- 締切済み
平等
こんにちは。 「平等」について。 「機会の平等」と、「結果の平等」の違いについて、教えて下さい。 宜しくお願い致します。
- みんなの回答 (4)
- 専門家の回答
みんなの回答
- g27xxxxx
- ベストアンサー率28% (124/441)
先の算数式に例えた回答は分かりにくいので、 改めて回答します。 例えば二人の100m走選手がいるとします。 身体能力は同程度と思われるのですが、家庭環境の違いから練習環境も全く違うため、 選手Aはベストが全国大会での10秒00、 選手Bのベストは地区大会での11秒00。 この二人には条件的な違いから、明らかな実力の差が有るのですが、 そのまま二人を同じ大会の同じレースで競わせました。 …これが「機会の平等」です。 実力の差はレース結果の差にも現れました。 そこで選手Bにも練習環境を整えて選手Aと同等と実力を付けさせようと、公費で強化選手としてトレーニングセンターに招待しました。 その結果、選手Bにも実力が付き、二人は全国で1、2位を争う良きライバルになりました。 …これが「結果の平等」です。 「機会の平等は」格差を解消しない。 格差を解消するのが「結果の平等」。 …そこに違いがあります。
- g27xxxxx
- ベストアンサー率28% (124/441)
算数の計算に例えます。 条件として1と2という数字を用意します。 どんな計算にも1と2を使うのが機会の平等のようですが、 1+2=3 1―2=―1 1×2=2 1÷2=0.5 結果に違いがでます。 機会とは+―×÷のような計算式が相当します。 与えられる条件が同じなら、機会も平等に与えられることで、結果も平等になることを前提とします。 条件としての数字は違っても求める答は2と仮定します。 1+1=2 2―0=2 3×0.7≒2 4÷2=2 このようにして与えられる機会と加える条件の双方を変えることで、結果の平等を求めます。 …分かるかな。 分かり難いかな。
お礼
g27xxxxx様、ご回答ありがとうございます。 ちょっと分かり難いですし、 「1と2しか使えない」/「正答は「2」に限る」など、 ちょっと極端な例え方と思います。
- hekiyu
- ベストアンサー率32% (7193/21843)
チャンスを平等に与えているなら、結果がどう不平等に なっても構わない、というのが機会の平等。 チャンスが平等でも、人間には先天的な違いがある し、親の財力などによっても違いがある。 だからチャンスだけを平等にしただけではダメで、 結果を平等にすべきだ、というのが結果の平等。
お礼
hekiyu様、ご回答ありがとうございます。 >「チャンスを平等に与えているなら、結果がどう不平等に なっても構わない、というのが機会の平等。」 ちょっと、小生の思い付きなんですが、これでいくと、 例えば、仏教徒などは相当に生き難いことになるのではないでしょうか。 >「チャンスが平等でも、人間には先天的な違いがある し、親の財力などによっても違いがある。」 だからチャンスだけを平等にしただけではダメで、 結果を平等にすべきだ、というのが結果の平等。」 なるほど。「先天的な違い」や「親の財力」が違う、 というのは、判り易いです。
- nekosuke16
- ベストアンサー率24% (903/3668)
うーん。 機会の平等というのは、チャンスの平等。 しかし、現実には、金持ちは当たり前に高校に進学し、当然、大学にも進学する。 しかし、例えば、母子家庭の子供が、家計の助けにと中卒で働かなければならない、或いは、大学進学を希望していても、家計が苦しく諦めなければならない。 受験、進学という機会に対して、金持ちの子供は何事も無かったように、これを利用できるが、母子家庭や貧困家庭の子供は、この受験、進学という機会を初めから与えられないことも多い。 特に大学進学については、この機会の平等という言葉は、空しく響く。 逆に、結果の平等というのは、現実に効果があるかどうかは別として、制度的に門戸を開いているという意味での平等。 結果の平等として、誰にでも大学受験は可能ではあるが、機会の平等については、家庭の事情によって平等ということにはならない場合もある。 チャンスは現実社会においては、必ずしも平等には与えられないということですね。 産まれ落ちた家や環境が劣悪ならば、この平等という高い理想は、空論に過ぎないということです。
お礼
nekosuke16様、ご回答ありがとうございます。 >「うーん。 機会の平等というのは、チャンスの平等。 しかし、現実には、金持ちは当たり前に高校に進学し、当然、大学にも進学する。 しかし、例えば、母子家庭の子供が、家計の助けにと中卒で働かなければならない、或いは、大学進学を希望していても、家計が苦しく諦めなければならない。 受験、進学という機会に対して、金持ちの子供は何事も無かったように、これを利用できるが、母子家庭や貧困家庭の子供は、この受験、進学という機会を初めから与えられないことも多い。 特に大学進学については、この機会の平等という言葉は、空しく響く。」 そこを、なんとかするのが「機会の平等」と思います。 (・・・といえ、「大学は出たけれど」ということも、あるかもしれず) >「逆に、結果の平等というのは、現実に効果があるかどうかは別として、制度的に門戸を開いているという意味での平等。 結果の平等として、誰にでも大学受験は可能ではあるが、機会の平等については、家庭の事情によって平等ということにはならない場合もある。」 そうですかね。 かつて、>「徒競争においては、全員が時を同じくしてゴールすべき」と言った論者が居ました。 それは極端としても。 ・・・少なくとも、「健康で文化的な、最低限度の生活を営む権利を有する」というのが、「結果の平等」であるはずです。 >「チャンスは現実社会においては、必ずしも平等には与えられないということですね。 産まれ落ちた家や環境が劣悪ならば、この平等という高い理想は、空論に過ぎないということです。」 それは、「機会の平等」ですか?「結果の平等」ですか?
お礼
g27xxxxx様、ご回答ありがとうございます。 先日、近所に出掛けた時、運動会を二つほど見ました。 前世紀にはあった、という 「速い子は、スタート地点を1m手前にする」といったことが、 現在でも行われているのか、そこまでは確認出来ませんでしたし、 最近、新聞で言われている「組体操」も見れませんでしたが。 >「そこで選手Bにも練習環境を整えて選手Aと同等と実力を付けさせようと、公費で強化選手としてトレーニングセンターに招待しました。 その結果、選手Bにも実力が付き、二人は全国で1、2位を争う良きライバルになりました。 …これが「結果の平等」です。」 環境は、大事なんですよね。 >「「機会の平等は」格差を解消しない。 格差を解消するのが「結果の平等」。 …そこに違いがあります。」 良く分かりました。ですが、 「トレーニングセンター」に参加出来る、というのも、 「機会の平等」ではないか、とも思われますし、 「結果の平等」ということ重視し過ぎると、 「どこまですればいいんだ」という問題もありますね。