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江戸期武士の婿養子?

江戸期武士の婿養子? どのような立場だったのか疑問です。 殿様の家来は本来家長一人で他は一族郎党扱い。家来は0.5%、一族郎党合わせて3から5%程度。 婿養子でも家長になれば、家では絶対権力有したのでは? 理屈では離婚して若い嫁さん貰えたのでは?  (多分禁止されてたと思う) 次男以降は兄が死ぬか養子に行くか坊主にならなければ一生部屋住なので、文武修業積み優秀な養子候補いたのではないか? どのような記録残っているのか?

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回答No.1

まず、武士は、家の中で威張っていたようなイメージがありますが、「表」「奥」があり、お勤めを終えて家に帰ると一応据え膳上げ膳ではありましたが、隠居が奥に控えており、ほぼ居候同然でした。学芸の修練とお勤めのことについてのみ、裁量権がありました。 家の生活全般、お金については今と同様、奥方が全権を握っていました。そもそも給金はお勤めしている本人には直接渡らない仕組みでした。(そこで下級武士だとアルバイトをすることになる) 家督を引き継ぎ、家長となっても、後継である男児ができて数年後に元服を迎える10歳頃になるまでは奥方といえども全権がなく、その母親が実権を握っています。奥方は、その間、育児と、日常の食事、応接などを担当していました。 離縁ですが 婿養子ですから、離縁されることはあっても、自分から奥方を離縁することはありえません。 婿養子でなくとも、家の中で権限のないのが武家の男子世界でしたから 婿養子はさらに孤高な存在でしたが、家督を相続する見込みがなく一生、部屋にこもるしかない次男三男坊としては魅力的な立身の道だったとされます。 藩主から頂くお勤めをひたすら果たして後継を育て上げ、家督を存続させることが絶対の義務でしたので精神的なプレッシャーは高かったと思います。 大名の婿養子で入り、藩が「倒産寸前」で早々に切腹を覚悟したという有名人には「上杉鷹山」が居ます。「成さぬは人の、成さぬなりけり」で有名な藩立て直しをやった人です。 武家のしきたり、制度は、明治半ばに聞き取りが行われて記録されており、一般に書籍化されているものに「旧事諮問録(くじしもんろく)」があります。 また家の暮らしぶりをまとめた書籍に岩波新書の「武家の女性」などがあり、 最近は江戸文化の見直しもあって新たに多数の書籍が出ています。 「勤番武士の心と暮らし」(文芸社) http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-14748-2.jsp 他には大名家や上級の武家に伝わった日記や記録、接待マニュアルなどが各県、大学、国立国会図書館の貴重資料に学術保管されていて一部は閲覧できるようです。

441moe
質問者

お礼

良く分かります。 ありがとうございます。 武士も戦争なければ惨めなようですね。

その他の回答 (1)

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1972/9601)
回答No.2

441moeさん、こんばんは。 婿養子ということですが、家督相続が許されれば、一応はその家の当主ですが、隠居である前当主が生存している場合は、その人の意見も聞かねばなりません。 お嫁さんは家付き娘ですから、死別しない限り、再婚は無理ですね。ただし、子供がない場合、跡継ぎがないと困るので、側室を置くことはできたと思います。 次男の場合は長兄の補佐・予備の役割があるので、まだ大事にされましたが、三男になると、養子か坊主、捨扶持をもらって厄介叔父になるか、自分自身の能力によって人生が決まっていくので、一層文武に励む人もいました。 次男の場合は兄が早死にすると、子供が幼少の場合、兄嫁と結婚して実家を継ぐ者もいました。これを後家入り番代といいます。この場合、弟である夫は子供が成人した後、隠居するという風習がありました。

441moe
質問者

お礼

ありがとうございます。

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