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数万の平家軍が水鳥に驚いて逃げ帰ったのは本当?
詳しくは忘れましたが、源氏追討に向かった数万の平家軍が、水鳥の羽音に驚いてあわてて京都まで逃げ帰ったといわれています。 しかし、これには疑問があります。仮にも軍人たるもの、水鳥の羽音に逃げ出すだろうかという疑問です。 敵の襲来と見誤ったのはわかりますが、少し退けば事態が飲み込めるはずです。 追討のために勇んで出かけてきたわけですから、それなりの覚悟が出来ていがはずで、簡単に逃げ出すのは不自然です。 それに京都に帰ってなんと報告しらたいいでしょうか?弱虫とそしられるだけです。そのことを考慮すれば、これは歴史的事実ではなく虚構ではないかと想うのですが。 みなさんは、どうおもいますか?
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水鳥に驚いたので逃げたというのは、一般的にはいくらなんでも京都までというのは、平家物語の虚構の可能性が高いと言われていますね。ただ、水鳥はともかく、ほとんど戦闘なく逃げたのは事実のようです。それは兵力のあまりの違いによるもので、無駄と判断したということのようです。 平家物語は、兵に数等で相当の誇張があると言われていると言うに事実とは違う記述がたくさんあります。それらは、平家物語のいくつかある諸本の記述の違い、当時の公家の日記『玉葉』の記述の食い違いから分かることで、委細をつくした物語のすべてが本当だというのではないそうです。 ちなみに、講談社学術文庫の杉本圭三郎『平家物語』の考察によると、 当時の公家・藤原忠親の日記『山槐記』には、この話を伝聞として載せていますが、それについては、日記自体にも「近日門門戸戸ニ虚言甚ダ多シ、此ノ事定メテ実少ナキカ。」とあって、当時知られていた話ではあるとしていますが、事実かどうかまでは分からないようです。なお、『山槐記』記述に現れる記述では、源氏数万、平家(官兵)二千余騎となっています。 やはり公家・藤原(九条)兼実『玉葉』(というか、本来、日記というのは公家が朝廷の仕事や家の記録としてつけるもの)にもあって、そこでは、平家方四千騎、富士川に仮屋を構えたのは良いが、源氏方数万の軍に寝返ったものがおり、引き留める力もない、残るところは一~二千騎にも満たなくなってしまったので、「敵対スルニ及ブベカラザルニ依リ、窃カニ以テ引ク退ク」とあり、さらに、「タマタマ残ル所ノ輩、過半は逐電ス」とあって、要するに平家軍自体が闘うに堪えない状況であったと、記されています。 杉本氏は、これが実情ではなかろうか、とされています。なお、『玉葉』では、維盛自身が逃げたかったわけではないようだと書かれています。 ボロ負けしたことは、藤原経房『吉記』にも、途中板東武者の放火にも会い、散々に帰ってきたとありますので、これは事実ですね。 しかし、戦わずして帰ってきたのは、敵の兵力に対して、兵隊として成立していなかったがためというのが理由のようですね。 『山槐記』にも『吉記』にも、噂が縦横に入り乱れる様子が書かれていますので、『平家物語』は、噂なども積極的に利用・着色しながら、物語として面白く平家の無能ぶりを書いたのでしょう。 *なお、公家の日記引用部分については、現代的用法のにあわせて、漢字を仮名に改めたところがあります。
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- smzsmz
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水鳥に驚いて逃げ帰ったのは本当? 皆さんの回答を見て、今までそんなことで逃げるかなと思っていましたが。私は本当だったのでは無いかと思えてきました。 理由 1、嘘にしたらあまりにもお粗末で、子供でももっとましな嘘をつくのでは無いか 2,数万の軍隊と有りますが、当時近畿地方は飢饉のため何万の軍隊を遅れる状況では無い。敵は、石橋山の合戦で敗れ孤立無援だと思っている。又箱根に入れば味方も増えると思っていて、関東武士の殆どを、敵に回すと考えていないため、物見遊山でいったのでは無いか、その為人選を誤った考えられる。そして、出発時には、千人位(或いはそれ以下)では無かったかと思われます、陣借り等で、富士川に着いたときに一万以下の規模だが 烏合の衆で、関東に近ずいて来ると、物見等から源氏数万向かって来ている等、色々な情報が有ったのではないか、むしろ下級武士に物売り等から、情報が(密偵等情報操作があったのでは無いか(自信なし))入ってきていて、戦意が低下していたのでは無いかと考えられます。自分たちは、数千相手は何万勝負に為らないと考えますよね。 結論 無能な指揮官 烏合の衆 戦意喪失 この状態で、夜、奇襲を恐れている所に、何万(千)の水鳥が羽ばたいたら、 夜襲と思い総崩れになり一度崩れたら取り返しが付なくなった。 兵は、さっさと自分の領地に帰り、残ったのが出発時の千人以下だったら、もう帰るしか 無いと思います。 なかなか帰らなかったのは、自分を飾れる言い訳を考えていたが、 思い浮かばないので、有りのままを報告したのでは無いかと思われます。
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ありがとうございます。 骨子は「平家物語」のストーリーそのままですね。 「平家物語」では平家7万人、源氏20万人となっています。
>忠清が日を忌んで討伐の軍の出立が遅れたようです これは、『山槐記』に載せるところです。『平家物語』では、維盛がぼやぼやしていたので、頼朝の勢力が大きくなり手遅れになってしまったと、維盛の悠長ぶりを嘆いています。 物語では、極端な人物設定・・ここでは臆病で危機感のない大将軍・維盛という人物設定・・をして面白く描きますので、それをもとに史実を論じることは難しいという例ですね。
6です。 >それに京都に帰ってなんと報告しらたいいでしょうか?弱虫とそしられるだけです 本人もそれを気にしてたのでしょう。 前記『玉葉』には、「敵対するに及ぶべからざらにより、ひそかにもって引き退く」に続けて「是則ち忠清の謀略なり。維盛に於いては、敢えて引き退くの心なしと云々。而して忠清、次第の理を立て、再三教訓す。士卒の輩、多く以てこれに同ず。すなわち黙止するあたわず」(引用に際して、ひらがなにしました。また現代的用法にあわせて漢字をひらがなにしてあります)とあり、面子なのか血気にはやってなのか、諫められて引いたということのようです。 「謀略」というのはどういう意味なのか分かりませんが、忠清は、維盛・忠度とともに、この軍を率いた人物ですが、忠清が日を忌んで討伐の軍の出立が遅れたようです。別の合戦でも逃げた人物として描かれているそうです。また忠度は武人と言うより歌人として名を残した人ですし、維盛は無茶苦茶に言われていますが、戦の経験のない人物を総大将にすえなくてはいけないところに、情報の甘さもさりながら、平家の事情が見え隠れするようにも思います。維盛本人にすれば、貧乏くじを引いたというところかもしれません。 なお、『平家物語』では、源氏20万とあり、平家7万になってました。かなり誇張はされています。それでも『平家物語』の記述から、源氏の圧倒的優勢であることは伝わりますが、『玉葉』などの記述では、源氏数万、平家数千(さらに減る)とありますので、『平家物語』の記述よりもさらに力に開きがあったと思われます。 これじゃ勝負になりませんね。いったん逃げるしかないと思います。 しかし、帰った維盛と忠清への、清盛の怒りはすさまじく、『平家物語』では忠清を死罪に、維盛を鬼界が島へ流せとなっていますが、『玉葉』にも死刑云々は書かれていませんが(それは脚色でしょう)、怒りの凄まじかったことは書かれています。
お礼
ありがとうございます。 戦略的撤退であった可能性がぐっと高まりました。 清盛、重盛がもっと生きていれば、源平合戦ももっと合戦らしいものになったかと思います。 平家は負けてしまったゆえに、かなり損(悪く書かれる)をしているように思えます。 維盛も数奇な運命をたどっています。 もういちど平家物語を読み返してみたいと思います。
- No51
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河を挟んだ戦いでは、世界的に見ても、 「大番狂わせ」が起きやすい、 と言うイメージがあります。 記憶が曖昧で出典が思い出せないのですが。 (多分古代中国) 敵が渡河してくるのを、一時引いて、 故意に川原にスペースを空けて、そこに 上陸して来た所を囲んで叩く。 そんな戦術を行った指揮官がいましたが、 何十万という軍勢の後ろの方では、 状況がサッパリわからなくなり、 「我が軍不利!最前線では敗走中!」 の噂がだけが広まり、我先に逃げ出した。 確かそんな戦記を読んだ事があります。 もし、これが両軍とも川に沿って並列にズラリと 並んでいたら、ありえないですが、 先頭が数百人で、後ろに1000列以上いたら、 ありえるかもしれません。 地理的な条件がわかりませんので、 何とも言えませんが、参考までに。
お礼
ありがとうございます。
- wildcat
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>数万の平家軍が水鳥に驚いて逃げ帰ったのは本当? 勝てば官軍、負ければ賊軍ですので、この話が信用できるものかどうかわかりません。物語や記録物でも結局書く人の立場により、主観がはいるので客観性にかけます。 しかし、歴史は淘汰されて残された複数の資料で同じ事件をとりあげていれば、記述内容の類似性や一致点によって正しいか間違っているか判断するしかありません。誰も当時のことを見聞きしているわけではありません。単に源氏側に都合のいい資料が複数残ったというだけですので、本当かどうか真偽のほどは五分と五分でしょうね。 平家は(後に)負けるべくして負けた、滅ぶべくして滅んだということを強調するためにもこの説話が必要だったのじゃないでしょうか。
- cse_ri2
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当時の状況の認識が不十分なのではないでしょうか。 >仮にも軍人たるもの、水鳥の羽音に逃げ出すだろうかと >いう疑問です。 >敵の襲来と見誤ったのはわかりますが、少し退けば事態 >が飲み込めるはずです。 他の方の回答にあるように、総指揮官の平維盛が素人指揮官 だったので、軍を独力で立て直す力量がなかったと考えられ ます。 軍隊というのは、一匹の狼に率いられた千匹の羊の軍隊の 方が、一匹の羊に率いられた千匹の狼の軍隊より強いもの で、システム化されていない古代の軍隊においてはなおさら その傾向があります。 >それに京都に帰ってなんと報告しらたいいでしょうか? >弱虫とそしられるだけです。 指揮官の平維盛は、上記のような評価を受けることとなりました。 >しかし冷静に考えれば、仮にも武士団が水鳥でパニック >を起こし、敵前逃亡するかなと思います。 >一戦も交えず逃げ帰っては言い訳も面子も立たないです >ね。 >たしか軍勢は7万騎もあったと思います。7万もの人を >同時に驚かす水鳥の大群はありえないのではと。 >驚いてもすぐに引き返すはずですが。 後世の私たちは、当時の状況をほぼ正確に知っています。 しかし当事者の平家軍は、そうではなかったのです。 No.1の方の回答にあるように、現地の事情に詳しい「大庭 影親・伊東祐親」の軍は、富士川の合戦以前に敗退しており、 正確な状況がわかりません。 他の関東武士は、先を争って頼朝の側に馳せ参じており、 おそらく山川草木までもが、自分たちの敵に回っているかの ような錯覚に陥っているということは、容易に想像できます。 また指揮官の平維盛はド素人で、後の合戦にも度々負けて いることから、指揮官としての質は極めて低かったと考えられます。 情報が入手できず正確な状況がわからない、指揮官に敗退 した軍を再編成するほどの力量がないとすれば、逃げ帰る ことしかできなかったのは、必然と言えましょう。 >仮にも軍人たるもの、水鳥の羽音に逃げ出すだろうか >という疑問です。 平家物語は文学ですから、水鳥の羽音に驚いて逃げたという 文学的な表現にしていますが、実態は圧倒的な数を誇る頼朝 の軍を、平家側が戦う前から恐れており、夜襲を恐れて ヘッピリ腰になっていたところを、水鳥の羽音に驚いて 逃げ出したというところでしょう。 実際、甲斐源氏の軍は、夜襲目的で平家の陣に近づいていた わけですから、間違ってはいないわけです。 また当時の戦では、夜襲をかければ必ずといいほど勝って いますから、夜襲を恐れていたのは当然でしょう。 後の時代では、夜襲対策として陣の回りにかがり火を盛大 に焚くという工夫が出てきますが、この時代にはそういった 知恵が、まだ一般的ではなかったかもしれません。
お礼
ありがとうございます。
- shiro-to-kuro
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>しかし冷静に考えれば、仮にも武士団が水鳥でパニックを起こし、敵前逃亡するかなと思います。 >一戦も交えず逃げ帰っては言い訳も面子も立たないですね。 >たしか軍勢は7万騎もあったと思います。7万もの人を同時に驚かす水鳥の大群はありえないのではと。 >驚いてもすぐに引き返すはずですが。 一旦崩れた軍勢というものは、そうそう立てなおすことはできません。一部の指揮官が冷静になっても、数が多ければ指揮を徹底させることも難しく、却って動きが取れなくなってしまうことの方が多くなります。時代は飛びますが、大将の義元を倒されただけで、数百の織田信長軍に数万の今川軍が敗れた桶狭間の戦いなど、このような例はたくさんあります。 また、現在、我々が思っているような『武士道』が成立したのはずっと後の江戸時代になってからのことです。この時代の武士は、「職業軍人」のようなもので哲学のようなものができていたわけでもありません。ですから、形成不利と見れば、撤退することも厭わなかったと見て良いのではないでしょうか。
お礼
ありがとうございます。 >一旦崩れた軍勢というものは、そうそう立てなおすことはできません。 戦っていないので、崩れていないわけです。 水鳥がいたわけですから、目の前には川があったわけで、相手が攻めてくるには川を越えなければなりません。 敵を見極めるのに心理的、時間的な余裕があったはずです。 今川軍は大将が殺されたので、総崩れになっても不思議ではありません。 戦っていないのに総崩れになる例は他にないと思います。 そもそも水鳥はどこにでもいるので、誰も驚かないと思います。
頼朝という人物は神がかり的に「ついていた」人物という前提で考えてください。 まず富士川の合戦ですが、ご指摘のように東国武士団も加わっており、頼朝の軍に決して引けを取るような陣容ではありません。 「平家物語」で想像するような、お歯黒のお公家さんがなれない刀をとって物見遊山に来たというのではなく、各地から集まってきた武士団ですから、かなりの戦力と考えられます。 話を少々遡ると頼朝は「石橋山の合戦」で大敗北を喫し、命からがら脱出します。 この報告を京都で受けた平家の首脳陣は「東国でちょっとした反乱が起きたが鎮圧された」と安心してしまい、その後の頼朝挙兵を聞いても「大したことはない」と1ヶ月あまりも放置した上、実戦経験の全くない平維盛を総大将に出発します。 ところがこの1ヶ月あまりのタイムラグが東国情勢を一変させ、追討軍と連携して動くはずの平家方の関東武士「大庭影親・伊東祐親」の両軍は壊滅、逆に源氏側には平広常(平家ですが頼朝に味方)が加わった上に、甲斐源氏も合流し侮りがたい勢力になってしまいました。 もう1つ平家に不運だったのは西日本に天災があり、多くの人間が死んだことも上げられます。 まとめますと 平家は実戦経験のない指揮官が天災によって半病人状態の軍勢を連れて出陣したため士気が上がらない上、相手の勢力を数千人と見くびっている。 また地元に詳しい協力者もやられてしまい、様子が分からない。 それに対して頼朝は自分のホームグランドで相手勢力を一掃して、数万の大軍を擁して対陣、東国は豊作で気力も満ち溢れている。 こんな状況ですから、水鳥の羽音を敵の来襲と勘違いしてパニックが広がり、壊滅したことも十分考えられます。 平家の兵士たちもやる気がなくやってきたので、よい機会と逃げ出した者も多かったと考えられます。 歴史に「if」はありませんが、もし「石橋山の合戦」で頼朝が善戦したら平家も経験豊かな大将が精鋭を率いて来た筈ですし、天災がなければ厭世気分もなく、少なくとも互角以上の戦になったはずです。 つまり「僥倖」なんです。
お礼
ありがとうございます。 「水鳥パニックはありえる」という解釈ですね。 平家軍は緒戦では勝っているわけですから、意気揚々と頼朝討伐へ出発したと思っていました。 しかし冷静に考えれば、仮にも武士団が水鳥でパニックを起こし、敵前逃亡するかなと思います。 一戦も交えず逃げ帰っては言い訳も面子も立たないですね。 たしか軍勢は7万騎もあったと思います。7万もの人を同時に驚かす水鳥の大群はありえないのではと。 驚いてもすぐに引き返すはずですが。
お礼
ありがとうございます。 やはり虚構の可能性が高いのですね。 「源氏数万、平家(官兵)二千余騎」(山槐記)が実情とすれば、体制を立て直すために撤退したとも考えられます。 「源氏方数万の軍に寝返ったものがおり、残るところは一~二千騎」(玉葉)が現状であれば、やはり戦わずして退却した可能性があります。 平家は関東では人気がなかったのですね。