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悟りを得るとなぜ輪廻から解脱できるのですか?

悟るということは理解するということですよね。あることが出来ることと理解することは同じではないですよね。 例えば、鳥が空を飛ぶ力学的原理をあなたが理解したところであなたは空を飛べないですよね。 逆に鳥は飛行の力学的理論を知らないのに飛んでいます。 理解と実践は別のことですよね。 悟るとなぜ輪廻から解脱できると考えたのでしょうか? その理屈を教えてください

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  • shiren2
  • ベストアンサー率47% (139/295)
回答No.1

正しい思考ですね。 あなたの仰る通り、悟りを得ると解脱出来るというのは正確には間違いです。 だからこそ仏陀も生涯修行を続けたのです。 例えば三学の理論でいえば、戒学によって新しい業が生まれることを防ぎ、 定学によって既にある業を清め、慧学によって悟りを開きます。 仮に慧学だけ修めても、既にある業からは解放されませんし、新しく生み出される業からも解放されません。 そしてこの業こそが生まれてくる原因ですから、当然、輪廻からも解放されません。 そもそも、仏教とは実践に重きを置いた宗教です。 何を実践するのかといえば、八正道ですね。 この八正道の実践こそが解脱に至る道なのであって、八正道の実践抜きに悟りを開いたのなんの喚いたところで絵に描いた餅にしかなりません。 結論としては、あなたの理解が正しい、ということです。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 肉体的な実践が重要ということですね。 人間が何かをできるようになるには確かに肉体的な実践が必要ですね。 少しわかった気がします。 さらに考えてみたいと思います。

その他の回答 (8)

  • Tefu_Tefu
  • ベストアンサー率27% (87/322)
回答No.9

stmimさん こんばんは 輪廻転生とは、同じことの繰り返し。地球の公転や自転による現象から導かれた考え方です。 これから、人はカースト制度を信じていたのです。 人は生まれた身分により、能力は決まっているのだと。 現在でも、信じている人は多いと思います。 人は、生きていると親の影響や社会の影響により、偏見(認知バイアス=脳の負担を減らすための仕組み)を持ってしまいます。 自分の思うようにはならないと苦しむのです。 しかし、現実は、経験を積みながら新しい知識を得て考えながら行動すればできることがあることに、気が付きます。 原因と結果を考えながら、自分のできることを一つ一つ行えば未来は変わるのです。 食物連鎖を考えると、同じことを繰り返しているように観えます。 果たして、繰り返しは正しいでしょうか? いいえ、生き物は環境が変われば、一部の適応した生き物が進化します。 地球は進化により、多様な生命が生まれてきたのです。 これから、人間も進化する人々が生まれてきます。 実は、現在、生きている生き物も一部の生き物が進化し続けています。 人は輪廻転生などしません。未来の進化し続ける生き物へと生まれ変わるのです。 くれぐれも、認知バイアスにはご注意を。 あっ それから、分別智と無分別智の違い。 分別と無分別について教えて下さい - お坊さんQ&Aサイト[has http://hasunoha.jp/questions/977

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 私も輪廻はないと思っています。 なぜ釈迦は悟ると輪廻を脱すると考えたのかをお尋ねしたかったのです。

回答No.8

>悟るとなぜ輪廻から解脱できると考えたのでしょうか? 仏教においては悟ると涅槃寂静の世界に行くからです。 涅槃寂静の世界に行ったからには、易々と騒々しい世界に転生することはありません。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 つまりなぜかと言われても、それはそうゆうものだからということでしょうか。

回答No.7

> 我々が死ぬと死者の国に肉体が行っているのでしょうか? 肉体は滅するよ。 君たちは死者となる。 仏教における釈迦の研究で、涅槃に入滅した釈迦は、転生するものと決定的な決別をするようだね。釈迦は死者の国ではなく、神の世に赴いたし存命中から神の世に生きていた。世界観が人と違い、世の中に君たち死ぬものと違う見解を持っていた。この世は地獄同然の娑婆だといったのは、単に君たち縋りつく者の世界観の代弁で仏陀である釈迦の本来の見解は違った。その内容は、釈迦の教える無の悟りを体得すると何も語らなくても本人が自覚するという形だ。したがって釈迦は何も教えていないよ。ただ繰り返し死を体験する輪廻に憐れみを語っただけだ。 そして彼の入滅で君たち死者の国に赴くものとは縁が切れているんだ。 私も彼が涅槃と語った神の世にいるが、私の体が滅すると君たちは私もしょせん死ぬのだとしか思わないだろう。実際私は死なないんだけどね。話してもこの点は確かに無駄だ。なぜなら君たちは死ぬのだから。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 なぜ、悟ると輪廻を脱するのか?そのメカニズムといいますか理屈をお尋ねしたかったのですが。

  • jack-a3
  • ベストアンサー率38% (309/806)
回答No.6

No2です。脳の状態が変化することで解脱する。うーん、ちょっと違うとも言えるし合っているとも言えるかな。 違っているというのは、仏教における悟りとは精神と肉体とか、自分と他人、自分と世界、そういった区分などを全て超越した状態であるとされてます。脳の状態だけが変化しているワケではない。逆に厳しい肉体修行だけで得られるものでもない。 合ってるというのは、悟りを得ることは別にスーパーサイヤ人に変身するようなワケではなく、あくまで自分の心の持ちようが変化した状態です。で、仏教は(というか創始者のブッダは)そういう悟りを得ることで解脱できますよ、と定義しているのです。これは公理であり、証明できるものではありません。仏教を信仰するということは、悟りを得れることで解脱できることを信じる、ということです。そういう意味では観念的です。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 仏教の話を考えるのに脳がどうとかいうのはナンセンスなのかもしれないですね。その時代に脳がどんな役割をしていたか知られていたわけではないですから。 悟りとは心の持ちようなんですね。あるここの持ち方をすると解脱できると。それが公理ということですと、なぜ?と聞くのは意味がないですね。

stmim
質問者

補足

ミスタイプです。 あるここの持ち方→ある心の持ち方

  • koosaka
  • ベストアンサー率43% (78/179)
回答No.5

「悟る」とは、対立を乗り越える、超越するという意味。 たとえば生と死の対立。 「輪廻」は対立が乗り越えられないから「輪廻」します。 解脱、つまり「悟れ」ば、「輪廻」を出られます。 たぶん、あなたの質問は、仏教とか禅を知らないことから出ているんだと思います。 「悟る」ということがどういうことかご存知ない。 「理解と実践は別のことですよね」と言っているのを見て、ピンときました。 ああ、この人は仏教を、禅を、「悟り」を知らないな、と。 私は昔、禅の修行をしたから、ある程度「悟り」が何であるか、分かります。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 対立を乗り越える、超越するというのは頭の中での話ですよね。 要するに考え方を変えるということでよいでしょうか。 そうすると考え方を変えるだけで解脱できるものでしょうか? それから個人的には生死は対立している気がしません。もとも「輪廻」も存在しないと思っています。それを言ったらkoosakaさんも同じかもしれませんが。 確かに悟りとはどうゆうことがわからなくてお聞きしたいのです。 言語化するのは難しいものなのでしょうか?

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.4

stmim様、こんばんは。 >「あることが出来ることと理解することは同じではないですよね。」 はい。 >「悟るということは理解するということですよね。」 そうかもしれないと思います。 >「悟るとなぜ輪廻から解脱できると考えたのでしょうか? その理屈を教えてください」 たぶん、「近づける」というふうに、思ったのでは?

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 つまり理解しないより理解したほうが解脱に近づけるということでしょうか。 確かに何をするにも理屈がわかっていたほうが上達が早いですね。

回答No.3

涅槃にゆるぎなく自己が常在し永遠の存在となるからだ。 無の悟りとは生きながらにその涅槃に入ることで、永遠であるので肉体の生滅が、通常言われるような死の定義とは異なる状態になる。 仏陀になったものにとって、肉体を失うことは変化であり死ではない。 この死者の国に行かない肉体の滅却は神道の死後神に昇華するという伝承のまさにそのままのパターンで、仏陀となった時点で肉体を有したままそのような精神の神への昇華がおきる。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 我々が死ぬと死者の国に肉体が行っているのでしょうか?焼却されているだけの気もしますが、それとは違うのでしょうか。 ちょっとよくわかりませんでした。

  • jack-a3
  • ベストアンサー率38% (309/806)
回答No.2

仏教における悟りとは「理解する」というよりは「覚醒する」とか「開眼する」のニュアンスですかね。あるいは、この宇宙全体の真理を理解した状態。 悟りが得られない時は、煩悩によって迷いが生まれ、そのためにこの苦難に満ちた世界で何度も生まれ変わる輪廻から抜け出せないと説きます。また何事にも分析を行おうとする姿勢(分別)が悟りを邪魔すると考えます。 悟りを得るには、物事をただひたすら観察し、智慧の力で迷いを断ち切る必要があると考えます。これにより真の真理を得られる。そこには理屈や言葉もないそうです。このような悟りを得ることで煩悩を捨て去ることができ、その結果輪廻の苦難から解き放たれる、という理屈です。 上記は煩悩ありまくりの私の理解です。ちゃんと仏教を学んでる人から見ると間違ってるかも知れません。あしからず。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 しかしいずれも何か脳の状態の変化のことですよね。 脳の状態が変化することで解脱できるのかな?というのが疑問なのです。 脳の状態が変化することで解脱ができるのなら、それは何か観念的なものなのかな?という気がするのです。

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