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理性

こんばんは。 理性とは。 「善悪を知ることが出来る能力」? ・・・「善悪」ということは、宗教を前提にしていますか。 【訊きたいポイント】 「そうではない、「理性」とは宗教とは無関係だ」 ということがあれば、お願いします。 (「合理的」とは、宗教とは無関係と思われるので、 ≪理≫には、少なくとも二つ以上の、「意味」があると考えています)

みんなの回答

  • ways
  • ベストアンサー率31% (79/253)
回答No.8

No.7です。 「束縛しない」、「相手の道を邪魔しない」というところでしょうか。「迷惑をかけない」でいられるのは、「迷惑をかけられる苦痛」を知っているから。迷惑に迷惑で返さない、相手と同じにならない、というのは、理性だしプライドでもあって。 善悪の物差しがないと、判断基準がないと、なんでもOKになってしまって、社会がなりたたない。そうですね。親が子供に対して、過度の期待をしてしまったり、親の都合を押しつけ過ぎてしまって、子供が参ってしまうこともあるかもしれません。「正しく」「理性を持って」「遊び心を大切に」「時として、許すことも大事」といったところでしょうか。 人としての行いや、心のあり方を宗教では説いていますよね。道を誤らないように、余計な苦労をしないように。正しい宗教と間違っている宗教。でも、はた目には間違っていても、信者さんは信じている。現世ご利益的な新興宗教もありますし、他の宗派を否定して、自分のところだけが正しいとする団体もありますし、団体の運営が宗教活動のメインになって、一人ひとりが尊重されてないところもありますし、伝統的な仏教とも仲良くし、他の新興宗教を正しく理解している新興宗教もあります。善悪でいえば、良い宗教か、あまり良くない宗教か。害があったら、「それって宗教なの?」という疑問がわきます。勧誘されたら、自分の判断で入るか入らないか決めなくてはいけないので、そこも理性的に考えないと、「自分だけ幸せになればいい」というところもありますので。 善悪の概念は、僕はお坊さんや学校の先生、祖父、祖母から教わりました。そうですね、善悪の考え方とらえ方には、宗教が入ってきてるのかもしれません。

kurinal
質問者

お礼

ways様、こんばんは。ご回答ありがとうございます。 >「「束縛しない」、「相手の道を邪魔しない」というところでしょうか。「迷惑をかけない」でいられるのは、「迷惑をかけられる苦痛」を知っているから。迷惑に迷惑で返さない、相手と同じにならない、というのは、理性だしプライドでもあって。」 「権利」は「権理」とすべきだった、というのも見たことがあります。 「損害賠償」とか「慰謝料」というと、カネの問題にもなってしまうのですが、 (ああ、だから「カネさえ払えば、いいんでしょ」という、大金持ちのモラルハザードという問題も、最近、見ましたねえ・・・) >「善悪の物差しがないと、判断基準がないと、なんでもOKになってしまって、社会がなりたたない。そうですね。」 民主主義社会では、「宗教の自由」にもタガを嵌めまして。 (そうすることで、異なる宗教の併存を可能としている、とも言えるでしょうか?) >「親が子供に対して、過度の期待をしてしまったり、親の都合を押しつけ過ぎてしまって、子供が参ってしまうこともあるかもしれません。「正しく」「理性を持って」「遊び心を大切に」「時として、許すことも大事」といったところでしょうか。」 そうですねえ。いわゆる「未熟な親」を持ってしまった子どもの問題は、深刻です。 親が子どもを愛するのではなく、親が子どもに「親を愛せ!」というわけです。 「愛の逆流」です。 >「人としての行いや、心のあり方を宗教では説いていますよね。道を誤らないように、余計な苦労をしないように。」 ♪「親の思いに、背いてまでも」、それは「余計な苦労」になるのかどうか、判りません。 >「正しい宗教と間違っている宗教。でも、はた目には間違っていても、信者さんは信じている。現世ご利益的な新興宗教もありますし、他の宗派を否定して、自分のところだけが正しいとする団体もありますし、団体の運営が宗教活動のメインになって、一人ひとりが尊重されてないところもありますし、伝統的な仏教とも仲良くし、他の新興宗教を正しく理解している新興宗教もあります。善悪でいえば、良い宗教か、あまり良くない宗教か。害があったら、「それって宗教なの?」という疑問がわきます。勧誘されたら、自分の判断で入るか入らないか決めなくてはいけないので、そこも理性的に考えないと、「自分だけ幸せになればいい」というところもありますので。」 Ano.1様のご回答からですが、「自分の居場所」というものを求めてしまう場合も、あるのかもしれません。 (「「勧善懲悪」は、判り易い」とも言われますね。現代の裁判は、そうしたものとは違うと思います) 重ねて、申し上げますと、「信教の自由」には限界があり、他者の人権を侵害することは出来ません。 >「善悪の概念は、僕はお坊さんや学校の先生、祖父、祖母から教わりました。そうですね、善悪の考え方とらえ方には、宗教が入ってきてるのかもしれません。」 はい。そうした宗教的な?「理」と、、、Ano.4様の仰った「理」とが、あるのではないでしょうか? (ここに至って、私自身の考えも、随分とスッキリしたような気がします。ご回答者の皆さまに感謝を申し上げます。)

  • ways
  • ベストアンサー率31% (79/253)
回答No.7

「道理」を守る、というのが、理性の働きでしょう。 大好きな女の子がいて、だけどいきなり抱きついたりしないのは、理性で抑えてるから。相手の自由や権利を、自分の気持ちに走らないことで守っている。もし、いきなり抱きついたら、たとえ相手が自分のことを好きでも、「非常識な人」ととらえてしまうかもしれないし、不快な気持ちになるかもしれない。そうすると、仕事の手が止まってしまったりと、問題が起きてくる。つけ回してしまって、相手に不安や恐怖を与えてしまったり。だから、そうならないために、初めから、理性で抑える。そうすることで、相手の生活と自分の立場を守っている。 善悪もそうです。相手の悲しい顔を見たくない、自分の立場を守りたいという「道」のために、悪い感情を抑える。子供のうちは、分からないので、いいことも悪いこともしてしまう。そして、いろんな気持ちになって、大人から教わる。そして理性がついてくる。 邪宗にはまってしまうのは、善悪の感覚が弱いからではないでしょうか。正しい宗教かどうかを見極めるのは、もしかしたら理性の働きなのかもしれません。

kurinal
質問者

お礼

ways様、ご回答ありがとうございます。 >「「道理」を守る、というのが、理性の働きでしょう。」 この後に仰られた内容からは、「他者を束縛しない」ということですか。 >「大好きな女の子がいて、だけどいきなり抱きついたりしないのは、理性で抑えてるから。相手の自由や権利を、自分の気持ちに走らないことで守っている。もし、いきなり抱きついたら、たとえ相手が自分のことを好きでも、「非常識な人」ととらえてしまうかもしれないし、不快な気持ちになるかもしれない。そうすると、仕事の手が止まってしまったりと、問題が起きてくる。つけ回してしまって、相手に不安や恐怖を与えてしまったり。だから、そうならないために、初めから、理性で抑える。そうすることで、相手の生活と自分の立場を守っている。」 これはですね。 小生は「恋愛板」などで相談したこともあるんですけれど、 (曰く) >「「プロポーズ」というのは、最終的な確認に過ぎない」 「結婚するくらい、仲が良い」ということですかね。 >「善悪もそうです。相手の悲しい顔を見たくない、自分の立場を守りたいという「道」のために、悪い感情を抑える。子供のうちは、分からないので、いいことも悪いこともしてしまう。そして、いろんな気持ちになって、大人から教わる。そして理性がついてくる。」 そうですか。 親によっては、そうした子どもへの影響力をイイコトに? 親自身の願望を満たそうとしてしまう場合もあるようで。 >「邪宗にはまってしまうのは、善悪の感覚が弱いからではないでしょうか。正しい宗教かどうかを見極めるのは、もしかしたら理性の働きなのかもしれません。」 いえいえ。正しい宗教の見極め方を御伺いしたのではありません。 「信教の自由」ということから言えば、それを逸脱しない範囲であれば、自由ですし 「邪宗」という表現のほうが、いささか、名誉を棄損してしまうかもしれない・・・ような?

回答No.6
kurinal
質問者

お礼

neutralさん、こんばんは。ご回答ありがとうございます。 「BL」ですか

回答No.5

人の生きる上での唯一の価値基準は、人生を通算した精神的な充足量の最大化に寄与するか否かだけだ。 「善悪」自体、自己中心的に陥りがちな認識を、社会性のタガにはめるために派生した必要悪に過ぎない。 深まる認識が、現象をより原理的に把握したり、また、組織化に於ける個体間相互作用を経験的に編成したりして、体系化(>世界観)する上で、経験の基底(移入)であると同時に意志として認識上に展開される衝動も、不可分に体系性(>価値観)を帯びてくる。 その中で、未だ認識化されない原理に基づく現象の経験的先入化による、あるいは組織化の分業に於ける相対的な環境の違いに基づく認識の違和の他律的原理化による、体系への編入(常識)は、そこに於ける衝動及びその原動力たる進化の展開が認識されぬ以上、自我(衝動充足)以外の先験的価値領域を形成する。 そこに於て、進化(反エントロピー=生~充足)方向現象に於ける自己中心的認識の補完を善と呼べば、それに反する被淘汰(正エントロピー=死~非充足)方向のそれを悪と呼びうる。 その、短絡的利己の社会システム的(認識外)矯正としての、善-悪寄生体系は、より高まる認識に於て、内なる物理=自己の認識システムの存在原理(~不確定性)としての把握と、外なる物理=社会システムの自己の生命の延長としての把握による、全衝動の自己の生(反エントロピー)への集束によって、認識体系に吸収され、即ち全環境(宇宙)の自己としての理解と、全行動の(生産)の利己としての把握に到達する事により、その「意志による生=生存自体による充足」は、最高認識に基づく最大生存に於ける完全充足、即ち最大充足を実現する。 それこそ、現象の如何を問わず、一切の認識=全ての宇宙の、究極の理想であり、善悪の概念は、飽くまで妥協的修正(他律的常識)であって、善は過程として善(生産)であっても、本質として悪(非認識=非充足)に属するのだ。

kurinal
質問者

お礼

psytex様、ご回答ありがとうございます。 >「人の生きる上での唯一の価値基準は、人生を通算した精神的な充足量の最大化に寄与するか否かだけだ。」 仰る「精神的な充足量」を、ブッダ的に考えるとどうなるか、 (達人の「迷いの無い境地」は凄いと思うのですが、それに至るまでにどれだけの経験を要したかという) >「「善悪」自体、自己中心的に陥りがちな認識を、社会性のタガにはめるために派生した必要悪に過ぎない。」 なるほど、なるほど。 「必要悪」と言うと、警察とかを連想するんですが、「宗教」も・・・まあ、「そうしたものもある」ということですか。 >「深まる認識が、現象をより原理的に把握したり、」 そうですねえ。この場合の「原理」とは「宗教原理主義」とは違うでしょうけれど。 >「また、組織化に於ける個体間相互作用を経験的に編成したりして、」 はい。でも、結局は「個別具体的に」と言われてしまうことも? >「体系化(>世界観)する上で、経験の基底(移入)であると同時に意志として認識上に展開される衝動も、不可分に体系性(>価値観)を帯びてくる。 その中で、未だ認識化されない原理に基づく現象の経験的先入化による、あるいは組織化の分業に於ける相対的な環境の違いに基づく認識の違和の他律的原理化による、体系への編入(常識)は、そこに於ける衝動及びその原動力たる進化の展開が認識されぬ以上、自我(衝動充足)以外の先験的価値領域を形成する。 そこに於て、進化(反エントロピー=生~充足)方向現象に於ける自己中心的認識の補完を善と呼べば、それに反する被淘汰(正エントロピー=死~非充足)方向のそれを悪と呼びうる。」 いやー、そうですか。もうちょっと「自由」になりませんか。 >「その、短絡的利己の社会システム的(認識外)矯正としての、善-悪寄生体系は、より高まる認識に於て、内なる物理=自己の認識システムの存在原理(~不確定性)としての把握と、外なる物理=社会システムの自己の生命の延長としての把握による、全衝動の自己の生(反エントロピー)への集束によって、認識体系に吸収され、即ち全環境(宇宙)の自己としての理解と、全行動の(生産)の利己としての把握に到達する事により、その「意志による生=生存自体による充足」は、最高認識に基づく最大生存に於ける完全充足、即ち最大充足を実現する。」 まあ、ここでですね。ブッダの「涅槃」というのは、「完全なる涅槃」と言ったら「0」なわけですし、「必要最小限しか求めないし、(勿論)必要としない(ゆえにラク)」という、そうした立場は、どのように位置付けられるのでしょうか? >「それこそ、現象の如何を問わず、一切の認識=全ての宇宙の、究極の理想であり、善悪の概念は、飽くまで妥協的修正(他律的常識)であって、善は過程として善(生産)であっても、本質として悪(非認識=非充足)に属するのだ。」 先生の良く使われていた表現である「馬車馬の前のニンジン」なんですね。 (「不要で済むなら、それに越したことはない」という、、、警察と宗教とが同根のモノであったとは、 でも、考えてみると、警察は民主的なコントロールが可能ですが、宗教は「自由に限界がある」と指摘出来るのみで、まあ、でも先生が「他律」というのを「必要悪」と御考えになっている、というのは、良く判った気がしました。)

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.4

何か不可思議な現象や納得いかない事態に 遭ったとき、人間はそこに超自然的、超人間的な 何かを見いだす訳です。 それを神と名付け、何となく解ったり、納得 したりします。 このように、神てのは、理性と感情が互いに 干渉して織りなし、誕生させたものです。 つまり、人は理性によって神を創り出し 感情によってそれを信じるに到ります。 だから宗教は理性的でありかつ感情的なのです。

kurinal
質問者

お礼

hekiyu様、こんばんは。ご回答ありがとうございます。 >「何か不可思議な現象や納得いかない事態に 遭ったとき、人間はそこに超自然的、超人間的な 何かを見いだす訳です。」 これも、最近テレビで見たり、新聞で読んだりしたんですけど、 「宇宙には、まだまだ、良く判らないことがある」 そうか。 コレなんかも、「神様には、最初から判っていた」と表現される宗教者の方も、居られるに違いない >「それを神と名付け、何となく解ったり、納得 したりします。」 そうですか?そうじゃなくて、 「解ったことにしておく、納得したことにしておく」ではありませんか。 >「このように、神てのは、理性と感情が互いに 干渉して織りなし、誕生させたものです。」 まあ、「神」もいろいろ、「雨を降らせてくれ」と祈ったり、ですね。 >「つまり、人は理性によって神を創り出し 感情によってそれを信じるに到ります。」 おおー。 「感情によってそれを信じるに至る」、なるほどですね。 「敬虔なご婦人の前には、どんな優れた神父も、たじたじである」 (えてして、ご婦人が熱烈に信じてしまうと、理性なんて吹っ飛んじゃう? ((ここだけの話・・・「盲信」というやつですか、信仰の問題だけじゃない気もします、 あ、これはここだけの内緒にしておいて))) >「だから宗教は理性的でありかつ感情的なのです。」 その「理性」についてですが、 hekiyu様は、「人間に本来備わる、何か」という理解なのですね。

回答No.3

君達は悪が嫌いだ。 君達は悪から逃げる。 その結果悪を理解していない。 そうすると君達は善悪を理性的に了解できている状態じゃない。 これは私が指摘している事を君に合わせて語った事だ。 悪を愛することに成功した私は嫌われ者だよ。 愛する事が理解することだ。 私は闘う男。 赦されざる者。 君達はオカマだ。

kurinal
質問者

お礼

Flareon様、こんばんは。ご回答ありがとうございます。 >「君達は悪が嫌いだ。 君達は悪から逃げる。 その結果悪を理解していない。 そうすると君達は善悪を理性的に了解できている状態じゃない。」 あ!、最近ですね、 「(周囲の大人が、あまりにも先回りしてしまうために) 失敗するということが、経験させてもらえない」 という表現が、あったんですね。 >「これは私が指摘している事を君に合わせて語った事だ。 悪を愛することに成功した私は嫌われ者だよ。 愛する事が理解することだ。」 なるほど。 ただ、刑法的には、 「自由の無い「選択」には、本人に責任は無い」ということで。 (「悪」も、自己責任で?) >「私は闘う男。 赦されざる者。 君達はオカマだ。」 んー。 天邪鬼?ということを連想致しました。 「やっちゃダメ」と言われると、かえって、やっちゃう?

  • koosaka
  • ベストアンサー率43% (78/179)
回答No.2

まず「理性」という言葉は、明治に西洋から哲学・思想が入ってきたときに理性・ratioの翻訳語として作られたものです。 「理」という言葉は、儒教・朱子学でも使われ、また「合理」という言葉も使われましたが、「理性」という言葉はありません。 そして西洋の哲学史でいえば、中世では、神の有する無限の能力は知性・intellectusと言われ、人間の有する有限の能力が理性・ratioと言われました。 そして理性・ratioは神が人間に付与したもの、と考えられていました。 いわば神の有する知性・intellectusを「分有」したものと考えられました。 故・木田元は理性とは「神の出店みたいなもの」と言っていましたが、うまい表現です。 デカルトは「省察」で、人間には神が付与した理性としての先天的な「生得観念」があり、人間の理性的認識は経験を必要とすることになく、明晰判明であり、真理を洞察できると言いました。 スピノザも、唯一実体としての神が存在し心と身体はその神の属性であり、それぞれの側面である、と言いましたが、その場合の理性は唯一実体としての神の有するものでした。 ところが、この知性・intellectusと理性・ratioの優劣関係が近代になって逆転しました。 理性・ratioが優位になり、知性・intellectusは「悟性」と言い代えられ、かえって地位の低いものに貶められました。 どういう背景があったか、想像の域を出ませんが、これまで神を中心に世界が回っていると考えてきたものが、今度は人間を中心に世界が回っていると考えるようになったからだと思います。 いわゆる「ヒューマニズム・フマニタス」です。「人文主義」。 人文主義者として知られているのが、15世紀から16世紀のオランダのエラスムス、そしてフランスのヴォルテール、英国のトーマス・モアという人たちです。 そして哲学では、18世紀末から19世紀初頭にかけて名声を博したカントでした。 カントの哲学は理性批判と言われ、カントが知性・intellectusという言葉に代わって、「悟性」という言葉を使いました。 理性が哲学でその頂点に君臨することになりましたが、しかし、カントはその理性にも限界があること、有限であることを主張し、特に「形而上学」の問題を論じると「二律背反」に陥ることを明らかにしました。 そうして理性の「横暴」を批判したわけです。 理性が万能ではないよ、と。 今現在、私たちは理性というと、物事を合理的に考えることと考えています。 西洋の哲学史で理性という言葉がどのように変遷してきたかを無視して、それを平準化して考えていますが、それも無理からぬところがあります。 日本人は、西欧が苦労して知性・intellectusを乗り越えて、理性・ratioに到達したのを知らず、途中から哲学に遅れて来て参入し、理性という言葉をつまみ食いしているのですから・・・・・。 「理性とは善悪を知ることができる能力?」というのも、その一つです。 「理性とは宗教とは無関係だ」というのも、またその一つです。 「合理的とは、宗教とは無関係と思われる」というのも、またその一つです。 なぜならば、善悪を知ることができる能力を理性と名付けたのであり、また宗教とは無関係だから理性と言ったのであり、また宗教と無関係だから、合理的と言ったのだからです。 近代に人文主義者が宗教批判をして理性中心に物事を考えたのであり、宗教と政治を分離したから、理性は宗教とは無関係になったのであり、そして宗教とは無関係だから、それを合理的と言ったからです。 あなたの質問はその順序を逆にして質問するものです。

kurinal
質問者

お礼

koosaka様、ご回答ありがとうございます。 哲学者様のお書きになる文章は、最後の最後まで読まないと「どんでん返し」がある場合もあると思うので、ちょっと時間をかけて取り組ませて頂きます。 ・・・それよりも、小生の不勉強のほうに問題がありそうですけれど。 >「まず「理性」という言葉は、明治に西洋から哲学・思想が入ってきたときに理性・ratioの翻訳語として作られたものです。 「理」という言葉は、儒教・朱子学でも使われ、また「合理」という言葉も使われましたが、「理性」という言葉はありません。」 「ratio」ですか。 例えば刑法では、「予見可能性」ということを言ったりすると思います。 人間の能力と、その限界、ですか、そうした判断も合理的にして頂かないと、 そもそも裁判とは、という気もします。 それから「明治時代」については、「一神教の強さ」を輸入しようとした、というのを見たことがあります。 >「そして西洋の哲学史でいえば、中世では、神の有する無限の能力は知性・intellectusと言われ、人間の有する有限の能力が理性・ratioと言われました。 そして理性・ratioは神が人間に付与したもの、と考えられていました。 いわば神の有する知性・intellectusを「分有」したものと考えられました。 故・木田元は理性とは「神の出店みたいなもの」と言っていましたが、うまい表現です。」 ここまでは、小生も納得出来るのです。 >「デカルトは「省察」で、人間には神が付与した理性としての先天的な「生得観念」があり、人間の理性的認識は経験を必要とすることになく、明晰判明であり、真理を洞察できると言いました。 スピノザも、唯一実体としての神が存在し心と身体はその神の属性であり、それぞれの側面である、と言いましたが、その場合の理性は唯一実体としての神の有するものでした。」 出ましたね。まさに「神の出店」。最近の言い方では「アンテナ・ショップ」ですか。 >「ところが、この知性・intellectusと理性・ratioの優劣関係が近代になって逆転しました。 理性・ratioが優位になり、知性・intellectusは「悟性」と言い代えられ、かえって地位の低いものに貶められました。」 ここのところが、小生としては、良く判りません。 (ああ、小生に「カント」を最初に教えた?中学か高校の教師のせいか?) >「どういう背景があったか、想像の域を出ませんが、これまで神を中心に世界が回っていると考えてきたものが、今度は人間を中心に世界が回っていると考えるようになったからだと思います。 いわゆる「ヒューマニズム・フマニタス」です。「人文主義」。」 「ヒューマニズム・フマニタス」、初めて拝見致しました。 >「人文主義者として知られているのが、15世紀から16世紀のオランダのエラスムス、そしてフランスのヴォルテール、英国のトーマス・モアという人たちです。 そして哲学では、18世紀末から19世紀初頭にかけて名声を博したカントでした。 カントの哲学は理性批判と言われ、カントが知性・intellectusという言葉に代わって、「悟性」という言葉を使いました。 理性が哲学でその頂点に君臨することになりましたが、しかし、カントはその理性にも限界があること、有限であることを主張し、特に「形而上学」の問題を論じると「二律背反」に陥ることを明らかにしました。 そうして理性の「横暴」を批判したわけです。 理性が万能ではないよ、と。」 その後に、「ニーチェ」が来るんですか >「今現在、私たちは理性というと、物事を合理的に考えることと考えています。 西洋の哲学史で理性という言葉がどのように変遷してきたかを無視して、それを平準化して考えていますが、それも無理からぬところがあります。 日本人は、西欧が苦労して知性・intellectusを乗り越えて、理性・ratioに到達したのを知らず、途中から哲学に遅れて来て参入し、理性という言葉をつまみ食いしているのですから・・・・・。」 (笑)・・・実は小生は、そういうのが大好き?人間で。 「そういうことだったんだ!」とスッキリしないと気が済まないという性分でもあります。 >「「理性とは善悪を知ることができる能力?」というのも、その一つです。 「理性とは宗教とは無関係だ」というのも、またその一つです。 「合理的とは、宗教とは無関係と思われる」というのも、またその一つです。 なぜならば、善悪を知ることができる能力を理性と名付けたのであり、また宗教とは無関係だから理性と言ったのであり、また宗教と無関係だから、合理的と言ったのだからです。 近代に人文主義者が宗教批判をして理性中心に物事を考えたのであり、宗教と政治を分離したから、理性は宗教とは無関係になったのであり、そして宗教とは無関係だから、それを合理的と言ったからです。 あなたの質問はその順序を逆にして質問するものです。」 そうした、曖昧だったり、実は誤解されていたり、というモノが、 いかにも、もっともらしくまかり通っている、というのも、 小生としては、気に入りません。 だから、少なくとも「理」という表現には、意味が二つ以上あるよ、 ということではありませんか?

kurinal
質問者

補足

>「そうした、曖昧だったり、実は誤解されていたり、というモノが、 いかにも、もっともらしくまかり通っている、というのも、 小生としては、気に入りません。」 「愛(する)」という表現も、そうしたものと思っています。 「博愛」ということと、単なる「好き、好み」といった意味が、 混在してしまっているように思われています。

  • info222_
  • ベストアンサー率61% (1053/1707)
回答No.1

理性に対峙する言葉として 本能 があると思います。 宗教とは直接関係ないと思います。 たとえば ・理性に基づいた行動。理にかなった行動。分別のある行動。 ・本能に基づいた行動。本能つまり食欲・物欲・性欲に基づいた行動。理性では説明できない行動。 人や年齢や環境によって、理性と本能の割合は変化していくかと思います。 人は、理性によって、やって良いこと、悪いことを判断し行動を律します。 理性を失くし本能のまま行動すれば、悪いことを平気でやり、犯罪が多発するようになります。 人は、衣食住が満たされず、貧困になれば、理性をうしない、本能に支配され、生きるために犯罪に走るか、自殺して苦悩から逃れるか、いずれかの行動に走り勝ちです。 この様な苦悩に追い込まれると、精神的な救いを求めて他力本願に身を任せて宗教に入信する人もでてくる気がします。

kurinal
質問者

お礼

info222_様、ご回答ありがとうございます。 >「宗教とは直接関係ないと思います。」 (仮に「理性」を)「善悪を、判断する能力」という場合、 そもそもの「善悪」とは何か、ということに、なりませんか? 仮に、そうしたことが「宗教任せ」ということになると、 宗教というのは(悪く言えば) 「なんでもあり(場合によっては「自由を逸脱してしまう」)」ですから、 それじゃあ、「理性」って、何なの?ということになってしまうと思います。 (例、「麻原の娘が、「麻原の娘だ」という理由だけで、教団の上のほうの地位に就いた。 ここで仮に「理性」が「(教団にとっての)善悪を判断する能力」だとすると、 「麻原の娘だ」という理由だけで上のほうの地位に就いたという「カノジョ」の判断が、 それだけで「理性的」とされてしまいかねない。と、思うのです) >「たとえば ・理性に基づいた行動。理にかなった行動。分別のある行動。 ・本能に基づいた行動。本能つまり食欲・物欲・性欲に基づいた行動。理性では説明できない行動。」 理性に「本能」を対峙させる、というご議論ですが、 つまり、「理性」とは、ある程度「人工的」ということですか? >「人や年齢や環境によって、理性と本能の割合は変化していくかと思います。 人は、理性によって、やって良いこと、悪いことを判断し行動を律します。」 もしかすると、「都合の悪い部分」は本能で、 「都合のよい部分」を「理性」と評価しよう、ということではありませんか? >「理性を失くし本能のまま行動すれば、悪いことを平気でやり、犯罪が多発するようになります。 人は、衣食住が満たされず、貧困になれば、理性をうしない、本能に支配され、生きるために犯罪に走るか、自殺して苦悩から逃れるか、いずれかの行動に走り勝ちです。 この様な苦悩に追い込まれると、精神的な救いを求めて他力本願に身を任せて宗教に入信する人もでてくる気がします。」 それは、いわゆる「自由からの逃走」というもので、 だけど、逃走には「本能に支配される」以外に、 「どうしたらいいのか、判らない(誰か、教えて!)」という理由も、 あるのではないでしょうか? 「理性的な判断」よりも「合理的な判断」のほうが望ましいという場合も、 あるのではないでしょうか。 (といって、「人権を考慮しない「功利主義」」が正しいとも思われませんけれど)