以下の文章(『悲劇とは何か』)についての質問
以下の文章(【本文】以下)についての質問にお答えいただけますでしょうか。
【質問】
1."悲劇的感覚は、個人の尊厳("personal dignity")を確保するためには死をも厭わない人間を前にしたとき、観客の内部に喚起される"とはどういう意味か。
2."残念かつ不可解なことに、作者自身の主張とは裏腹に、このセールスマンは社会の巨大な力を把握するでもなく、他者と和解するでもなく、混濁した意識のまま幻覚を抱いて死ぬにすぎず"とあるが、なぜ「このセールスマンは社会の巨大な力を把握するでもなく、他者と和解するでもなく、混濁した意識のまま幻覚を抱いて死ぬにすぎ」ないことが「残念かつ不可解」なのか。
3."もしかすると、シェイクスピアの悲劇は、変容したのではない、ただ置き去りにされただけなのかもしれない。似て非なる別な作品が書かれているだけなのかも"とはどういう意味か。
4."なればこそ、あの悲劇とこの悲劇はどう違うのか、どのような関係にあるのか、考えてみたくなるではないか"とあるが、そう考えられるのはなぜか。
5."なればこそ、あの悲劇とは何だったのか、なぜ骰き去りにされたのか、この古い疑問に新たな解答を探し求めたくなるではないか"とあるが、そう考えられるのはなぜか。
【本文】
ミラーの論旨は、「悲劇的感覚は、個人の尊厳("personal dignity")を確保するためには死をも厭わない人間を前にしたとき、観客の内部に喚起される」というもので、かつては英雄、現代では「普通の人」もその主役になり得る、つまり悲劇は時代を超える、と言う。これはローマン(Loman = low man) と名づけられた平凡なセールスマンの悲劇の意義を説くために書かれたものだが、しかしながら、残念かつ不可解なことに、作者自身の主張とは裏腹に、このセールスマンは社会の巨大な力を把握するでもなく、他者と和解するでもなく、混濁した意識のまま幻覚を抱いて死ぬにすぎず、いささかの「尊厳」も感じさせない。この劇が時代を超えたとは言い難く、何より作品の与える素朴な印象として、ミラーの創作した「現代の悲劇」が過去の古典悲劇と同質なものであると認めることはとうていできない。
エドワード・ボンドが『リア』(一九七二)を発表したとき、その「序文」で、「ジェイン・オースティンが風習について書いたのと同じように、私が暴力について書くのは当たり前のことなのだ。暴力はわれわれの社会を形成し、そこに取りついているのだから」とみずからの抱く特殊な悲劇意識を正当化した。また、鈴木忠志演出の『リア王』(劇団SCOT、一九八四)では、病院のなかで孤独に死を待つ老人の幻覚として物語が展開した。結局、これら現実の作品群が示しているのは、現代には現代なりの悲劇があって、それは過去と截然と分かたれているという見解のようなのだが、なればこそ、あの悲削とこの悲劇はどう違うのか、どのような関係にあるのか、考えてみたくなるではないか。もしかすると、シェイクスピアの悲劇は、変容したのではない、ただ置き去りにされただけなのかもしれない。似て非なる別な作品が書かれているだけなのかも。なればこそ、あの悲劇とは何だったのか、なぜ置き去りにされたのか、この古い疑問に新たな解答を探し求めたくなるではないか。