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詩がわかる人なんて本当にいるのか
若い頃から文学を愛好しています。 といっても、わたしには詩がわかりません。どこがいいのか、わかりません。もちろんわかるものもあります。 で、文芸評論家や自称「詩がわかる」人は、たとえばランボーやコクトーの名訳詩(つまりホンモノ)と、素人がでたらめに言葉を並べただけのインチキ詩(つまりニセモノ)とを、本当に区別ができるのでしょうか。わたしは区別できる人などまずいないと思いますが。 ご意見をお聞かせください。
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名訳詩とインチキ詩、ホンモノとニセモノ。その両者の違いは作品自体にあるのではないように思います。作品を読んで感動する、その感動を他人に伝えようとして評論などの言葉になる、言葉が交わされることで共感が深まり広がる、その深まりや広がりの上に「ホンモノ」と呼ばれ得るものとそうでないものが区別されてゆく。それが実態ではないかと。 ランボーの詩に少しも感動を覚えないけれど、素人がデタラメに並べた言葉に強い衝撃を受け「こいつは天才だ!」と評価する人がいても、少しも不思議ではありません。逆もまたしかりです。分野の如何を問わず、芸術作品を創るということ、受け取る(読む・聴く・視るetc.)ということは、コミュニケーションのひとつの形です。無条件に良いもの(ホンモノ)や無条件に悪いもの(ニセモノ)があるわけではありません。コミュニケーションをどれだけ効果的に成立させるかがこの両者を区分けする手がかりです。売れればいいわけではありません、どれだけ人の心を揺り動かすかとは相関関係が薄いからです。感動が深ければ良いわけではありません、その感動がとても特殊な感性を背景としなければ得られないものならば普遍性を持たないからです。深まりと広がりというふたつの座標軸を持つグラフの中で、作品と読み手とのコミュニケーションの上に生まれる座標がどれだけの面積とどのような形を描くかが、ホンモノとニセモノの違いなのだと思います。 「ランボーという一人の人間が創った詩」と「無名の一人の人間が創った詩」の違いを見分けることのできる人はいないでしょう。けれど、それと「ホンモノとニセモノを見分けることができるか」とは、問題の次元が違うように思います。好きか嫌いかという主観の問題ではなくて、作品の持つ人の感性に訴えかける力がどれだけの強さと普遍性を備えているか、それを察知することができる人は数多くいます。ご質問はその辺りを混同しておられるため、回答者との間で今ひとつ話が噛み合わないような印象を受けました。
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- madoushi
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こんばんは。解るものと解らないものがあるのは至極当然のことでしょう。あなたの主観はきちんとしていらっしゃると思います。ご指摘通り、日本語に訳された外国文学の評論というものは、私自身も疑問に感じてきました。ジャンルは異なりますが、クラークではなく伊藤典夫さんの文章を、ハインラインではなく矢野徹さんの文章を、私たちは読んでいることになるので、原文をきちんと読解して評論する作業ができる人が、それ程多いとは思えません。元来、文学そのものは自己満足の産物であり、とりわけ詩はその最右翼だと思います。ですから、ご意見には全面的に賛成します。従って、文学に関する評論はつまるところ「個人個人の好みが表現されたもの」であって、各自が己の主張をぶつけ合い、結果としてそれらを目にした人々の中から、次代の優れた文学者が出現したり、一人でも多くの人が文学に親しむきっかけになれば、それで存在価値ありとみればよいのではないでしょうか。
お礼
回答ありがとうございます。 >文学に関する評論はつまるところ「個人個人の好みが表現されたもの」であって、各自が己の主張をぶつけ合い… そういうことだと思います。
若い頃から食べ物を愛好しています。 といっても、わたしには和菓子がわかりません。どこがいいのか、わかりません。もちろんわかるものもあります。 で、食べ物評論家や自称「和菓子がわかる」人は、たとえば和三盆を使った名菓子(つまりホンモノ)と、素人がでたらめに精白糖を使っただけのインチキ和菓子(つまりニセモノ)とを、本当に区別ができるのでしょうか。わたしは区別できる人などまずいないと思いますが。 ご意見をお聞かせください。 という質問があったら、まともに答える気になりますか?
補足
あなたの、お菓子を引き合いに出した質問、わたしにとっては至極まともな質問に思えますが。おそらく菓子に興味を持つ人ならまともに答えるんじゃないでしょうか。 あなたのこの回答は、わたしの質問が、まともに答えるに値しない愚問だという意味ですか? わたしはこのサイトではいつも本当に知りたいことをまじめに質問していますし、また、わたしが答えられる質問にはまじめに一生懸命回答もしています。 あなたは高校の国語の教師だということですが、もしあなたの生徒さんが、あなたにこの質問をしたら「まともに答える気にならない」とおっしゃいますか?
- mayuusa
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詩はいつも一生懸命書くひとなので、 (自作の詩のひとつひとつについて、例えばどこを工夫したか、とか、テーマについて、とか、論文を書かされたら原稿用紙何枚でも果てしなく書けます。。。^^;) >でたらめに言葉を並べただけのインチキ詩 の定義からして既に完全には理解できないのですが、 わたしの回答したい内容は、 #5のtoysmith様のご意見と、根がいっしょのように感じております。 その時代、その地域でその環境で読まれたからこそ、凄いんですよ。 詩じゃなくてすみませんが、 ルネッサンスの絵を見たときにも、そう感じました。 それまで、神様の絵と言えば、 金と黒で縁取り固く、平べったく(立体感がない)、マリア様がこわ~い顔をして、勿論、肌なんか露出しないで、 というのを描くひとしか、いなかったわけです。 それが、いきなり、金持ちが「自由に描いてよ」と言ってくれた。そこで最初に描いたひとの発想が、凄い。 うら若い女性がおっぱいもあらわに、貝殻なんかから飛び出ているんですよ?!タッチも柔らかくて、そんな絵の具の使い方、ありだったのかーっ?!てきな、あそびごころもある。 こともあろうに神様を、そんなふうに描くなんて。。。。 ついこの間まで、みんなが描いていた硬いマリア様と比べるからこそ、凄さがよくわかる。 文学も同じですね。 ダーウィンの時代の詩を少しだけ読みましたが、 人類がサルだった、ということについて、今の日本人には特に衝撃もなく受け止めるひとも多いかと思いますが、 その時代のイギリス(ダーウィンの環境)には、 「キリストが作った」と本気で信じているひとしかいなかったわけですから、どれだけの衝撃だったか、想像するに余りあります。 女性蔑視の時代に読まれたから凄い詩、とか、 戦犯扱いの時代に読まれたから凄い詩、とか、 背景ごと勉強しなければほとんど意味がないと言っても過言ではないでしょう。(わたしだってそんなに勉強できてないですが、、、) また、シェークスピアを読んだとき感じましたが、 シェークスピア時代の発音で原文(らしきもの)を朗読すると、音が綺麗で感激します。現代英語のものは既に違うものになっているわけです。いわんや和訳をや。 >ランボーやコクトーの名訳詩 は、読んでいないのでまったくわかりませんが、 それを >(つまりホンモノ) と言い切ってしまう感性は、 >文学愛好者 としてちょっと。かなり大きな疑問を感じます。 傲慢ではないかと。 自転車も、 世界で初めて作って乗ったひとは、変人扱いされた。(でも、便利そうで楽しそうで、わりとすぐ理解された。) 今、自転車を多少改良して乗っても、誰も大して凄いと思わない。 それでも、ひとりひとりの子供が初めて自分ひとりで自転車に乗れるようになった日には、 たしかに、前日とは違う何か喜びのようなものを、持っている。 こういうのを詩の世界と重ねるわたしの感性を、わたしはわたしなりに、気に入っています。
お礼
>その時代、その地域でその環境で読まれたからこそ、凄い つまり、いくら世間ですごい詩といわれるものでも、同じ詩が今この日本で書かれたとしたら、駄作だということにもなり得るということですね。 それならわかります。 しかしそうすると、詩(芸術作品)を鑑賞するとき、その作品がいつの、どこの、誰の、どういう状況で作られたものか、把握していなければならないことになりますね。 わたしは、作品は、何の能書き・解説もないただそれだけで存在すべきものだと考えていますのでちょっと「?」と感じる部分もあります。 回答ありがとうございます。
こんにちは。 区別できるでしょう。というか、現実に文芸批評の世界では区別しています。 これは一般論ですが、本物とニセ物、優れているものとそうでないものを 見分けるには「基準」が必要不可欠です。 そもそも基準がなければ区別は存在しません。 たとえば詩の基準。 ・凡庸ではない言葉で語っているか。 ・書かれているテーマが古くはないか、陳腐ではないか。 ・イメージの喚起力は強いか、弱いか。 ・語られる言葉にリアリティーを持っているかいないか。 ・通俗性に流れていないか。 ・詩に込められたメッセージ性に普遍性はあるか、ないか。 などなど。そして、その基準は時代とともに変化もします。 ラングストン・ヒューズやギンズバーグが今読まれないのはそのためでしょう。 あるいは大正時代のダダイズム詩が今ウケないのは、 そのためでしょう。
お礼
回答ありがとうございます。 現実に文芸批評の世界では区別していますね。文芸の専門家なら、本物とニセ物、優れているものとそうでないものを見分けられると思います。
- fantin
- ベストアンサー率29% (22/74)
眠れぬままに考えてみましたが、やはり私のなかではにせものと本物の区別はあるという結論に達しました。決して反論と言うわけはなく意見として聞いていただきたいのですが、例えば井上陽水氏の北京、ベルリン、、♪という詩がありますよね。あれは文章的には意味はないように思えますが、音としてとらえたときに曲抜きの状態で読んでもリズムがあると思うんです。素人にはまねが出来ません。私はイタリア語はできませんから、イタリアの現代詩についてはわかりませんがbeat118さんが創作したデタラメ詩を送って本物と見分けがつくかと言うことの関しての答えはYESです。デタラメと思って書いた詩が認められるのであれば、beat118さんに才能があると言うことと思います。基本がなければレベルアップしたものは書けませんし選ぶ方もそうだと疑いません。何一つ評価すべき所のないものは偽物。一文とらえても全体的にみてもよいものは(名詞)=(本物)と考えますがどうでしょう。
お礼
おっしゃるとおり、素人にはまねのできない言葉の選択ってありますね。わかる人には「これは素人の作品ではないな」と、わかると思います。 回答ありがとうございます。
- toysmith
- ベストアンサー率37% (570/1525)
稲垣足穂の言葉を借りると「詩というのは、歴史性に対して垂直に立っている」。 詩は書かれた一瞬が全てであり、後世の人間は詩を読むことで【一瞬】を味わうことが出来ても体験することは出来ない。 と言うことは… ・一瞬を共有できないの後世の人間がどれだけ頑張ってもまねはできない ・一瞬を共有できない後世の人間は【ほんもの】【にせもの】2つの詩の本質を判断することが出来ない の両方が言えるわけです。 非常に難しいんですが、私の回答としては「『まねて書くことが出来る』と言う人も『偽物を見破ることが出来る』という人も等しく傲慢である」です。
お礼
回答ありがとうございます。 >一瞬を共有できないの後世の人間がどれだけ頑張ってもまねはできない 「まね」とは何か、ということは置いておいて、まねて書くことはできます。もっとも、「何となくそれっぽい詩」であるだけで、ほとんど意味をなさない言葉の羅列で、常識的にはだれも(書いた本人も)素晴らしい詩だとは思わないでしょうけど。 わたしが「まねて書くことがができる」と言う場合、それは自信や傲慢というより、そもそもランボーの詩の芸術性をわかるなどと自負しているたいていの人を信用していないので、「じゃあ、デタラメ詩と区別できるかい?」ということなのです。 詩とは何かとか、時代や環境が背景にあって生まれてくる詩とか、一瞬が全てである詩とか、そこまでいくと問題が大きくなってしまいます。 toysmithさんの結論として、「デタラメ詩とランボーの詩を区別できる人はいない(稀である)」と解釈してもよろしいですね。
- toysmith
- ベストアンサー率37% (570/1525)
海外の作品については言語と文化の両方がわかる人にしか感動できないでしょうね。 私は訳者のセンスに惑わされてます。 だから、日本の詩だけについて。 「詩がわかる」わけではありませんが、「好き」ですね。 「わかる」っていうか、感動してしまう詩があります。 たとえば、高村光太郎の智恵子抄。 「檸檬」と言う詩を読んだとき涙が止まらなくて困りました。 人によっては、道ばたで色紙に書いてもらって詩に人生を変えられることもあるようです。 それどころか、子供が言った何気ない一言が心に響いてぎょっとさせられることもあります。 詩って「余計なモノをそぎ落として本質だけを書いた文学」だと思ってます。 時には「あぁ!」だけでも詩として成立するのではないかと。 本物、偽物という見方はしていません。 ただ、「名作」とよばれるものは感動した人が多いのでしょう。 多くの人が感動したからと言って自分が感動できるかどうかはわかりません。 ことによると、子供の一言の方が感動できる詩だったりします。
お礼
toysmithさん、こんばんは。回答ありがとうございます。先日のわたしの質問「人一人の命…」でもお世話になりました。 おっしゃること、もっともです。 実は学生時代、文学仲間の一人に同じような質問(オレの詩かコクトーの詩か区別できる人がいるだろうか?)をしたことがあります。友人は、「絶対できる」と言い、話はそこで終わりました。わたしは以来ずっと「そんなことはないぞ」と思っていたので、こんな質問をしてみたわけです。
- news_0203
- ベストアンサー率27% (98/352)
#1です。 質問を食い違えてました・・・。ごめんなさいm(_ _)m。 詩を分かる人は・・・すぐに読んだだけで情景を答えれれるひとがかなりの読み手!という判断の仕方ぐらいですかね・・・。回答になっていなくてごめんなさい!
お礼
再度の回答ありがとうございます。 いわゆる名詩を読んで、そのほとんどの情景を想像でき、「これは名詩だ」と判断できる人、そういう人ってすごいと思います。
- fantin
- ベストアンサー率29% (22/74)
わかる、わからないで区別するのではなく好き、嫌いでいいのではないでしょうか。わたしは絵、音楽など芸術分野はすべてそのように解釈していますが。専門家のかたはいろいろな作品に触れていく度に目が肥えていきますしやはり芸術性の高さを判断することはできるのではないかと思います。個人的には(わたしを束ねないで)がすきです。キャンパスに描かれた絵のような、奏でられた音楽のような作品だとおもいます。しかし、誰にでもわかるように説明せよといわれれば無理としか答えられません。ただ個々の感性に訴えるものがあるかないかでそのひと、そのひとで好きな作品はちがってくると思うんです
お礼
回答ありがとうございます。 わたしにもいくつか好きな詩はあります。好きな詩人もいます。好き・嫌いはあって当然です。 ただ、いわゆる「目の肥えた人」が、本当にその芸術性を見抜けるか、大いに疑問です。 わたしは、職業としての一部の才能のある文評論家を除いては、わたしが冗談で創作したデタラメ詩と、イタリアで注目の現代詩人の詩を区別できないと思っています。
- news_0203
- ベストアンサー率27% (98/352)
やはりいますね。 詩や俳句を読んで、「う~ん( ´∀`)この風情がいいなぁ」と言っている方も身近にいますから・・・。(でもあくまでも推測ですけどね!)
お礼
早速の回答ありがとうございます。 います。当然。ちょっと質問の意図が伝わりにくい文章でした。失礼しました。 わたしの知りたいことは、ホンモノの名詩とニセモノの詩(?)の区別がつく人がいるか、ということです。いかがでしょうか。
お礼
おっしゃること、よくわかります。 回答ありがとうございます。