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江戸時代。皇后の外出(行啓)。
江戸時代、天皇の行幸は、ほんの数えるほどしかなかったですが、皇后も同様ですか。 皇后は、実家に行くこともあったのではないでしょうか。 庶民の社会では、「里帰り」という慣習がありますが、天皇家の場合はどうなのでしょうか。 寺社参詣などの行啓の事例があれば教えてください。 よろしくお願いします。
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お礼の文面痛み入ります。 一点訂正をしなければいけません。御産屋で、宮中を2例としましたが、宮中ではなく、天皇の持屋敷でした。両者ともに禁裏外に存在しています。多奈井小路局の自賁軒二階町も、女御御里で間違いなさそうです。そうしますと、天皇の妻妾は御産に伴い例外なく禁中(禁裏・宮中)から出ることになります。この理由も例外がなくなったので、御産の穢れで間違いがなさそうです。 次に、*天皇の妻妾としての女官の中で、実家の屋敷ではなく、里屋敷を持っており、そこに御産屋を作って出産しています。出産のためだけに里屋敷を持つとは考え難いので、あるいは宮中から退出・里帰りのためかとも思います。 これに関連して、『御湯殿上日記』に、 延宝五年十一月十三日―略―九条殿こうせられ。女御の御方も御さとの御所へ御さかり。けふより三日はいちう也。(九条殿―鷹司房子の異母弟―薨ぜられ。女御-鷹司房子―の御方も御里の御所へ御下り。今日より三日廃朝―行事・儀式に参加しない、物忌み―なり。) 「御里の御所へ御下り」とあるので、女御も里屋敷を持っていた可能性があることと、産穢と同じく、死穢により宮中の清浄を損なうので、宮中から退出したことがわかります。 中宮-鷹司房子―の行啓の例。 『妙法院日次記』の天和三年二月十四日の条に、「中宮宣下也」とあり、十六日の条に、「今日行啓始のよし也」とあります。『御湯殿上日記』の十六日の条には、「春宮の御かた行けいなる」とあって、中宮行啓の例となります。 これに関連して、十四日の立后の時に、宣命使が任命されています。これは、中宮予定者は慣例で事前に宮中を退出し、実家もしくは適宜の屋敷に移動し、そこで宣命を受けることを示します。鷹司房子についてはその屋敷は明示されていないのですが、徳川和子については、一条殿に退下した資料が残っているので、鷹司房子の同様であったと考えられます。 立后後宮中に帰る時は、行啓の形式となります。 『御湯殿上日記』の延宝五年閏十二月八日の条に、「一の宮の御方。女御の御方の御さとの御所にて。御ふかそきあそはさるる。御ひんおやくわんはく殿御ふかそきの後女御の御かた御つほねより御同道あそはされ候にて(一の宮の御方。女御の御方の御里の御所にて。御深削あそばさるる。御鬢親関白殿御深削の後女御の御方御局より御同道あそばされ候にて)」とあります。 深削(ふかそぎ)は鬢削とも言い、三歳で髪置をしたのち、五歳頃に髪のすそを切りそろえ、成長を祝う儀式のことで、切りそろえる人物を鬢親(びんおや)といいます。女御は鷹司房子、関白は異母兄の鷹司房輔ですが、一の宮は鷹司房子所生の栄子内親王だと思います。皇女としては第三皇女なのですが、第二皇女の憲子内親王は当年数え九歳、これに対して栄子内親王は五歳で、深削の年齢に合致すること。登場人物が栄子内親王の近親者であること。さらに女御所生の皇女なので出生順に関係なく、(女)一の宮と呼称されたのではないかと考えられます。 ただ、注目することは「関白殿御深削の後女御の御方御局より御同道あそばされ候」の部分で、関白が女御と局から同道したことで、後宮に父母、兄弟が出入りしていたと考えられます。 *天皇の妻妾としての女官=女御が少なくなると、後宮の女官である内侍司の職員が天皇の妻妾化します。内侍司の長官である尚侍は任命されなくなりますが、次官である典侍(テンジ・ないしのすけ)、三等官である掌侍(しょうじ・ないしのじょう)、雑務を務める女嬬(にょじゅ)の一部が妻妾となります。 「後に中宮に冊立される鷹司房子は寛文9年に女御として入内し」の部分ですが、「女御」は、『源氏物語』の冒頭の「いづれの御時か女御、更衣あまたさぶらひける中に」とある女御のことです。律令の規定にはありませんが、平安時代から格の高い天皇の妻妾で、基本的には大臣の子女(ほぼ摂関家に限定)、内親王・女王がなっています。平安時代には一人の天皇に複数の女御が存在しましたが、時代が下るに従い減少傾向になり、江戸時代では一人の天皇に一人の女御という形で、実質上天皇の嫡妻でした。そのため、皇后に準ずるものとして、*准后(准三后・准三宮)の宣旨を下された者もいます。また、中宮に冊立される前に女御の地位にあることが原則でした。天皇の嫡妻は律令の規定では皇后で、中宮は平安時代に皇后の別称としての固定化され、ついには一人の天皇に、同格としての皇后・中宮が並立(一帝二后)することもありました。また、皇后に冊立してもその役所を中宮職とする例も出てきます。しかし、室町時代には皇后・中宮の冊立はなく、徳川和子の中宮冊立により復活します。 女御、准后の任命は宣旨、中宮の冊立は宣命で、格式に大きな差があります。宣命は国家の大事に天皇の命を伝える形式・書式(宣命は読み上げるための書式で和文。詔勅は漢文体)で、即位・立后・立太子・正月の朝賀などに用いられています。 女御、准后の任命、中宮の冊立は、任命・冊立に伴う節会(儀式と宴会)がありますが、その規模・費用の差には大きいものがあります。 さらに中宮の冊立には、中宮職の中宮大夫以下の職員の除目もあり、大行事であり、費用も大幅にかかる行事でもありました。室町時代に立后がなかったのも、費用が負担できなかった事が、最大の理由がされています。 この影響は幕府だけでなく、大名にも及びます。 『享保集成糸論録』 寛文九酉年閏十月 一、来月廿一日。女御‐○霊元后鷹司房子‐御入内ニ付而、為2御祝儀1以2書立之面々1、可レ被2差上1之旨、自2老中1被2相触1之所謂 尾張中納言‐以下略‐ として、天皇・女御・女院に祝儀の金品を老中の通達に基づいて、献上することになります。 *准后(准三后・准三宮)=皇后・皇太后・太皇太后の三宮に準じた待遇(随身兵仗=外出時の警護など)をし、*年官年爵の権利を与える。後宮・皇族・摂関・足利将軍・高僧などが宣下された。待遇・年官年爵は次第に有名無実化し、称号を与え、地位の上での優遇になった。 *年官年爵=年官は年に一度特定の官職の推薦し、任官させてもらえる権利のこと。年爵は同じく年に一度従五位下への叙爵の権利を得ること。売官売爵の一種で、年官年爵の権を与えられた者は、官職に就任したり、叙爵した者より金品を得たり、年官の場合、受領などに親族・家司などを推薦就任され、経済的権益を得るなどがあった。 武士の起源・発生論については、現在職能論が有力な学説の一つとなってきています。次を参考に。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%A3%AB#.E8.81.B7.E8.83.BD.E8.AB.96 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BE%8D
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- fumkum
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追記を 霊元天皇の妻妾のお産のための御産屋に関する資料があって、場所が判明しているものが22例あります。このうち2例が内裏内に設けられていたとされます。寛文9年(1669)の、西洞院時良女(名は伝わらず)多奈井小路局が、女御御殿北御所。坊城俊広女の藤大典侍坊城房子が、自賁軒二階町に御産屋が設けられています。この内女御御殿北御所は、現在の皇后御常御殿の近辺ですが、自賁軒二階町は御所の東北部のようではあるのですが、よくわかりません。次に出る九条家が、仙洞御所の北に隣接して存在した時期のことで、その当時でもそのあたりは公家町で、公家や宮家、門跡等の里坊が櫛比していた地域なので、あるいは女御御里のことなのかもしれません。ともかく、この2例は、霊元天皇の最初の子供だった(第一皇女、第二皇女)ことが、御産屋を内裏内に設けた理由だったのではないかと思われます。 さて、後に中宮に冊立される鷹司房子は寛文9年に女御として入内し、寛文13年(1673)に出産しています。御産屋は九条家に建てられます。鷹司と九条は同じ摂関家といえ、近い姻戚関係にはなく、方位の問題ではないかとされます。なお、鷹司房子は霊元天皇のただ一人の女御で、女御の時点でも天皇の嫡妻と扱われていたと考えられます。 霊元天皇の父後水尾天皇は、御産屋は実家に建てることが基本であるとの考えを持っていたようですが、霊元天皇の妻妾の例で一番多いのは、鷹司房子のように実家ではなく、親族関係にない公家の家の9例です。次が町屋の利用。その次が実家となっています。 明治天皇が誕生した産屋は、母の実家の中山家に建てられていましたが、皇女和宮の産屋も同じように母の実家の橋本家に設けられています。霊元天皇の妻妾の例が例外なのかどうかは不明ですが、お産に関しては、天皇の妻妾は例外は幾分あるとしても、原則的には宮中を出ると考えていいのではないでしょうか。
お礼
思いつきの質問にこんなに丁寧に回答して下さって恐縮です。 実は、皇后=中宮とは知りませんでした。 「天皇の妻は皇后である」という程度の知識でしたから、 「後に中宮に冊立される鷹司房子は寛文9年に“女御”として入内し、寛文13年(1673)に出産しています。」を理解するのに時間がかかりました。 >霊元天皇の父後水尾天皇は、御産屋は実家に建てることが基本であるとの考えを持っていたようですが、霊元天皇の妻妾の例で一番多いのは、鷹司房子のように実家ではなく、親族関係にない公家の家の9例です。次が町屋の利用。その次が実家となっています。 実家以外の例ですが、どんな事情があったのか、まさに想定外です。 しかし、私の疑問を解消するにはピタリのご回答なので満足しています。 ご教示に感謝申し上げます。
- fumkum
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おひさしぶりです。 京都御所(宮中)は大奥のような厳格な男子禁制の場ではなく、天皇の妻妾のもと(局)に、実家の父・兄弟などの男性が伺候するすることはまれなことではなく、その他医師などの男性が伺候すること(大奥でも同様)もあります。また、後宮の女官だけでなく、天皇の妻妾が宮中を抜け出して、公家と乱倫に及ぶこともありました。このことが大掛かりの行われ、発覚、公卿の大量処罰に発展したのが猪熊事件です。この猪熊事件がきっかけの一つとなって、最終的に禁中並びに公家諸法度が成立します。しかし、その後にも類似の事件があったとされます。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%AA%E7%86%8A%E4%BA%8B%E4%BB%B6 さて、天皇の妻妾が宮中を確実に出ることがありました。それはお産で、宮中、特に天皇は穢れに染まらないようにするために、産婦は宮中を退出し、主に実家に設けた産屋で出産しました。当時産の穢れは重く受け止れていましたので、皇后(当時は中宮)といえども例外はなかったはずです。 とはいえ、江戸時代に中宮に冊立されたのは、徳川和子・鷹司房子・幸子女王・欣子内親王の4名しかおらず、中宮冊立後に出産が確認されるのは、徳川和子・欣子内親王の2名のみです。 http://4travel.jp/travelogue/10294291 地租改正ですが、全国規模でみると3%の賦課率で、従来の年貢(田租)徴収額のおおよそ1割減という数字が出ています。 明治政府は成立直後の*慶応4年8月の太政官布告で、両年(慶応4年と明治2年)は「旧慣による」として、江戸時代の年貢徴収方法を継承するとしました。しかし、両年では終了せず、明治3年7月には大蔵省が検見規定を定めて、五公五民の賦課率による検見を行って、年貢を徴収する方式をを継続することを表明しています。 その一方で政府は、明治4年12月の太政官布告で、東京府の管内で、武家地と町地の区分を廃止し、地券を発行し、地租を納めさせる方針を打ち出します。翌5年7月には、大蔵省達で、地券の発行を全国のすべての地所に拡大し、同年*10月には完了させようとします。この地券を「壬申地券」といい、地券交付に至る一連の作業を地券調査といいます。また、この前後には、田畑永代売買禁止令の解除、年貢の金納が決められています。 しかし、地券調査は簡単なものでは当然なく、地券を10月中に完了することは達成されませんでした。この結果を受けて、明治6年7月に太政官布告として地租改正法が公布され、地租は3%とされます。この地租3%や地価の決定方式などは、従来の年貢収入を減らさない方針で決められています。ただ、従来の年貢徴収額を増加させようとの意図はなかったとされます。しかし、明治6年中に改租が許可された地域はなく、明治7年12月に堺県高安郡が改組許可が、最初の事例になります。そのため、明治6年の*地税額6060万円強が、従来の年貢方式による達成値とされます。 ところが、地租改正作業を進める中で、早くも明治7年5月段階で、大蔵省租税頭の松方正義は、各地の改組作業の途中経過から、改組は地租の大幅減収になるとし、「今より将来の歳入を予め概算する之を旧額に比するは凡そ六百万円を減却せん」との意見書を出しています。結果からみるとこの意見書の見通しはほぼ正鵠を射ており、地租3%でも、その基準となる地価が低いと、従来の貢租額を達成できない、逆に言うと、1割の減額になるということになります。 この後改組作業は、士族の反乱や地租改正反対の農民一揆などによる遅延、明治10年の地租2,5%の減租などを経て、明治14年までにはほぼ完成します。この時の地租額は、なんと4327万円強となっています。明治6年の6060万円から1733万円の減額であり、改正地租表の減租額1114万円を勘案すると、619万円(訳1割)の減租となり、松方の予測に沿う形となっています。 その原因の一つが、農民の自主申告方式が地押丈量(実地測量)や、地価決定に及び、特に地価決定の場面では、農民側の抵抗、地価の低評価圧力が強かったことにもよります。 ただ、0,5%の減租の中にも、地租改正による減租額も含まれますし、江戸時代には非課税地であった町地・武家地・寺社地も同率(初期は1%)に課税され、地租額には含まれますので、農民にとっては、619万円以上の減租になったのではと思います。 *慶応4年=9月に明治に改元。 *10月=収穫時期なので、それまでに年貢徴収の方式を表明するために、7・8月に布告等が出されることになります。 *地税額6060万円強=明治14年の数値を含め、大内兵衛・土屋喬雄編『明治前期財政経済史料集成 第4-6巻』歳入歳出決算書をもとにした数値です。 武家についてですが、(1)武士一般を指す。(2)基本的に将軍・幕府を指す場合があります。特に(2)の場合、公家・社家・寺家に対置される、武の権門として用いられ、平清盛が正三位・参議となり、朝廷の議政官に任官し、名実ともに国政に影響力を行使できる段階を、武家とする学者が多いようです。 鎌倉時代には、第一義的には六波羅探題を公家などは指していますし、守護などを指す例もあります。室町時代では国人クラス、江戸時代には武家官位を持つ旗本を指す例もあります。ただ、言葉は時と共に下落するもので、現代でも歓楽街ではみんな社長さんと揶揄されるように、みんなお武家様、お侍様となることもあるわけです。 蛇足で2点。 侍はお安くなくて、正式には侍品(さむらいぼん)のことで、6位時に5位の位階を持ち、貴人に仕える、朝廷に奉仕する層のことを言います。江戸幕府の布衣に相当します。この層の上が諸大夫層で、上級貴族の家司に多く、5位時に4位、まれに3位に昇ります。侍は武士だけでなく、公家・寺社にも存在し、青侍(公家侍)・寺侍(僧兵ではない)などの存在が江戸時代にもありました。 武士の成立に関して、自己の開発地・荘園の自衛のために開発領主や後継者が武装・自営したことに起源があるとされてきましたが、現在では武士は朝廷または国司(国府)に認定されたことによるとの考え方が有力となっています。特に、将門・純友の反乱を鎮定した者の子孫が認定されたとされます。江戸幕府の職制に、番方・役方、さらに両番筋などの家筋があるのと同じようなものです。 彼らの内で有力な者は、自分の所領と都を往復し、国守などに任官しながら、勢力を拡大しようとする京武者・都の武者と呼ばれる階層があり、この中に、桓武平氏や清和源氏も含まれます。 長い蛇足となりましたので、この辺で。 しばらく、自宅と病院を行き来する院の無精となっていたので、武家の定義について1年半ほど回答できず、心苦しく思っています。簡単にではありますが、回答とさせていただきます。
お礼
ご回答ありがとうございます。 懐かしく、拝見させていただきました。 どうなさったのか、心配していました。 実家で出産する慣習があったのですね。 「宮中、特に天皇は穢れに染まらないようにするため」という理由も納得できます。 出産は命に関わることですから、実家の母に見守ってもらいたいというのは、よく分かります。 10代後半で嫁入したのですから、親子の対面ができないとなると、精神面でどうなるのか、と愚考していましたが、父・兄弟などの男性だけは伺候できたのですね。 そこまで幕府が禁止できませんね。 >地租改正ですが、全国規模でみると3%の賦課率で、従来の年貢(田租)徴収額のおおよそ1割減という数字が出ています。 知りたい数字でした。すっきりしました。 >侍はお安くなくて、正式には侍品(さむらいぼん)のことで、6位時に5位の位階を持ち、貴人に仕える、朝廷に奉仕する層のことを言います。江戸幕府の布衣に相当します。 私の知識では今のところ、理解できませんので、「武家」については再度読み直します。 1年半前の質問を心に留めて下さっていたこと、感謝申し上げます。 なお、山川出版社『日本史B』日B301の2014年度版を一昨年入手しました。 1997年版より50ページも増えて、内容も新しい事実が追加されています。 旧いテキストではダメ、よく分かりました。 今後ともよろしくお願い申し上げます。
- oska2
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>江戸時代、天皇の行幸は、ほんの数えるほどしかなかったです 行幸は、御所から出る行為です。 例えば、御所から二条城まで移動する事も行幸です。 幕府の監視が厳しい状況では、自らの意思では行幸は出来ません。 それに、予算も確保出来ません。 確か、皇室は「3万石」ですよね。幕末には、10万石待遇になりましたがね。 この3万石で、皇族・五摂家・公家全ての生活を賄うのです。 天皇即位の予算も、幕府から別途受領しないと出来なかった時代。 貧乏公家が多かった事も、うなずけます。 >皇后も同様ですか。 基本的に、皇后は御所から出ません。 皇后と言えども、一人で普段着で出かける事は不可能です。 それなりの形を、整える必要があります。 先に書いた通り、予算がありませんから皇后までお金は回りません。 ただ、皇后の使いとして門跡寺院に使いを出す事はあった様です。 余談ですが・・・。 幕末、孝明天皇が祐宮を連れて御所の外を散策した事が有る様です。 天皇・祐宮の姿が見えると、店を閉めた様です。 天皇が「お金を持っていない事を知っているので、祐宮が〇〇を買って!」とい事が無い様にする為だったそうです。 この逸話でも分かる様に、天皇は御所の近辺は散策している。が、皇后は御所内から出ない様です。
お礼
ご回答ありがとうございます。 なるほど、みすぼらしいなりをして外出するわけにはいかない、ということですね。 それにしても気の毒な気がします。 よく分かりました。
- fujic-1990
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皇后様のことは知りませんが、「御幸」など、それらしき言葉を引くと「女院(三后を含む)」の外出も含まれているので、まった出なかったということはないと思いますが、ほとんど外出はしなかったものと思います。 小説などでも、皇后や中宮の外出話を観た記憶はありません。おそらく、天皇よりも少ないと思います。 というのは、江戸時代の大奥の例ですが、将軍の正妻である「御台所」様は、その将軍が生きている間は、大奥からまったく出ません。軟禁状態でした。 寺社回りは「代参」、つまり代わりに誰か身分の高い人(上臈など)をお詣りに行かせました。 代参は早々に済ませ、観劇などに時間を割くことが奥勤めの女中たちの息抜きとして認められていたようですが、代参した一行が、反対派の工作で門限に遅刻して大騒ぎ(大奥追放:幽閉)になったケースもあります。 武家では、妻ではなく娘でも、めったに家を出られなかったそうです。 家同士がごく親しい間柄の、娘を訪ねるとき限定(それでも行列をしたてて出た)とか、門には、祭りなどの際に妻女や女中が外を眺める覗き?部屋がしつらえてあった家もあったそうです。 それだけ女性の外出は難しかったので、皇后も中宮も、宮中に軟禁状態だっただろうと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 外出もままならなかったのですね。 運命とはいえ、気の毒な気がします。 よくわかりました。
お礼
再々の丁寧なご回答に感謝申し上げます。 『御湯殿上日記』という日記が遺されているのですね。 六百年も前の禁裏の様子を今、知ることができるなんて、なんて素晴らしいことでしょう! (語彙がお粗末でこんな表現しかできません) 昨年、8億円もの決済を記録した文書が闇に葬られた、今の公文書管理に比べると、雲泥の差です。 >延宝五年十一月十三日―略―九条殿こうせられ。女御の御方も御さとの御所へ御さかり。 けふより三日はいちう也。(九条殿―鷹司房子の異母弟―薨ぜられ。女御-鷹司房子―の御方も御里の御所へ御下り。今日より三日廃朝―行事・儀式に参加しない、物忌み―なり。) >延宝五年閏十二月八日の条に、「一の宮の御方。女御の御方の御さとの御所にて。御ふかそきあそはさるる。御ひんおやくわんはく殿御ふかそきの後女御の御かた御つほねより御同道あそはされ候にて(一の宮の御方。女御の御方の御里の御所にて。御深削あそばさるる。御鬢親関白殿御深削の後女御の御方御局より御同道あそばされ候にて)」とあります。 外出はお産だけではないということですね。 よく解りました。 詳しい回答を頂いたので、一字一句おろそかにせず、調べながら読んでいます。 すると、いつも横道に逸れてしまいます。 「自賁軒二階町」とはどこにあったのだろうと調べたら、禁裏の東北、ごく近くにありました。 下記サイトで見たのですが、多分、合っているだろうと思います。 「増補再板京大地図」寛保元年(1741)国立国会図書館デジタル http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286223 次から次へと疑問続出ですが、本題の疑問は解けましたので、明日夜あたりで締め切りたいと思います。