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縄文人,彌生人

この列島での先住民族は縄文人であり、 (1)彌生人がこの列島に移住してきたとき縄文人と弥生人は戦争にはならなかったのは、本当でしょうか(疑っているのではなく、この知識が本当かどうかです)? (2)それは自然に同化していったのでしょうか? (3)所謂る服ろわぬ民、蝦夷とか土蜘蛛でしょうが、まぁ隼人もそうだったかもしれませんが。 この人たちって縄文人、或は弥生人だったとかわかるでしょうか?

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回答No.3

>(1)彌生人がこの列島に移住してきたとき縄文人と弥生人は戦争にはならなかったのは、本当でしょうか もし一気に大挙して列島に上陸して来ていたら、確実に争いになっていたでしょう。 しかし、当時の渡航技術や規模を考えると「小舟で少人数が島伝いにやって来た」と考えるしかありません。 その場合、先住民が取る行動は「海から来た得体の知れないヤツラを殺す」か「可哀想だと思って集落に受け入れる」のどちらかです。 多分、舟に乗ってたのが「男ばっか」だったら「みな殺しにするか、奴隷にする」でしょう。「女ばっか」だったら「集落に受け入れて無理矢理に犯して妻にする」でしょう。「男女混合」だったら「男だけぶっ殺して、女は集落に受け入れて無理矢理に犯して妻にする」でしょう。 先住民がどう行動したとしても「後世まで痕跡が残る事はない」です。 >(2)それは自然に同化していったのでしょうか? 先住民の行動が「海から来た得体の知れないヤツラを殺す」だった場合は「渡来してないのと同じ」ですから無視できます。一方「可哀想だと思って集落に受け入れる」だった場合は、結局は「自然に同化」と言う事になるでしょう。 >(3)所謂る服ろわぬ民、蝦夷とか土蜘蛛でしょうが、まぁ隼人もそうだったかもしれませんが。 「服ろわぬ民」は、先住民とは限りません。ただの「王に従わない者たち」です。 「王族の一員である弥生人でありながら、権力争いに敗れて、王の敵になって、民を扇動して王に逆らう者」も「服ろわぬ民」です。 なので、縄文人、弥生人というようには分類できません。

krya1998
質問者

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渡るという事の事情の描きはそうだろうと存じました。 ありがとうございました。

その他の回答 (4)

  • kaitara1
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回答No.5

アメリカ大陸における先住民と白人の争いのようなものは起きなかったのでは。大陸から来た人は当時の先進技術をもたらしたので列島先住民は敬意を表して優遇したのでは。

krya1998
質問者

お礼

なるほど。 そのように考えることも可能ですね。 ありがとうございました。

  • eroero4649
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回答No.4

1. 日本語は文字を持たぬ言語で、古事記が書かれる前は日本では文字で記録を残した人もいないため文字資料がありません。日本についての世界最古の記録がご存じ魏志倭人伝です。ここに出てくる魏はあの三国志の魏ですから、縄文時代のような古い時代に関しては遺跡しか調べる術はないのです。 だから他の方も書いているように「あったかもしれないし、なかったかもしれない。常識的にはあるものだと考えるべきだが、あったという明確な証拠がない以上あったとはいえない」となるのです。 2. 日本人のDNAを丹念に調べれば「血を引いている」というようなことは分かるでしょう。しかしその交配が両者合意の上だったのか、征服によるものだったのかを知る術はないですね。 3. 蝦夷という呼び方がそもそもが「土人」というような侮蔑的なニュアンスを含むものです。古代中国人は自分たちの場所を「中つ国」と定義づけ、その四方にいる異民族を人外の土地に住む野蛮人として、北狄、西戎、南蛮、東夷と呼びました。それが日本に伝わり日本は北方民族がいなかったし西側は朝鮮半島や中国で(古代は)こっちより文明的だったので、南蛮と東夷という表現だけが残り、蝦夷という呼び方になったのです。 蝦夷というと我々は北海道をイメージし、アイヌ民族を指す人が多いと思いますが、北九州から瀬戸内海を経て大阪、京都の辺りまでの文明人からすれば関ヶ原からこっちはぜんぶ「蝦夷」です。だいたい幕末に和宮が江戸に嫁入りするのを泣いて嫌がった理由は「箱根から東には鬼が棲む」というのを和宮が真剣に信じていたからです。19世紀の京都人もそんなものなのですよ。 そもそも、その「江戸」は「えぞ」から来た地名だという説もあるほどです。だから時代が下るにつれ、東日本全体、関東平野以北、東北以北、北海道、というふうになりました。 土蜘蛛も、ニュアンスとしては「土着の山賊」というものですからDNA・民族的に区分けされたわけでもないです。日本各地に「平家の落人伝説」ってのがありますが、あれがどこまで本当に平家にゆかりがあるかどうかなんて分からないですからね。「ウチも平家の落人ってことにすべえ」となったところも沢山あると思います。

krya1998
質問者

お礼

お江戸はえぞ蝦夷なる鬼の住むところだったのですか。 まぁ後代の我々の意識常識では考えられない意識常識であったのでしょうね。 ありがとうございました。

noname#224207
noname#224207
回答No.2

(1)真偽を立証する痕跡(遺跡)が見つかっていません。 確たる痕跡がないので、争いはなかったとされているだけです。 (2)自然であったのかどうかは不明です。 (3)蝦夷、土蜘蛛などの用語は奈良時代以降の文献史料によるものです。 縄文人、弥生人という用語は近代の考古学上の用語です。 「まつろわぬたみ」というのは天皇を中心とした大和朝廷側の正当性を主張するために書かれた古事記、日本書紀などに記載された敵対部族の総称です。 記紀等の文献史料は考古学上で縄文、弥生などと呼ばれる時代よりも遥か後世に書かれたものです。 記載内容から縄文人ではないか、と古い考古学者が勝手に推定したものです。 確たる史料に基づいたものではありません。 縄文人、弥生人の区分は旧来は人骨と同時に出土する土器の形式文様に依存していました。 土器も広く交易されていただろうと考えられ始めていて、旧来のような土器頼りは誤解を生じるとされています。 稲作も弥生人がもたらしたとされていますが、これにも疑問符がついています。 従来縄文遺跡とされていた遺跡のプラントオパール分析から稲が確認されるようになってきています。 現在はDNA分析に頼っていますが、旧来の区分との整合性が未だとれていません。 従いまして、文献史料に記載された蝦夷や土蜘蛛が縄文人に区分されるのか弥生人に区分されるのかは判然としていません。 蛇足 旧来の考古学は権威主義で、権威とされる年寄り学者の推定が学説とされていました。 2000年に発覚した旧石器捏造事件で考古学学会が崩壊しました。 以降、若手の考古学者による再興がはかられていますが未だ道半ばです。 縄文人、弥生人という区分も見直しがすすめられています 旧来は権威主義がまかり通り、歴史学会と考古学学会とは疎遠でしたが、近年は交流がはかられるようになってきました。 これに従い記紀の内容も見直されるようになってきています。 ご質問のよう内容につきましても、検討が進められています。 中高等学校の教科書の記述には権威主義時代のものが使われているために、市販の新しい書籍の記述との間で混乱が生じています。 「疑っているのではなく、この知識が本当かどうかです」とお考えになられるのも当然かと思います。 尚、縄文時代とされる人骨や遺跡からは集団で武器を使って闘争したと思われるものが出土していませんが、弥生時代とされるものからは鏃が残ったり刀剣による傷跡などが見つかったり、遺跡に周辺に防御用の環濠や柵の痕跡が見つかっています。 これ等の戦闘の痕跡が縄文人対弥生人の闘争のものであるのかどうかは不明です。

krya1998
質問者

お礼

素晴らしいご知見のご解答ですが、BAにできないで申し訳ありません。

回答No.1

先住民族が縄文人ではありません(そもそも民族とも言えません) 縄文人以前に、旧石器時代の人間が存在しています。縄文人というのは、日本列島にいた旧跡時代の人間の一部であり、特異な特性をもった人々のことを指します (1)縄文人・弥生人が戦争したとする物理的な証拠は見つかっていません。闘争していたかもしれませんし、していなかったかもしれません。縄文人・弥生人というグループ分けで闘争していた、という可能性を検証するに十分な史料がありません (2)同化していったと考えるの必然でしょう (3)縄文人・弥生人の定義次第です

krya1998
質問者

お礼

タームの厳密性のご注意ありがとうございます。 服ろわぬとされる蝦夷とか土蜘蛛とか称される人たちが或は先住していた縄文や弥生の人たちとかさなるのかな?という素人の好奇心でもありました。 ありがとうございました。