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日露戦争の兵力とは?
- 日露戦争の兵力について、日本は約300,000人、ロシアは約500,000人の戦力を持っていました。
- 他の情報によると、日本とロシアの兵力には以下のような数字が存在します。
- 日本の陸海軍の兵力は予備役を含めて約20万人でした。
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海軍の資料は持ち合わせていなくて、陸軍について覚えている範囲です ・常備兵力=現役+予備役 (陸軍:現役3年+予備役4年、海軍:現役4年+予備役3年、陸海軍で公平にするため合計7年となっていた) (平時編成より戦時編成に移行するには予備役で充員し、その後は考えない短期型戦争を想定する兵役システムであり、戦時には各種学校も閉鎖し、戦場に集中するのが日本軍であった) ・動員できる兵力=国内生産人口とバランスを保つための動員限界点 ・兵力比較 日本 109万人=実質動員数 明治37年度は、兵卒だけで87万人召集されている 内訳は、現役兵帰休兵3万3千、予備役20万、後備役14万、補充兵役46万、国民兵役3万7千 (実は雑兵から砲兵、輜重兵の兵卒、看護卒に転じた者は二重に集計されており、実数はもっと少ない) ・戦力30万=第一線最大動員可能数?=何の数字だか分かりません。 *対露戦の動員計画では、各師団が、野戦師団と留守師団を編制し、更に後備歩兵旅団を編制する (後備歩兵連隊の動員数は、野戦師団所属連隊とほぼ同数の動員が計画されていたが、所属大隊数は、野戦師団3コに対して2コとされていた=実兵数2/3) (後備砲兵、騎兵、工兵については、中隊単位の動員計画) *対露戦用戦備を揃えるあたって、戦時軍司令官要員たる大将の定員が大幅に不足しており、開戦3ヵ月前に、黒木、奥を昇進、開戦後に、山口、岡沢、長谷川、西、児玉、乃木、貞愛親王を昇進させる *第3軍の旅順戦の消耗で、第9師団(金沢)第11師団(善通寺)は、自己師管の後備兵を召集しても、戦力充足ができぬ程の打撃を受け、陸軍省に他師管からの融通を求める。これを陸軍省は法改正が近日執行されるため拒否する *兵役法の改正により、従来5年の後備役を10年とする。 これにより新たに5万人が召集可能となった。 この人員を利用し、後備歩兵旅団を12コ新設(近衛、第7師管(旭川)は編成せず、第1師管(東京)は2コを編成。この後備歩兵旅団は3コ大隊編成とした) (第7師管は平時より北海道民だけでは、所要人員を確保できずに、第2師管(仙台)第8師管(弘前)東京連隊区より人員を融通していた。この傾向は昭和10年頃まで続く) *日本海開戦の勝利により、制海権を完全に獲得し、それまで要塞戦備、対馬警備についていた後備歩兵連隊、要塞砲兵が、続々と満洲に送られる。 *後備歩兵旅団を2コ集成して、後備歩兵師団を編成(合計2コ後備歩兵師団が編成される) *佐尉官の戦死傷による不足が著しく、上級職をとらせることが多かった。 *明治38年度徴集兵を利用し、全国各師団より人員抽出し、第13、第14師団を編成。 *続いて、第15、第16師団を編成するが、この人員は現役ではなく、予備役、後備役兵だった。 これは参謀本部は6コ師団を要求していたが、陸軍省はもう終戦が近いと判断していて、とりあえずの形ばかりの2コ師団編成にしたとも、現役が確保できなかったからとも言われる。 *奉天会戦後、殆どの後備歩兵旅団は、騎兵、砲兵、工兵等を隷下に入れ、後備混成旅団に改編。また2コ大隊編成のまま残されていた後備歩兵連隊は第3大隊を新設。 *この時、未招集の将校は数百人に過ぎず、殆どは病気療養等、すぐには任務に耐えられない者と推測される。つまり、もう動員余力は無かった。 *
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- mm058114
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- ithi
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kouki-koureisya さん、こんばんは。 「日露戦争」によれば、戦力は、日本 約300,000人、 ロシア 約500,000人です。 これは戦争中に第一線兵力として動員されたものです。 常備兵力 日本 約20万人、 ロシア 約300万人 は日ロが常時保持している兵力です。ロシアが多いのは国境線が長い(特に当時のドイツ国境)も考慮してのお話です。 動員できる兵力 日本 100万人、 ロシア 200万人 現役兵力のほか、日ロ両方が戦争するときの予備役、つまり現役兵力に代わる存在です。戦死者、戦傷者は含まれています。おそらく累積計算だと思います。 兵力比較 日本 109万人、 ロシア 208万人 これは実際に動員された兵力です。ロシアがまだ余裕がありますが、日本にはも人的兵力は限界を超えています。(もっとも、ロシアもドイツ国境から展開中でヨーロッパ国境ががら空きになるといわれていました。)
お礼
ご回答ありがとうございます。 つまり、常備兵力 約20万人、 日露戦争に第一線兵力として動員された戦力(兵力)30万人、 動員できる兵力 100万人、 実際に動員された兵力 109万人 ということですね。 これらの数字から日本は、人的兵力は限界を超えていたことが分かる、ということですね。
お礼
詳しいご回答真にありがとうございます。 太平洋戦争のことは、このカテでもよく質問が出ていますし、私も何回か質問しましたから、ある程度は分かっているつもりです。 しかし、日露戦争に関しては、小国日本が大国ロシアに勝った、という心地よい印象を持っているだけでした。 会戦や海戦の凄まじい戦いの様子は本を読めばよく分かりますが、基本的な戦力、戦時中の国内の様子、銃後の暮しに興味があって質問しました。 知らないことだらけでしたので、ご回答で大いに勉強できました。 1.常備兵力=現役+予備役 (陸軍:現役3年+予備役4年、海軍:現役4年+予備役3年、陸海軍で公平にするため合計7年) 戦時には各種学校も閉鎖し、戦場に集中する 2.明治37年度は、兵卒だけで87万人召集されている 内訳は、現役兵帰休兵3万3千、予備役20万、後備役14万、補充兵役46万、国民兵役3万7千 (実は雑兵から砲兵、輜重兵の兵卒、看護卒に転じた者は二重に集計されており、実数はもっと少ない) 「明治37年度は、兵卒だけで87万人召集されている」ということは、二重計上分を無視して、単純に考えて、この87万人に(予備役を除いた)常備兵力と海軍の兵力と、そして(多分いたであろう)軍属を加えた人数が、「実質動員数」になるのでしょうね。 大体の様子が浮かんできました。 添付されたグラフを見ると明治37年(1904)では約90万人、明治38年では100万人をちょっと超えています。多分109万人でしょう。 開戦前年の明治36年では(グラフで推定すると)約17万人です。 3.兵役法の改正により、従来5年の後備役を10年とする。 これにより新たに5万人が召集可能となった。 4.佐尉官の戦死傷による不足が著しく、上級職をとらせることが多かった。 5.明治38年度徴集兵を利用し、全国各師団より人員抽出し、第13、第14師団を編成。 続いて、第15、第16師団を編成するが、この人員は現役ではなく、予備役、後備役兵だった。 これは参謀本部は6コ師団を要求していたが、陸軍省はもう終戦が近いと判断していて、とりあえずの形ばかりの2コ師団編成にしたとも、“現役が確保できなかったから”とも言われる。 6.この時、未招集の将校は数百人に過ぎず、殆どは病気療養等、すぐには任務に耐えられない者と推測される。つまり、もう動員余力は無かった。 「つまり、もう動員余力は無かった。」 この一言に尽きますね。 本で読むよりは、はるかによく分かりました。 「補充兵は消耗兵なり,進撃噺帆は冥土の鐘なり」の文言だけは知っていましたが、ご回答にある国内の状況からもこの文言を理解できました。 ご教示に感謝申し上げます。