Understanding the relationship between discourse and meaning
Exploring the definition of discourse and its connection to meaning
Introduction to discursive formation and its significance
Discourse and meaning
またまた、質問させていただきます。来週にプレゼンを控え用意をしている所なんです。私のトピックはコミュニケーションでフーコーのdiscourseにフォーカスを当てていくつもりです。そこでまず、コミュニケーションについてG. Kressが言うにはコミュニケーションは単なる情報の交換ではなくそれじたいmeaning(日本語のうまい語が見つからないので英語のままにします--- 意味)だと言うのです。そこでです、フーコーのdisourseとmeaningの関係について考察したいと思っているのです。まずフーコーの言うdisourseの定義についてS, Hallがこのように述べています。(英語ですみません)
discourse とは歴史的瞬間における特定のトピックについての知識を表す特定の方法、または話すための言葉を規定する命題の集まりと述べてた後
... Discourse is about the production of knowledge through language. But... since all social practices entail meaning, and meanings shap and influence what we do --- our conduct --- all practices have a discursive aspect. (Hall, 1992 p.291).
discourse は言葉を通した知識の生産(物)。....社会の全ての慣行/習慣はmeaning(意味を)含意し(持ち)、また私たちの行動はmeaningsによって影響を受け形どられる。それは全ての慣行/習慣がdiscourseのs側面を持っているからにほかならない。
discourseとmeaningの関係について、discourseとは言葉を生成する知識の集まりであり、その知識で定義された言葉の意味によって私たち従う慣習/慣行は成り立っている.... という解釈で合っているでしょうか?またdiscourseとmeaningについてわかる事があればお教え下さい。それとdiscursive formationについて教えていただけませんか? 長い文章で申し訳ありません。
どうも。質問させていただきます。まず、signifierは僕らは、単なる文字として捉えるように教わりました。そしてsignifiedは先生からthe image conception、つまり犬とか猫という言葉、または音から表される(表象)イメージだと。しかしsignはghostbusterさんの言うようにarbitrary(この単語の日本語ってなんて発音するんですか?難しいですね)な関係であって自然な結びつきではないという事でした。記号学的に文字を見た時、単語を単なる文字として、そしてそこから引き起こされる意味をまず考えると思います。また記号、単語達は文法によって決められたcontextの中で意味を生成する。僕はまずこのsign(記号って言いづらいのでsignにします)の意味は他のsignたちの持つ意味との関係で交互に支えあい、またdiscourseがをそれを取り持っていると考えています。そして一度contextの中に単語を、文法に従い順番に入れた時、意味を固定することができると。ただDerridaなどが言っているように、意味を固定する事は実際にはできない、私たちは違う意味を文脈から読み取ることができると。ここで質問なんですが、contextがいわゆる、表象なのでしょうか?幾つかの単語で一つの意味を生成する。つまり文章を構成するタブロー(sign)sから一つの表象を生み出すという事なのでしょうか?以前、ここで質問した事がありましたが、”意味自体が表象なのでは”というのはこの発想から来ています。discourseによってsigns---shignified(意味)はお互いに関係を支え、また文法によって統制されたcontextの中から特定の意味を抽出し、それを表象として我々は捉える...という考えは間違っていますかね?またこのsignifiedの持つ”意味”についても、それがdiscourseだと断言するにはちょっと自信がありません。ちょっとここでBarthes のquoteを入れます。
the search carried out a horizontal set of narrative relations may well be as thorough as possible but must still, to be effective, also operate ‘vertically’: meaning is not ‘at the end of the narrative, it runs across it’ (Bathes, 1977, pp. 87).
基本的に文章は左から右へ読まれて行きます(英語の話ですけど)。しかし私たちは意味を常に縦方向に探しながら文章を読み取って行く。これは全てのsignsが歴史の中で意味をsignified に蓄積しているためだと、Barthseは述べています。このため文章が表象するものが、一定ではない、つまり表象自体の関係によって意味は成立しない--- ”表象そのものに ”他の物(質)との関係の系統/体系”を成立させる役割があるわけではありません。”という事なのでしょうか?つまり上記してるように、signisが表象を作り上げている、ってことなんでしょうかね?フーコーはベラスケスの「侍女たち」についても質問したい事はありますが、これは次回にします。
回答ありがとうございました。 AC/DCは伝説的な位置づけなっていまが、年代層にやはり偏りがみられますね。家にいるおっちゃんはAC/DCが今でも大好きですね。よくBon Scottの墓はこの街にあるんだぞ!と自慢気に大喜び。それと替え歌をよく歌っています。”it's a long way to the shop, if you want a sausage role ♪”だそうです。うーん,,,嘘笑いすらできない状況です。
話変わりますが、ghostbusterさんは"stolen children(stolen generations)"って聴いた事がありますか?かなり前のジャーナリズムの講義で僕も知ったんですけどね。Australian Aboriginal children のことなんですけど。子供を英教育し、また交配によってアボリジニンを絶滅させようとしたみたです。講義のとき、実際に色が白く、金髪で目が青い(顔の造り-骨格はアボリジニンでした)アボリジニンがゲストで来てました。まぁ講義は朝早く、彼の英語はAussie発音すぎたため、良く理解できず、眠気も手伝い彼の発音をララバイにして寝てしまいました(笑)。ふとPost-colonialismで思い出しました。質問は明日上記します。
質問者
補足
質問させていただきます。
まず”表象も自律性を失います。それはなぜか。近代に入って新しく〈人間〉という概念が登場したからです。この〈人間〉は「語る主体」「労働する主体」「生きる主体」として現れる。ベラスケスの見えない王の位置に実際の人間が入ってくるのです。”ですが、ベラスケスの絵が表象するものはそれ自身で一つの世界を表している事だと思っています。それは画家、観客、そして被写体がこの絵の中に入り込んでいるためで、そしてこれら画家、観客、被写体がsignsとして機能しこの世界を表象していると認識しております。ここで第一の質問なんですが画家、観客、被写体はタブローではないですよね?もしこれがタブローならsignsとタブローは同一ってことになりますが... おそらく同一なんだと思いますが。
またベラスケスのラス・メニーナスは17世紀の半ばから後半にかけて描かれた作品です。これはちょうど啓蒙がヨーロッパで始まった頃を指す年代だと思いますが、このころの絵画、文学は一部中流階級による客観的な作品達が多くを占めていたと認識しております。(これがいわゆる17世紀におけるmodernityとRealismですよね?)一方でimprssionism, dadanismなど同時期に主体を表す作品が登場してくると思いますが(modernism)、これがghostbuster差の言われた”表象も自律性を失います”になるんですよね?つまり客観から主観に変わったという事でしょうか?客観的なタブロー、epistemeがこの時瓦解し、主観と言う新しい”見方”(んー、表現しづらいな)になった、ということなのでしょうか?modernismは一部中流階級(すみません、うまい言葉が浮かびませんでした)のrealism(客観的表象)へ疑問をなげかけ、post-modernismへと継承されいく、こんなところで合ってるでしょうか?
ちょと話しが移りますが、物語の中に登場する人物などは特徴づけがされていますよね。例えば目の色とか、着ている洋服、身につけている装飾品(cluster of character traits)などが作品における人物を表象(特徴)していると思いますが、ここでです”(特徴が属を決定すると思ってはならない。属が特徴を決定するのだ。)”なんですが、物語の中の人物達の属とはdiscourseになるのでしょうか?つまり他の物との比較、うーん苦しいな、ジャンルをさしているということですよね。つまりdiscursive konwledge によって属が決定され人物達が表象されるということですよね? またもし作品全体を見た時、それぞれの人物たちが今度は作品を特徴づける、表象からsignsまたは属に変わり物語全体を表象するという考えは間違っていますか?
全く関係ないんですけど... 関係なくもないか、ghostbusterさんはLacanの the imaginary, the symbol, the real そしてthe mirror stageについて何かご存知でしょうか?いまちょっとLacanに手をだそうとしているんですよ。おそらく最後の論文は、FoucaultとLacanになると思うんですけどね、もし知っていればご教授願いたいです。一応質問はすでに、このコミュに入れてあります。
それからsausage rollでした(笑)、ソーセイジの役割になってしいました(下記)。
こんにちは。
南半球のそちらは秋なんですね。
こちらは初夏の気配が色濃くなってきました。
さて、わたしはカルチュラル・スタディーズはあまり詳しくないので、スチュアート・ホールは名前ぐらいしか知りません。
とりあえず引用された箇所で検索をかけてみると、こんなページがヒットしました。
http://www.georgetown.edu/faculty/irvinem/CCTP797/CCTP797-ideology.html
出典は『西洋と非西洋 ディスクールと権力』ね。
おおっ、ポスコロ! という感じですが(笑)
ざっと見ていきましょう。基本的なタームには定訳があるはずなんですが、そういうのは知らないので厳密に見ていくとおかしいところがあると思うんですが。
“A discourse is a group of statements which provide a language for talking about ? i.e., a way of representing ? a particular kind of knowledge about a topic. When statements about a topic are made within a particular discourse, the discourse makes it possible to construct the topic in a certain way. It also limits the other ways in which the topic can be constructed…
ディスクールとはひとかたまりの言語表現である。その言語表現は、あるひとつのトピックをめぐって、(表象の一方法として)ある特定領域における知識が語られる、その言葉を明らかにするものである。
ひとつのトピックをめぐる言語表現が、ただひとつのディスクールの内でなされるとき、ディスクールによって、そのトピックがある特定のやりかたで構築されることが可能である。同時にそれは、別のやりかたでその話題が構築されていくことに制限を加えることでもある。
“…it is not based on the conventional distinction between thought and action, language and practice. Discourse is about the production of knowledge through language. But it is itself produced by a practice: ‘discursive practice’ ? the practice of producing meaning. Since all social practices entail meaning, all practices have a discursive aspect. So discourse enters into and influences all social practices...
「これは思考と行為、言語と実践という従来の区分に基づくものではない。ディスクールとは言葉を通した知の所産なのである。とはいえ、ディスクール自身、実践によって産出されたものである。「言説的実践」この実践によって意味が産出される。あらゆる社会的実践は意味を喚起するので、言説としての側面がある。したがってディスクールはあらゆる社会的実践に入り込んでいく。
おそらくこの「言説的実践」っていうのは、スチュアート・ホールのタームですね。
そう思って検索すると、こんなページがヒットしました。
http://homepage.mac.com/morihiro1966/hall/representation.htm
これ、すんごいわかりやすい。
たぶん、ここを読むとだいたいのことがわかるんじゃないかと思います。
最初の方でいきなり「表象」a way of representing が出てきてなんだろう、と思ったんだけど、これを読んでよくわかりました。
フーコーのディスクール分析というのは、そのディスクールが統一性をもつ集合体として認識されるためになにが必要であったかを見るものなんですね。
たとえばある時代にあって、狂気について語られたディスクールの全体を明らかにすることで、逆に語られなかった空白の場所を、のちの時代と比較しながら明らかにしていく。
そうすると、その時代の狂気のディスクールの欠落部分が明らかになる。
そうして、語られなかったことが語られるようになった原因も見ることができる。
つまり、フーコーはディスクールを通して、その時代ありようを考察できる、と考えた。わたしたちが空気のように気がつかない「現代」というものをその差異によって浮き彫りにしようとしたわけですね。
それをホールは(非言語的なディスクールの方は無視して??)少し別の角度から考えていく。
> 言説は、実践についてのある特定の主題に関する知識を参照する、あるいは構築するさまざまな仕方のことである。〔言い換えれば〕ある特定の主題、社会的活動、社会における制度的な場に関する語り方――すなわちそれに関連する知や行為のかたち――を供給する考え、イメージ、実践のかたまり(あるいは編成)のことである。これらの言説編成discursive formationは、社会的な活動のある特定の主体や場に関して私たちが作る公式、あるいはそれらに関連して私たちがなす実践において、何が適切で何が適切でないかを明らかにする――すなわち、当該のコンテクストにおいて、どの知識が有益で、適切で、「真実」であると考えられるか、またどのような種類の人、あるいは「主体」がその性質を体現しているのかということを。
こうやって言語や意味がどのように使用されているかを見ることで、現実の中で言語や意味がどのように機能してきたか、をあきらかにしようとしているわけですね。
ここから、ホールの「意味は言語を通して生成される」というのもそういう脈絡に置いて考えるといい。
なるほどなあ、と思います。
なにぶんスチュアート・ホールのほうを読んでいないので、どこまで対応できるかどうかわからないんですが、わかりにくいところがあれば、またどうぞ。
回答ありがとうございました。
お久しぶりです。今夜はこっちは特に寒く暴風雨になっています。
私は去年までマスコミを専攻してました。ここでカルチャスタディを少し齧っていたのですが、今年からliterary and culture に変え、本格的にこれの勉強を始めました。周りからは結構反対されましたけど(苦笑)
スチュアート・ホールは僕たちliterary and culture students にとってはアイドル的な存在なんですよね(笑)。好き嫌いに関わりなくほぼ皆鞄の中に彼の本を忍ばしています。使い勝手の良い本ではありますが、もちろんある程度の知識を要求してきます。今回引っかかっているのはやはり表象ですね。discourseというのもその昔、マスコミの勉強をしていた時、レクチャーに"it is How to talk"と教わりました。確かに簡単に言えばそうなんでしょうけど(笑)ありがとうございました。質問は上記します。
質問者
補足
ちょっと今回は質問と確認したい事があります。それはフーコーの言う『representation/表象』です。ますHall (1992)" He (Foucault) syudied not language, but discourse as a system of representation" and "It (discourse) defines and produces the object of knowledge)" と述べています。ここでもう一つquoteを入れさせていただきます。
If I kick a spherical object in the street or if I kick a ball in a football mutch, the physical fact is the same, but its mening is different. The object is a football only to the extent that it establishes a system of relations with other objects, and these relations are not given by the mere referential materiality of the objects, but are, rather, socially constracted. This systematic set of relations is what we call discourse (Pitkin, 1972).
私が道路で蹴る球体と、サッカーマッチで蹴るボールは物理的事実に基づけば同じで物あるが、その意味を異なっていると言えよう。物(質)がサッカーボールに変わるのは他の物(質)との関係の系統/体系が確立した時点である。これは単に関連性のある物質性によって与えられた関係ではなく、それらはむしろ社会的に構成された関係だと言えよう。この系統化された関連の固まりを私たちはdiscourse と呼ぶ。
ここでです表象とdiscourseそしてmeaningについて考えてみたんですけど。まず表象なんですけど、これは幾つかの表(リスト)であり、上記の通り”他の物(質)との関係の系統/体系”を成立させる役割があるのだと思います。前のepismeteの質問の時、ghostbusterさんから説明を頂いた、幾つかの定義で動物というカテゴリーが造られているように---つまり物の知識によってそれが何であるかを認識する(discourse)。おそらく私たちは物を見ているのではく、言葉を通した意味つまり知識を見ているっていうことになりますよね??意味それ自体が表象であるといえませんかね?
一応、the order of things の『Las Menisas』を読んでみたんですけど、これがまた難解なんですよね。
お礼
返答遅れて申し訳ありませんでした。最近どうも、assignmentが立て込んでいて、自分の好きに勉強を進めて行く事ができません。今日までに、三つの論文を書き上げ、二つのプレゼンを終え、先週、テストをなんとかこなしたところですが、明日またもやプレゼンを控え、それに時間を取られている状況です。これが大学生活と言ってしまえば、それまでですし、自分の選んだ専攻科目達なので文句は言えませんが、愚痴の一つも言いたくなります。 ところで日豪の架け橋はもっと優秀な人間にまかせたいですね(笑)、僕は自分のしたい勉強にかまけていたいと思っています。ありがとうございました。明日、質問を入れたいと思います。
補足
どうも。質問させていただきます。まず、signifierは僕らは、単なる文字として捉えるように教わりました。そしてsignifiedは先生からthe image conception、つまり犬とか猫という言葉、または音から表される(表象)イメージだと。しかしsignはghostbusterさんの言うようにarbitrary(この単語の日本語ってなんて発音するんですか?難しいですね)な関係であって自然な結びつきではないという事でした。記号学的に文字を見た時、単語を単なる文字として、そしてそこから引き起こされる意味をまず考えると思います。また記号、単語達は文法によって決められたcontextの中で意味を生成する。僕はまずこのsign(記号って言いづらいのでsignにします)の意味は他のsignたちの持つ意味との関係で交互に支えあい、またdiscourseがをそれを取り持っていると考えています。そして一度contextの中に単語を、文法に従い順番に入れた時、意味を固定することができると。ただDerridaなどが言っているように、意味を固定する事は実際にはできない、私たちは違う意味を文脈から読み取ることができると。ここで質問なんですが、contextがいわゆる、表象なのでしょうか?幾つかの単語で一つの意味を生成する。つまり文章を構成するタブロー(sign)sから一つの表象を生み出すという事なのでしょうか?以前、ここで質問した事がありましたが、”意味自体が表象なのでは”というのはこの発想から来ています。discourseによってsigns---shignified(意味)はお互いに関係を支え、また文法によって統制されたcontextの中から特定の意味を抽出し、それを表象として我々は捉える...という考えは間違っていますかね?またこのsignifiedの持つ”意味”についても、それがdiscourseだと断言するにはちょっと自信がありません。ちょっとここでBarthes のquoteを入れます。 the search carried out a horizontal set of narrative relations may well be as thorough as possible but must still, to be effective, also operate ‘vertically’: meaning is not ‘at the end of the narrative, it runs across it’ (Bathes, 1977, pp. 87). 基本的に文章は左から右へ読まれて行きます(英語の話ですけど)。しかし私たちは意味を常に縦方向に探しながら文章を読み取って行く。これは全てのsignsが歴史の中で意味をsignified に蓄積しているためだと、Barthseは述べています。このため文章が表象するものが、一定ではない、つまり表象自体の関係によって意味は成立しない--- ”表象そのものに ”他の物(質)との関係の系統/体系”を成立させる役割があるわけではありません。”という事なのでしょうか?つまり上記してるように、signisが表象を作り上げている、ってことなんでしょうかね?フーコーはベラスケスの「侍女たち」についても質問したい事はありますが、これは次回にします。