。それをもう自分がもっているのに敢えて後付けで利己というレッテルを貼っているのかということも疑いましたが、どちらにしろ私はまだ「優しさ」の極致には達していません。
お礼
回答ありがとうございます。そうですね、開き直ります。