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無神論者の方は覚っているのでしょうか?
- 積極的無神論の方は覚っているのでしょうか?
- 一切法事をしない墓参りをしないと云う人の方は、ある意味覚り、一つの生き方を貫かれて居られるのでしょうか?
- 子の結婚式も「堅苦しい」と出席しなかったり、親戚からの訃報のお知らせにも一切無視を貫いております。
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質問者が選んだベストアンサー
一例では、定期的に行事に参加して最期まで信者であった親を「本人がそう望んでいた」ことにして無宗教として簡素に挙げて葬儀代をケチる(宗教の関係者への謝礼は微々たるものであったにかかわらず)。 親が生前から長年、二人分を予約してあった墓をほかの兄弟に相談することもなく勝手に解約。前払いの払い戻しや積み立てておいた使用料も自分の懐へ。 結局、両親は墓にも入れられず、ほかの兄弟にお骨の行方も在処も明かすことなく、取るものだけ取って法事なども当然のごとく行わない長男の例もあります。 >例えば一切法事をしない 墓参りをしないと云う人)の方は、ある意味覚り、一つの生き方を貫かれて居られるのでしょうか? 一生を通して金銭・就学・就職・結婚、不祥事の始末など、ほかの兄弟をさしおいて唯一、両親からつねに優遇されて援助を受けてきたことを考えれば「何重にも罰当たり」としか言いようがないほかは、喪中期間中にもあたりかまわずめでたい年賀状を配ったり、両親の遺産を横領したりするような人間が一貫して信奉しているのは『欲得教』であり、唯我独尊の意味を履き違えた生き方と思います。
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- g27anato
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ある意味「無宗」教、「無神」教という捉え方も可能でしょう。 そうであれば、 「悟(覚)って」いる可能性も否定はできないだろうと思います。 死後の世界という概念自体が無く、 遺体は焼かれて灰になり処分される。 …その「覚悟」こそ「覚り」であり「悟り」であると考えれば、究極の宗教という捉え方も可能なのだろうと思われます。
お礼
御回答有難うございました。 >ある意味「無宗」教、「無神」教という捉え方も可能でしょう。 そうであれば、 「悟(覚)って」いる可能性も否定はできないだろうと思います。 確かに、「死後の世界無意味無価値」と云う人はそうかもしれません。 >死後の世界という概念自体が無く、 遺体は焼かれて灰になり処分される。 …その「覚悟」こそ「覚り」であり「悟り」であると考えれば、究極の宗教という捉え方も可能なのだろうと思われます。 がいうなれば「極楽」も「霊山」も「天国」も 象徴であり、死者と生者が繋がりを持つ切欠と私は見ております。 唯、「積極的無神論」の方は、「生きているうちが全て」ということなのかもしれません。
- yaasan
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無神論という宗教に狂っていると考えればいいと思います。
お礼
御回答有難うございました。 >無神論という宗教に狂っていると考えればいいと思います。 確かに、「何もしない」事に拘り、それで「自分」を形成している生き方だと云う事かと思います。
- g27anato
- ベストアンサー率29% (1166/3945)
それは多分、宗教的な理由ではないだろうと思います。 (そのような決め付けで当事者を追い込んだ可能性は有るかもしれません。) 過去に「自分の立ち位置(精神的な居場所)」を奪われ、 「利己」ではなく「利他」に生きる事を強いられた可能性も考えられます。 相当な葛藤の中で「他者の為に自分を殺す事」の是非を究極まで自問自答した末に、自分なりの答を導き出したのではないでしょうか。 多分、最終結論の直前には「自死」さえも選択肢に浮かんでいたのではないかと推測します。 …そこまで追い込まれる(或いは自分を追い込む)何かが有ったのではないかと推察します。 …第三者には計り知る事のできない、難しい何かだろうと思います。 周囲からの義理や義務の(当事者にとって)理不尽な押し付け、当事者の苦悩に配慮しない人格否定に繋がる一方的な言動の連続など、 更には適切な助言者も無く、束縛からの一次的な解放を求める事さえも拒絶された場合には、当事者がそこに存在する事自体を全否定された印象に陥り、周囲や関係者に対して閉鎖的(或いは排他的、或いは反撃的)な精神に支配されます。
お礼
御回答有難うございました。 >過去に「自分の立ち位置(精神的な居場所)」を奪われ、 「利己」ではなく「利他」に生きる事を強いられた可能性も考えられます。 確かに、村社会等は「強制」が多く、その反動から「何もしたくない」と云う人も居られたと思います。 >相当な葛藤の中で「他者の為に自分を殺す事」の是非を究極まで自問自答した末に、自分なりの答を導き出したのではないでしょうか。 その中で仰られた様な選択もあるのかなとも思えます。 >多分、最終結論の直前には「自死」さえも選択肢に浮かんでいたのではないかと推測します。 …そこまで追い込まれる(或いは自分を追い込む)何かが有ったのではないかと推察します。 …第三者には計り知る事のできない、難しい何かだろうと思います。 周囲からの義理や義務の(当事者にとって)理不尽な押し付け、当事者の苦悩に配慮しない人格否定に繋がる一方的な言動の連続など、 更には適切な助言者も無く、束縛からの一次的な解放を求める事さえも拒絶された場合には、当事者がそこに存在する事自体を全否定された印象に陥り、周囲や関係者に対して閉鎖的(或いは排他的、或いは反撃的)な精神に支配されます。 確かにその様な事例だと、「関わりたくない」と思う事は理解できます。
お礼
御回答有難うございました。 >一例では、定期的に行事に参加して最期まで信者であった親を「本人がそう望んでいた」ことにして無宗教として簡素に挙げて葬儀代をケチる(宗教の関係者への謝礼は微々たるものであったにかかわらず)。 親が生前から長年、二人分を予約してあった墓をほかの兄弟に相談することもなく勝手に解約。前払いの払い戻しや積み立てておいた使用料も自分の懐へ。 結局、両親は墓にも入れられず、ほかの兄弟にお骨の行方も在処も明かすことなく、取るものだけ取って法事なども当然のごとく行わない長男の例もあります。 金銭的に出費を抑えると云う事だけで考えるとこの様なケースに成るのではないかと思います。 >一生を通して金銭・就学・就職・結婚、不祥事の始末など、ほかの兄弟をさしおいて唯一、両親からつねに優遇されて援助を受けてきたことを考えれば「何重にも罰当たり」としか言いようがないほかは、喪中期間中にもあたりかまわずめでたい年賀状を配ったり、両親の遺産を横領したりするような人間が一貫して信奉しているのは『欲得教』であり、唯我独尊の意味を履き違えた生き方と思います。 宗教的なものよりも、その様な風習(冠婚葬祭)で親子や親族の関係も再認識できると思いますが、やはり出費だけで考えると『損得教』になるのだと思います。