• 締切済み

メタファの可能性

言葉ってメタファの性質があって、 いくらでも言い換えたり、こねくり返して、 面白い表現が可能で、 文学や詩も出来たとは思うのですが、 もしかすると、 個人1人で出来るメタファはその人の性格とか知識に制限されている様な気がするので、 メタファって無限に思えますが、実は有限じゃないのかなー、と思って質問に至りました。 もちろん、知識を増やせば、その人のメタファの豊かさを高める事は出来るとは思うのですが、 メタファだけに頼ってしまうと、 いつまで経っても同じ様なものしか生み出せないのではないのかなー、と思いました。 ミシェル・フーコーの「言葉と物」 デリダの「脱構築」 これらも思い浮かべながら質問に至りました。 なんだか質問の趣旨がぼんやりしてきましたが、 ご教授お願い致します。

みんなの回答

  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10005/12514)
回答No.2

面白いテーマを提起してくださり、ありがとうございます。 以下は、「メタファー(の可能性)をめぐる私の雑考」です。 (1)メタファーは、言語の基本構造の一部を成している、と言えるかも知れません。繋辞(copula)を見れば一目瞭然です。「AはBだ」という表現が頻繁に用いられます。しかし、よく考えてみれば、厳密な現実としては、A=Bはあり得ず、あくまでもA=Aでしかないですよね。にもかかわらず、こういう表現が使えるのは「メタファー機能」のおかげです。 (2)かつてオルテガという哲学者は言いました。「メタファーは、真理の狩人が使う猟銃である」と。その真意は何か。あるいは、その背景にあるものは何か。おそらく、「思想の分野で何か新しいことを言おうと思ったら、既成の表現では表わしきれない」という苦悩が横たわっていたに違いありません。 (3)「現代のエスプリ メタファーの真理」(田中一彦編)という本を見ると、メタファーが如何にさまざまな分野に関わるかということを改めて思い知らされます。哲学、心理学、臨床医学、宗教論、文学、芸術論、社会学、情報科学、広告論…。(突然のパロディーで恐縮ですが、「右を見ても左を見ても、世の中、メタファーばっかりじゃござんせんか」)。それはともかく、もし比喩表現に直喩(明喩)しかないとしたら、如何に言語表現が貧弱になることだろう。上記の多くの分野が成立しない、少なくとも「豊かさが大幅に制限される」ことでしょう。メタファー(隠喩)が大事なのです。 (4)言語学者サピアと人類学者ウオォーフは言いました。「我々はみな自分の用いる言語によってがんじがらめに拘束されている」(サピア・ウォーフの仮説)と。すなわち、我々の思考や行動、とりわけ知的営為が、言語に縛られており、それに左右され、決定づけられる、ということのようです。極端な単純化との謗りを受けるかも知れませんが、具体的な例を挙げれば、「語彙力1万語の人と2万語の人とでは、頭脳労働の能力が2倍違う」、というような仕儀になるのだと思います。  ということで、言語は、想像を絶するほどに広く深く我々の生活と営為に作用し影響を与えるようです。「すべての学問は言語学だ」と断言した学者もいるほど、知的営為での言語的拘束は計り知れないものがあります。そういう、言語の基本構造の一角、いや中核、メタファーは、知的営為全般に関わりますが、特に思想家や芸術家にとっては、「死活問題」になるほど重要な修辞法である、と言えるのではないでしょうか。

  • kaitara1
  • ベストアンサー率12% (1154/9141)
回答No.1

言葉とは別に精神活動すべて○○は××のようなものであるという比喩のはたらきによって成立してはいないでしょうか。ここで○○は現在当面している対象で、××というのは記憶として蓄えられている、それまでの経験とします。言葉というのは記憶をより取り出しやすくする働きがあるように思います。また○○を新しい××へと変換してくれる働きもあると思っています。

関連するQ&A