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江戸時代。武家の子の名付け親。

今でもまれに、子の名前は、恩師や上司に付けてもらったという話を聞きますが、江戸時代も同様の慣習があったようです。 大名や武家の場合、子の名前は誰が決めることが多かったのですか。 厚かましいお願いですが、誰が決めたという具体例も分かれば教えてください。 よろしくお願いします。

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回答No.1

「誰が決めることが多かったのですか。」に関しましては、 残念ながら判断材料を持ち合わせていませんので、 「誰が決めたという具体例も分かれば」の僅かな例に過ぎませんが… ・父の命名例 〇「<史料紹介>阿部正功の誕生と成長の記録(1):白河藩侍医の日記より/丸山美季」『学習院大学史料館紀要(21)/2015.3.31』(157-170頁) http://hdl.handle.net/10959/4110 三、内容―阿部正功の誕生、成長記録─ <11-12/14>(167頁下段21行目-168頁上段12行目) 出生 正月二三日、弦尾がにわかに産気づき、七半時過ぎ(午前三時半)に男子を出産した。臨月は二月でまだ先であったが、体は小さいが元気であり、健康状態は良好であった。…(中略)… 一月二九日、御七夜(誕生後七日目の祝)が行われた。父正耆より、幼名光之介と命名された。『公余附録』【六(阿部九〇四-六】には、図1のような大高壇紙二枚重ねの「名目録」が渡されたことが載っている。 上記の『公余附録』は藩士の川澄次是の手になる。藩主や家中の系図、阿部家の家格、領地の絵図などの66テーマを掲げて記す。 ※学習院大学史料館第15回特別展 大名家文書を通して見た近世(1995.11.1-11.30)パンフレット23頁[12]阿部家の編纂物 より※ ・伯父の命名例 〇「初代八戸藩主南部直房夫人霊松院の周辺/佐々木勝宏」 『岩手県立博物館研究報告(29)/岩手県/2012.3』(37-52頁) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10218646 <5/16>(41頁右側1-9行目) 4 直房と直政の父子の虚空蔵菩薩信仰 『(八戸祠)佐嘉志』「長者山虚空蔵大菩薩」に、直房がまだ盛岡で部屋住だった時に、下小路水口坊虚空蔵(現在の岩手高校あたり)に祈願して寛文元年(1661)に直政の誕生を得たとある。承応2年(1653)に直房の命で山伏となった元家士高橋勘五郎こと無量院があたり、明暦年間から行っていた。この子は、直房兄で家老の七戸隼人(後の盛岡藩主南部重信)から武太夫の名を賜り、無量院は彦八郎の名を送った。 <5-6/16>(41頁右側36行目-42頁左側最下段行) 「常泉院由緒書」には、直房の武運長久や名利繁栄の祈願を命ぜられたこと、毎年正月十一日の弓初の勤行を数年執行したこと、子孫繁栄を盛岡水口虚空蔵へ祈願したことなどが記される。…(中略)…水口坊別当法明院日栄にその話をすると吉祥に違いないと言われ、願主の直房に報告。すると奥様が8月に懐胎して翌寛文元年(1661)歳次辛丑5月6日に直政が誕生した。丑寅年生まれの守り本尊に祈願した甲斐があった。伯父隼人正(重信)は武太夫、日栄が運八、無量院(常泉院栄尊)は長鶴とつけた。…(中略)… それぞれ少しずつ差異はあるものの大筋を要約してすれば、部屋住みの中里数馬(後の南部直房)は、盛岡水口坊の虚空蔵に七日間の祈願をして、後継ぎ直政の誕生を得た。直政の幼名武太夫は伯父重信の命名である。 以上

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 やっぱり具体的な事例は説得力がありますね。 命名したときの喜びまでも伝わってきそうです。 さて、いつも面白い資料を紹介してくださるので楽しみです。 「初代八戸藩主南部直房夫人霊松院の周辺」では、霊松院の年表の中に 正徳2(1712)年 79歳の時の記事で「若子様 御七夜 霊松院 修理と命名」とあります。 どう解釈すればよいのか分かりませんが、調べてみます。  いつものことですが横道に逸れて、霊松院が80歳で死去し、その遺産が娘冨に相続されていますが、遺産の額と内容にびっくりです。 疑問は解消しましたので、明日締め切る予定です。 ご教示に感謝申し上げます。

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回答No.2

>「若子様 御七夜 霊松院 修理と命名」とあります。 >どう解釈すればよいのか分かりませんが、調べてみます。 既に解決済みかも知れませんが、私も後追いで調べてみました。 ・八戸市>八戸市の紹介>八戸市のプロフィール>八戸藩開藩350年> 【第二回】八戸藩の歴代藩主 http://www.city.hachinohe.aomori.jp/index.cfm/8,68895,15,350,html 上記の下部「八戸南部家系図」内の 「(3代)通信(盛岡藩主南部重信の四男)」の子「(4代)廣信」と同列の最後に「修理(早世)」とあり、 又上部「八戸藩の歴代藩主(1代~5代)」内の 4代南部広信の生年月日が「宝永3年(1706)3月7日」から類推すれば、 3代南部通信の第5子の御七夜に際し霊松院が修理と命名、 養祖母の命名例に当たる可能性が高いようですね。 >疑問は解消しましたので、明日締め切る予定です。 えっ!?既に自己解決済みってことでしょうか?(笑) 「誰が決める」からは少し反れますが、 下記事例は(将軍家を別としましても)恐らく複数あるでしょうから、 てっきり話題に上がるかと思っていました。 〇「秋田藩佐竹家子女の人生儀礼と名前:徳川将軍家と比較して/大藤修」『国立歴史民俗博物館研究報告141/国立歴史民俗博物館/2008.3.31』(173-223頁) https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1570&item_no=1&page_id=13&block_id=41 <30/51>(202頁上段22行目-下段2行目) 名付けは男子については七夜になされた例が二件確認できるが、他の名付け時期は不明である。佐竹家では中世から嫡出の長男子が嫡子となる原則が確立しており、嫡子は代々「徳寿丸」と名付けられ、将来宗家を継ぐべき存在であることが内外に示された。養子をとって嫡子にするか庶子を途中で嫡子にした場合は、幼少であれば幼名を「徳寿丸」に改め、成長していれば宗家嫡子の元服後の通称である「次郎」を称させ、他氏から迎えた養子であれば実名を佐竹氏の通字である「義」を組み込んで改名させている。 あと、逸話の真偽は?ではありますが、祖父が命名原因?の珍幼名例を一つ。 「新島襄」に関し、コトバンクの 「ブリタニカ国際大百科事典」では「幼名七五三太(しめた)」 「日本大百科全書(ニッポニカ)」でも「幼名は七五三太(しめた)」が 気になって少し調べてみましたところ、真偽は定かではありませんが、 下記の記述に出くわしました(笑) 『偉人の戸籍調べ:趣味と実益の親玉 上巻/醍醐恵端/二松堂書店/大正10』 「二 新島襄」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/964253/16 <16-17/160>(21頁1行目-22頁3行目) …生まれたのは天保十四年正月十四日だが當時の黑い目先生(※新島襄)、…(中略)…其名は余り娑婆でも見られない七五三太(しめた)といふ名だ。…(中略)…是は又頗る振つて居る。といふのは父の民治には四人も子供があつたが、…(中略)…元來武士の家になくてはならぬは男の子、それに何の因果か生れるものは皆女子、父民治夫婦沈痛の面持で居る所へ其四人の姉に續いて、之は又宿願の男の子黑い目先生が生まれたのだから、まるで福の神が舞込んだやう、家族の歡びといつたら又格別、其時御爺さん皺くちやの相恰崩して惠比須顏、男子の孫の顏見た餘りの嬉しさに、思はず手を拍つて「シメタ」と叫んだ。所が此日は丁度松の内であつたから、早速「シメタ」と「七五三太」と相通ずる所から幼名に採用したんださうな。 以上

kouki-koureisya
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。 先のご回答の「八戸藩主南部直房夫人霊松院」の資料には、 「宝永5(1708)年 75歳  妙雲院 通信娘に於か川(勝)と命名」の記事があります。 祖母(妙雲院)が孫娘の命名をした例になります。 一つの資料からでも命名のいろんなケースが出てきたので、事例に関しては一応締め切ることにしました。

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