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縄文時代から弥生時代になった理由

縄文時代は定住狩猟民族とか。弥生時代は農耕。劇的に変わったのは恐竜の絶滅のような異常気象があったのですか。弥生人は農耕ですので穀物のスットクがあり生き残れたのでは。

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  • tzd78886
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回答No.1

東日本は縄文文化、西日本は弥生文化が中心になったところです。東日本はブナ科の広葉樹(ドングリやブナの類)が多く、狩猟採集でも生活できましたが、西日本は少なく、農耕が伝わるまでは人口は非常に少ないものでした。農耕が伝わってから西日本に文化が生まれ、人口が増えていったのです。狩猟採集が中心だった東日本は農耕民族の西日本に徐々に追われて取り込まれていきました。最後に残ったのが北海道のアイヌ民族で、冷寒すぎて西日本の作物が育たなかったために江戸時代まで狩猟採集文化が残ったものと思われます。

その他の回答 (4)

  • eroero4649
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回答No.5

縄文時代は約1万5千年前から2300年前までを指しますが、そもそも1万年くらいをひとっくくりの時代にひっくるめるのに無理があるという指摘が考古学界でもなされています。初期と末期では相当違うだろうってね。ただ、それをさらに区分できるだけの発掘資料が存在しないのでざっくりとまとめられてしまっているのですけれどもね。 縄文時代から弥生時代にある日突然変わったのではなく、実際はそこの変わり目で少なくとも何百年単位の年月があったと思います。たった100年だとしても、縄文人の寿命は35年生きられるかどうかだったといいますから、だいたい20年で世代が交代すると考えたら5世代違います。 そしてその時期に何が起きたのかといえば、ひとつは「気候の変化」があったことは間違いないと思います。遮光器土偶で有名な亀ヶ岡遺跡や三内丸山遺跡を見て分かるように、現在は自然環境が厳しい東北地方で大集落や文化が栄えたのは、当時の彼の地が豊かであったからだというのは間違いないと思います。他の方も指摘していますが、縄文時代は今よりはるかに東京湾が深く、今のさいたま市辺りもだいたい海で、川越が海沿いだったのですからね。それが徐々に寒冷化していって縄文人が栄えるのが難しくなってきたのだと思います。 縄文人と弥生人を比べると、弥生人のほうが寿命が延びているそうですよ。縄文人は生きられてもせいぜい30歳くらいまでで、乳幼児死亡率も高かったのでとにかく射精と初潮が迎えられる年齢になったらパカパカ子供を産まないと絶滅しちゃうレベルだったそうですよ(ただし異論あり)。それに比べると弥生人のほうが寿命が長い。寿命が長いということは乳幼児死亡率も縄文人より低いってことになりますから、結果として人口は増えます。実際に弥生時代には人口爆発というくらいに日本人の数が増えたそうですから、どちらかというと縄文人は弥生人の波に飲み込まれて同化が進んでいったのではないかなーと思いますよ。 沖縄と北海道は海で本土とは離れていたので、弥生人がそれほど進出してこなかったのではないでしょうか。

noname#224207
noname#224207
回答No.4

>縄文時代は定住狩猟民族とか。弥生時代は農耕 従来はこのように考えられていました。 縄文時代と弥生時代の区分についても、日本における水田稲作農耕の開始は紀元前300年ころで、これをもって縄文時代が終わり弥生時代が始まるとされてきました。 現在は見直されてきています。 >劇的に変わったのは恐竜の絶滅のような異常気象があったのですか。 劇的に変わったわけではありません。 気候変動はありましたが極めて緩やかなものでした。 >弥生人は農耕ですので穀物のスットクがあり生き残れたのでは。 三内丸山遺跡で多量の栗が発見されたように、縄文時代とされる時代にも食物はストックされていました。 プラントオパールの研究から縄文時代の遺跡とされる遺跡の周辺にアワや大麦、稲などが大規模に繁茂していたことが分かってきています。 稲も水稲ではなく陸稲であったと考えられています。 つまり、縄文時代の人達も穀物を食べていたということです。 これらの植物は自然状態では他の植物に淘汰されてしまいます。 遺跡の周辺に集中しているということは何等かの人手が加わっていたと考えられます。 このように有益な植物の種をばら蒔く作業を農耕というかどうかという問題が生じます。 水稲も湿地帯にばら撒けばそれなりに育ちます。 水稲は紀元前10世紀には日本にあったとされています。 ただし、縄文人と呼ばれる人達と弥生人と呼ばれる人達の生活様式が異なりますので、この違いを区分する必要はあります。 この区分をどうするか、ということで現在学会で議論されています。 気候変動につきましては、縄文海進と呼ばれる温暖な時期があり、現在よりも海面が高かったとされています。 東京湾も現在の古河市の付近まで入り込んでいたとされています。 全国で発見される貝塚も標高が20m程度の場所に多く、当時は波打ち際に近かったと考えられています。 貝塚を結んでいくと当時の海岸線が再現できると言われています。 紀元前5000年頃から徐々に海面が下がり現在の海岸線になっています。 恐竜が絶滅したように、短期間で急激な変化ではありませんが気候変動は起きていました。 蛇足 土器の外見的なデザインの差で縄文時代、弥生時代と時代を区分するのは日本でだけの区分です。 このように道具で区分するやり方は石器時代、青銅器時代、鉄器時代などという区分が欧米では使われています。 日本では青銅器時代に相当する時代がなかった(銅矛、銅鐸程度だった)ことから、土器のデザインの差を時代区分として利用しています。 古気象学や地学の分野では氷河期、間氷期などが使われています。 あるいは、洪積世、鮮新世などと言う区分も使われています。 これ等の全ての用語は基準とする物や事象が違いますので、直接結びつけることができません。 しかもいずれも境界線が極めて不明確です。 何か時代区分があるからそこを境にしてあらゆる事象が変わるということではありませんので御注意下さい。 特に縄文時代、弥生時代については日本列島の東西で進捗状況が異なります。 弥生式土器と同じ物は現在でも東南アジアでは使われています。 受験勉強でもない限りはおおよその目安程度と考えて下さい。

  • ts0472
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回答No.3

個人的には 別の所から来た人達が築いた文化 と解釈しています 先住の縄文人が弥生人を受け入れた 弥生人も島に定住する事にした 弥生人が沢山来た 日本人が勝手に考えた分類と思っています 歴史は好きではないです 縄文期でも雑穀類の耕作は行われていたものの 大陸から人と稲作が入った事が大きな変化だったように思います 長期保存に適している 加工しやすい 一度に沢山の弥生人が島にやってきたのか 行き来して徐々に増えたのか 何らかの連絡方法があったのか 渡航した人が増えた 新しい文化が栄えた時代だと思います 国と言うものが存在しない時代だと思いますが 他国の文化を取り入れて変化した時代 人類のルーツに関しては まだ考え方がさまざまだと思いますが 日本には縄文人のルーツも弥生人のルーツも混在している 縄文から弥生になって縄文人が絶滅した訳では無い 弥生までは生活文化なのですが 古墳以降は王朝や天皇、都 古墳時代を作るなら城時代を作らなかったのは何故? 情報が多いから細分化している どうしても好きになれませんです 歴史の勉強としては仕方ないのかも知れませんが

回答No.2

基本的には、稲作(水田)の伝来でしょうか。 弥生時代というのは弥生式時代、つまり弥生式土器の時代という言葉が語源になるのですが、だからといって弥生式土器が作られ始めた時をもって弥生時代だ、ということには(今では)ならないと思います。 ちなみに、米が伝わると(今では日本人は米が主食なので)よろこんで米ばかりを食べ始めたと思われがちですが、実は逆で、食べ物が無くなったときに仕方なく米でも食って飢えをしのいでいたんですね。でもそうやって飢えをしのぐことが出来るようになると人口も(爆発的に)増え、そうなると更に飢えることが多くなり、それで更に農耕に頼るようになっていったということのようです。 世界的に見ても農耕が広まっていったのは上記のような感じだったらしく、死亡率はともかく栄養状態を見ると、狩猟時代の人のほうが農耕が始まってからの人より良いそうです。面白いものですね。 異常気象は、特には無かったと考えられています。ただ、今より海の水位は結構高く(縄文海進)、地図で見て今は平野のところも当時は水の底、という場所が結構あります。

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