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徳川秀忠が四代将軍に兄の孫をあてるつもりだった?
徳川秀忠は世継ぎが出来ない息子の家光のあと 四代将軍に兄・結城秀康の孫の仙千代をあてようとしてたってのは本当でしょうか? (家光の養子にして四代将軍に就かせるつもりだったそうですが)
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- kitsunetoneko
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すいません m(__)m 二番目に回答させて頂いたものです..すいません 私が,勘違いしていたようで,質問者様は,かつての豊臣秀吉氏の,人質兼養子扱いだった,徳川家康氏の次男(三男?)の結城(松平)秀康氏の孫;嫡孫の,松平光長氏のことを指しておられたのですね‥お父さんの松平忠直氏と勘違いしていました m(__)m 少し Web上の情報を拝見すると,確かに,徳川秀忠氏の治世に,越前福井藩(越前家)藩主の,松平忠直氏の行いなどが悪いことから,松平忠直氏が改易された後に,松平忠直氏の弟の松平忠昌氏が,越前福井藩に入り,松平忠直氏の息子;結城秀康氏の嫡孫の松平光長氏は,越後国高田藩へ,減・移封されたようで,やはり,父親の所行の悪さなどが響いたのか,越前家は,いわゆる結城秀康氏の家系ですので,徳川将軍家からも,特別扱いなどを,受けていたようですが,後に,越後騒動などを経て,松平光長氏の養嗣子の代などで,岡山県美作の津山藩に,再び,減・移封となるようですが,結局,松平忠直氏の正室の,徳川秀忠氏の三女の勝姫(高田御前)が,改易された夫には,随行せず,息子の松平光長氏の居る高田藩へ移り,父親の徳川秀忠氏に,母親の江(浅井江)氏も加わって,松平光長氏が,徳川家光氏に,世嗣が産まれなかった場合,徳川将軍家の将軍職に就くよう斡旋し,徳川秀忠氏も,徳川家光氏に,もし,男児が産まれなければ,松平光長氏を,将軍職に就けるつもりなどもあったようです..しかし,結局,徳川家光氏には,側室との間に,徳川家継氏や徳川綱吉氏などの男児が,けっこう産まれたので,徳川秀忠氏の,自身の娘の勝姫の息子の松平光長氏を,将軍職に就けるという口約束?などは,破談になったようです..この高田御前こと勝姫は,大変気性の強い女性だったのか,自身の孫娘の国姫;松平光長氏の娘と,越前福井藩の松平忠昌氏の息子との結婚を,姉の千姫;天樹院をも巻き込んで,紆余曲折有りましたが,遂行させ,越後の松平光長氏の家系と,越前福井の松平忠昌氏の家系を,強固に結び付けようとしたのか,国姫に,男児が産まれなかったにも関わらず,側室との間に出来た男児を,国姫の養子として認めず,断固とした態度などで臨んだ為,国姫も,自害してしまったとか..浅井江氏も,けっこう気の強い女性だったようですが,勝姫も,かなり気性の強い方だったようで,千姫は,おとなしかったようですが,淀殿似ですかね‥‥
- kitsunetoneko
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すいません m(__)m 少し Web上で調べますと,確かに,江戸時代初期,元和年間の,当時の長崎オランダ商館長のレオナルド・カンプス氏や,イギリス商館長のリチャード・コックス氏の,本国への文書などには,質問者様のおっしゃるような文言などが,あったようですね‥‥次期皇帝(徳川将軍家の将軍を指しているようです)に,現将軍の徳川秀忠氏の異母兄の,結城(松平)秀康氏の息子を,就任させようとする動き?などがある‥‥みたいな記述のようで,そういう動きに賛同している大名の一人に,徳川秀忠氏によって改易された,徳川家康氏の側近などだった,本多正純氏の名前などがあるようですが,その,当時のオランダ人の平戸商館長や,イギリス人による報告などについての信憑性などは,低いようで,松平忠直氏は,確かに,父親の結城秀康氏自体も,徳川家康氏の次男坊でありながら,将軍職を有望視されながらも,結局,関ヶ原の戦い以後は,弟の,三男(四男?)の徳川秀忠氏に,将軍職を譲るといった形などで,越前福井藩の大名家としての道などを,歩み始めた訳ですが,確かに,結城秀康氏も,生前,越前福井藩に招かれた,出雲阿国に,多少 愚痴ったりはしていたみたいですが,34歳で亡くなられていますし,息子の松平忠直氏も,大坂の陣での,自身の恩賞などに,不満を持っていたり,当時の徳川将軍家に,反抗的な態度などを取っていたようですが,松平忠直氏の正室は,徳川秀忠氏の娘の一人ですし,松平忠直氏自体は,越前福井藩で,藩政に尽力したとも言われているようで,暴君という逸話などもあるようですが,私の知る限りでは,徳川秀忠氏は,自身の息子の,徳川家光氏と徳川忠長氏を,次期将軍として考えていたと思いますので,当初は,次男の徳川忠長氏を溺愛し,将軍職に押していたとかですが,異母兄の息子を,自身の後継者にしようとは,考えていなかったと思われます..どちらかというと,徳川秀忠氏は,文武両道の,優秀な兄の結城秀康氏へのコンプレックスや,負い目などの方が強かったのではないでしょうか‥松平忠直氏には,当時禁止されていたキリスト教との関わり?などもあるようで,改易された理由には,諸説あるようですが,当時,改易された徳川家康氏の重臣達にまつわる噂話かもしれません..
お礼
ありがとヴ
- ithi
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azuki-7 さん、こんばんは。 家康は本家が家光で終わった場合、尾張、紀州のどちらかから後継者を出すよう、遺言しましたから、そういうことはないと思います。松平光長をあえて、越後26万石にしたのは武家諸法度にある父親忠直の不手際を父親忠直を隠居。年端もいかない9歳の仙千代の家督相続を認めて、実名を光長と改め、領地を半減したという風に考えた方が合理的です。 松平光長 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%85%89%E9%95%B7
お礼
ありがとうございました 当時は尾張・紀伊どちらも世継ぎは生まれていませんでした
お礼
ありがとうございます