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有終の美 No. 2
昨日、表題の題名で質問しました。無記載ですがNo. 1でした。 http://okwave.jp/qa/q9220847.html 素晴らしいご薀蓄での皆さんのご回答に心より感謝します。 SPS700 さんの"無終の醜"をBAにさせていただきました。 ★シャットダウンして気づいたのですが、質問では造語もOKと書いていなかったので一種のだまし討ちになってしまったことをお詫びします。 ★そして更に気づいたのですが、"有終の美"って、"終の美"ば有ることではないかと考えました。 この思いは正しいでしょうか?それともやはり"有終"の"美"なんでしょうか? どうか教えてください。
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そのことわざを略さずにいえば、有終の美を飾る、というものですね。「有終の美」は「終わりの美しさ、というものが有る」ではなく、「終わりの有ること、ということが美しい」という意味になっています。 中国古典:詩経の「初め有らざるなし 克く終わり有る鮮(すくな)し」が出典です。「物事には必ず始まりがあるが、(きちんと)終わらせることは珍しい」ということですね。ですので、 > それともやはり"有終"の"美"なんでしょうか? ということになります。 それを「飾る」(立派に見えるようにする)というのは、命令形を含意しています。つまり、 「始めたことは、きちんと終わらせるようにせよ」 ということなんです。もちろん、そうできれば「きちんと終わらせたね、お見事です」という意味で、「有終の美」と称えることになります。 例えば、仕事を定年引退後、いつまでも現役時代の自分がいかに凄かったかを語りたがる、難関大学卒業者であることを30代になっても自慢している、といったことは「有終の美」ができていないことになります。 もう用済みのことをどのように終わらせるかですが、「断捨離」が参考になるかもしれません。不用品を整理するという流行りの断捨離ではなく、もともとの修行などの一過程で行われる断捨離です。 自分にとってよくないものは、たとえそれをどんなに大事に思えても捨てることが必要です。でないと、用済みのものに固執して先に進めないからですね。修行の心得で似た句の「守破離」もできなくなります。「守」は己をむなしくして師を真似る修行ですから、今までの自分にも見どころがあると思い、我を張っているのは妄執といっていいもので、それでは決して「守」ができないのです。 そこで、断捨離を行います。自分にとって最も価値があるが用済みのことは、断って(惜しむ気持ちで非常に苦しい)、捨てて(まだときどき思い出して苦しい)、離れる(忘れることができた)わけです。「離」は、もう思い出しもしないくらいのレベルになります。それでようやく、妄執に対して「有終の美を飾る」ことができるわけです。 先の大戦では、負けで終わらせるのが非常に難しかったことが、映画「日本のいちばん長い日」などでもよく表現されていました。戦っていれば何とかなる、有効に一撃して有利な講和を、などと言っているうちにどうしようもなくなったわけです。「有終」ではありませんでした。もちろん「美」なんてものではなかった。 こういう原義から転じて、本番ではきっちりやれた、詰めの甘さはなかった、といった意味にも使われるようになりました。原義から対義語を考えますと、「隴を得て蜀を望む」(欲望が尽きないこと)、「牛の小便」(だらだら長くて終わらないこと)などが考えられます。終わり方がよくないという転用の対義語ですと、「晩節を汚す」などでしょう。
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- msMike
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》 “有終の美”って、“終の美”ば有ることではないかと考えました。 哲学的なことはトンと判らない私は、「有終の美」の「美」は「立派な成果」のことかと。つまり・・・ 有終の美を飾る⇒最後までやり通して、「立派な成果」をあげる。
お礼
ありがとうございました。 JGuile さんのご回答に詳細なご説明がありますね。 そのようですね。
お礼
素晴らしいですね、いえもちろんご回答の内容が。 ありがとうございました。 大変勉強になりました。