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理性?
こんばんは。 「理性」、それは「善悪を知る能力」? とすれば、「善悪」なんて、どうやって知るのでしょうか??
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理性とは、環境における遠くのものとの波及効果や 長期的影響を考えて、本能的・衝動的な欲求の発露を コントロールして、長期的に最大の充足を目指すものです。 (善悪など社会的に派生する二次的虚構に過ぎません)
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- hikaricom
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失礼ですが、あなた様は精神科に掛かっていらっしゃいますか? 精神薬を服用されているとしたら、止めることをお勧めします。日々、しっかりとした栄養を摂り、毎日外を散歩なさるなど、気持ちを外に外に向けられることをお勧めします。 善とはより良く生きることであり、行動することに他なりません。 あなた様の健康の為に、先ずご自身が出来る、ご自身の為の善に努めて下さいませ。何より自分が安定しないと他に良い影響は創りだせませんものね。 そういう意味で、もっとご自身の幸せを追求なさることには私も大賛成です。 良い食事、清潔で掃除の行き届いた住環境、きちんとした身なり、髪や服装、自分を鍛え、健康を維持し、自身をより良くすることは自己にとっても、家族にとっても、社会にとっても有益なことですものね。それは紛れもなく善だと思います。
お礼
hikaricom様、ありがとうございます。 >「善とはより良く生きることであり、行動することに他なりません。」 ところが、仏教では、そうでもないのかな、と >「あなた様の健康の為に、先ずご自身が出来る、ご自身の為の善に努めて下さいませ。何より自分が安定しないと他に良い影響は創りだせませんものね。 そういう意味で、もっとご自身の幸せを追求なさることには私も大賛成です。 良い食事、清潔で掃除の行き届いた住環境、きちんとした身なり、髪や服装、自分を鍛え、健康を維持し、自身をより良くすることは自己にとっても、家族にとっても、社会にとっても有益なことですものね。それは紛れもなく善だと思います。」 「そういう意味で、幸せを追求なさること」に大賛成されても、 やはり、どこか、「コレの為に、頑張れ」というようなことが、匂いますね。 >「失礼ですが、あなた様は精神科に掛かっていらっしゃいますか?」 いいえ。
- hikaricom
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補足 例えば、自分の家族、自分の母親が高熱を出して寝込んでいたとしますね。家には誰も居らず自分は仕事で2.3日間ろくに寝れていない。そんな状況で、母親も1日何も食べていない。彼は母親を放って寝てしまう方が良いでしょうか?母親にごはんを食べさせることや、汗を拭ってやること、その看病を自己犠牲と呼ぶのか否か?母親に対してよっぽどの憎しみを抱いている息子ならば、それを自己犠牲と呼ぶのかも知れません。寝込んでいる母親を無視して直ぐさま寝てしまうかも知れませんね。しかし、誰かにやれ!と言われてイヤイヤ母親を看病したとするならば、その人は不満と共にある種の敗北感を覚えるかも知れません。しかし、母親が居なかったら誰が御飯や洗濯を今迄通りしてくれるでしょう。自分を生み育ててくれた母親が自分をいつも労わり、何かにつけ援助してくれることが果たして自己犠牲と呼ぶものなのか? この宇宙は相対的にヘルプ(援助)から成り立っています。毎日、誰が作ったものを食べていますか? 牛や豚、鶏、野菜や穀物にいたる迄、皆他の命、他の労働、引いては太陽や水、微生物に至る迄、多くの存在から助けられ生きています。しかし、それらは自己犠牲と呼ぶものか否か。ある見方をすれば、私たちに食べられる牛は、人間の犠牲になっているという解釈もできますが、しかし、実際これは互いに助け合う共生の関係なのです。人は他者を助けることで自らの生存を助ける結果を自然と作り出します。1.~4の領域を外れますが自然を保護することは、私たちに安全な環境を保つ為に必要です。森林を守ることで、自分達の生きる為の酸素を確保しようとしている訳です。また土砂災害や土砂流出による川や海が汚れることから防いでくれます。他者と自己とは共生しており、切り離しては決して生存出来ません。他者の為に働くこと。助けることを面倒で負担と感じたとしても、1.~4の繋がりが切り離されることはないでしょう。 その労を自己犠牲と呼ぶのは、その人の責任の意識レベルの問題かと思います。 自己犠牲と感じる事をわざわざ選択しはしないでしょう。しかし、自分の仕事だと思うならばそれをするでしょう。何故ならばそれが善であり、自己の生存となることを知っているからです。
お礼
hikaricom様、ありがとうございます。 >「例えば、自分の家族、自分の母親が高熱を出して寝込んでいたとしますね。家には誰も居らず自分は仕事で2.3日間ろくに寝れていない。そんな状況で、母親も1日何も食べていない。彼は母親を放って寝てしまう方が良いでしょうか?母親にごはんを食べさせることや、汗を拭ってやること、その看病を自己犠牲と呼ぶのか否か?母親に対してよっぽどの憎しみを抱いている息子ならば、それを自己犠牲と呼ぶのかも知れません。寝込んでいる母親を無視して直ぐさま寝てしまうかも知れませんね。」 なるほど。「家」という問題の名残ですね。もっと徹底して個人になっていっても、いいものと思います。 >「しかし、誰かにやれ!と言われてイヤイヤ母親を看病したとするならば、その人は不満と共にある種の敗北感を覚えるかも知れません。しかし、母親が居なかったら誰が御飯や洗濯を今迄通りしてくれるでしょう。自分を生み育ててくれた母親が自分をいつも労わり、何かにつけ援助してくれることが果たして自己犠牲と呼ぶものなのか?」 まさに、(現行)制度的には、「誰か(制度)」に「やれ!」と言われて、まず、やって。 それでも足りなければ(という縛りの下で)、給付が下りるわけですよね。 >「この宇宙は相対的にヘルプ(援助)から成り立っています。毎日、誰が作ったものを食べていますか? 牛や豚、鶏、野菜や穀物にいたる迄、皆他の命、他の労働、引いては太陽や水、微生物に至る迄、多くの存在から助けられ生きています。しかし、それらは自己犠牲と呼ぶものか否か。ある見方をすれば、私たちに食べられる牛は、人間の犠牲になっているという解釈もできますが、しかし、実際これは互いに助け合う共生の関係なのです。人は他者を助けることで自らの生存を助ける結果を自然と作り出します。1.~4の領域を外れますが自然を保護することは、私たちに安全な環境を保つ為に必要です。森林を守ることで、自分達の生きる為の酸素を確保しようとしている訳です。また土砂災害や土砂流出による川や海が汚れることから防いでくれます。他者と自己とは共生しており、切り離しては決して生存出来ません。他者の為に働くこと。助けることを面倒で負担と感じたとしても、1.~4の繋がりが切り離されることはないでしょう。 その労を自己犠牲と呼ぶのは、その人の責任の意識レベルの問題かと思います。 」 まあ、「人権侵害は不可能」ということで、どうでしょうか。 >「自己犠牲と感じる事をわざわざ選択しはしないでしょう。しかし、自分の仕事だと思うならばそれをするでしょう。何故ならばそれが善であり、自己の生存となることを知っているからです。」 hikaricom様は、職人なのですか。 「仕事、すなわち「善」」という捉え方と、 それを前提とした自己の生存、ですか。 しかし、これでは「職人」が誤解されるのでは? ・・・ですが、 「科学者は、どこまで、やれるか」という問題も、あるようで。
- hikaricom
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しかし、それを選択するのはあくまでも自己決定です。その人が選択するか否か、誰も強制するものではありません。ただその人の中に、良心の呵責が生まれるとするならばそれは、強制されたからではなく、恐れからそれを選択しなかったという自己卑下によるものかも知れません。なぜ良心の呵責を感じたか?それはその人本人が本来的に持つ倫理観に背いたことの自覚です。 何度も申し上げますが、1.2.3.4はその人本人が所有するものであり、個人の中に帰属するものです。2.3.4を自分と分離して考えることが矛盾と混沌を作り出す要因の一つかと存じます。
お礼
hikaricom様、ありがとうございます。 >「しかし、それを選択するのはあくまでも自己決定です。その人が選択するか否か、誰も強制するものではありません。ただその人の中に、良心の呵責が生まれるとするならばそれは、強制されたからではなく、恐れからそれを選択しなかったという自己卑下によるものかも知れません。なぜ良心の呵責を感じたか?それはその人本人が本来的に持つ倫理観に背いたことの自覚です。」 これは、「戦場に行きたくないからだ」発言と同じ論理ですか。 >「何度も申し上げますが、1.2.3.4はその人本人が所有するものであり、個人の中に帰属するものです。2.3.4を自分と分離して考えることが矛盾と混沌を作り出す要因の一つかと存じます。」 矛盾や混沌を否定するわけではなく、そうした中から、形成されるものもあるのではないでしょうか。
- hikaricom
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同等の価値というと語弊があるかも知れませんが、どちらがより大切か?否かという優劣はないということです。 なぜならば、自分を蔑ろにして他に価値を置くというのは、常に合理的で生存の結果を生むとはいえません。 可能な限り自己が生存し、他も同様に生存的な結果に結びつく結果がより望ましいことは明白です。 その意味に於いて1.2.3.4と分けて考えた場合、1の自己も、2の家族も、3のグループも、4の人類にも良い影響をもたらす、又はそういった結果に導く判断と行動であること、つまりその結果より大きな生存をもたらす程、善であると考えるのです。 同等と言ったのは、必ずしも人数の大きさ=生存であるという考えに当てはめるものではないことを強調するために用いた言葉です。
お礼
hikaricom様、こんばんは。ご回答ありがとうございます。 >「常に合理的」 「ロボット原則」の前に、「人間を蔑にしてはならない」と >「可能な限り自己が生存し、他も同様に生存的な結果に結びつく結果がより望ましいことは明白です。」 >「1の自己も、2の家族も、3のグループも、4の人類にも良い影響をもたらす、又はそういった結果に導く判断と行動であること、つまりその結果より大きな生存をもたらす程、善であると考えるのです。」 そうすると、(やはり)「4人類」の構成者であるはずの「1自己」に「(4のために)自己犠牲を、」というのは、パラドックスではないですか?
- hikaricom
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自己責任論というものがあるのかは分かりませんが、そもそも責任という言葉の持つ厳密な定義は、「自己決定に帰属する行動」つまり自分がやるべきことに対して他者を介在せず自ら行う自発的な行為を言いますから、強者とか支配者とかは関係ありません。あくまでも自己、己において同意、決定するものです。その意味で責任の度合いは個々様々でいいのです。
お礼
hikaricom様、こんばんは。 >「自己責任論というものがあるのかは分かりませんが、」 >「人と世界との関係性をつぶさに分析してみると、4つの要素に区分けることが出来ます。 それは自己、家族、組織やグループ、そして人類です。人間は生存を目的として生きています。私たちの目的は生存です。この4つを生かしながら私たちは生きています。しかし、どれを優先すれべきか?という問いはナンセンスで、どれもが同等の価値を有しています。同等? 家族を助ける為に死ぬとか、会社の為に死ぬといった行為が有益か否かは、みなその時の自己決定に委ねられますが、生存を助けるとは、何も生き死に限っていっているのではなく、1.2.3.4とそれぞれが同等の価値を持っています。というのも個人と個人との関係、個人と家族との関係、個人とグループとの関係、個人と人類との関係といったように、全ては、個人の世界を形作っているものです。」 4つの要素、ということですが、>「同等?」 >「強者とか支配者とかは関係ありません。あくまでも自己、己において同意、決定するものです。その意味で責任の度合いは個々様々でいいのです。」 ここに、矛盾を含んでいると思います。 つまり、社会的な強者(とか支配者とか)に、責任は無い。 「平等とは、どれだけ自由か、ということ」ですか。 (再び) >「自己責任論というものがあるのかは分かりませんが、」 つまり、「自由放任」ということで。 (それだから「人権を侵害しないように心掛けましょう」と言いたくもなるわけですね)
- hikaricom
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》》自己犠牲は、善なのか、悪なのか。 補足しますね。 より多くの生存を助けるというのは他者を助けなさいという強制を含むものではありません。 自己犠牲というのは、非常にネガティヴな感情であり、そこには懺悔?や他者への見せしめというような自己への暴力によって他者への非難を多少なりとも含んでいます。 人と世界との関係性をつぶさに分析してみると、4つの要素に区分けることが出来ます。 それは自己、家族、組織やグループ、そして人類です。人間は生存を目的として生きています。私たちの目的は生存です。この4つを生かしながら私たちは生きています。しかし、どれを優先すれべきか?という問いはナンセンスで、どれもが同等の価値を有しています。同等? 家族を助ける為に死ぬとか、会社の為に死ぬといった行為が有益か否かは、みなその時の自己決定に委ねられますが、生存を助けるとは、何も生き死に限っていっているのではなく、1.2.3.4とそれぞれが同等の価値を持っています。というのも個人と個人との関係、個人と家族との関係、個人とグループとの関係、個人と人類との関係といったように、全ては、個人の世界を形作っているものです。 お年寄りに席を譲るのはなぜでしょう? それは、自分の方が丈夫であり、より負担の多い立場の人の荷を軽くして上げることの方が相対的により生存を助長することになるということです。 父親が大変な仕事を抱えることになるであろうポストを引き受けるといった場合、出世の為に生まれたばかりの乳飲子と妻を置いて3年間エジプトに赴任することが善かどうか?出世、高い収入の話を犠牲にして断てしまうか?妻を一緒に連れて行くか?選択肢は一つではありません。 その選択肢に於いて何もが、最も善となる選択肢であるかは、その時どの選択肢が最も生存的かで判断されると言うわけです。 その個人の決定に於いて、より多くの生存を助ける(その人個人の持つ世界の中に於いて)ことは、その人にとって限りなく生存であり、限りなく善なのです。しかし、もしそれが自己犠牲と判断するならば、その人の世界は個人の領域にのみ留まっている状態を示すことに他なりません。分かりやすく言えば、その人は、自分のことにあまりに固着している状態であり、責任の範囲が他に及んでいないことを示しているのだと言い換えることが出来ます。
お礼
hikaricom様、ありがとうございます。 >「より多くの生存を助けるというのは他者を助けなさいという強制を含むものではありません。 自己犠牲というのは、非常にネガティヴな感情であり、そこには懺悔?や他者への見せしめというような自己への暴力によって他者への非難を多少なりとも含んでいます。」 ・・・なるほど「自己責任論」ですが、 こうしてみると「自己責任論」とは、強者にとって、とても都合が良い・使い勝手が良い。
- amenhotep2000
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Kurinalさん こんばんは。 No.11のks5518さんの回答を見て気づいたことがあるので、回答します。 先日、テレビ朝日の「報道ステーション」を観ていたら、小池龍之介さんがコメンテイターとして出ていて、下記のことを言っていました。 http://trend.sunnysideworkers.com/archives/2491 この中の小池さんが言っている。 少し遠くから「この小池さんは、電気を要らないと思っているんだね」と、自分自身の意見を客観的に捕らえ相対化するんです。自分の意見から離れると私も楽になり、相手と争わなくて良くなります。 と書いていますが、カッコがついているところに注目してください。 小池さんの意見を聞きながら、私はフッサールを思い浮かべました。 フッサールは「エポケー(判断停止)」して、“思い込み”を停止しないと現象学的還元は出来ないと説いています。そしてエポケーのことを「カッコに入れる」とも言うそうです。 谷徹さんのフッサールの解説本を読むと、フッサールは直接経験における現出を、わざわざカッコつきで「記号」と表記し、谷徹さんは、これはカッコつきの「意味」と考えて良いと述べています。 現在、修行の身でフッサールの現象学を勉強中(フッサールの現象学は進化する哲学なので、誰の意見を参考すればいいのか分からなくなります)なので的を射ているか分かりませんが、ks5518さんが「善」「悪」とカッコをつけているのに対し、kurinalさんは「善悪」とカッコをつけています。 「善」「悪」とカッコをつけて考えると二元論の相対的「意味」に対し、「善悪」とカッコをつけて考えると、一元論的な絶対的「意味」のように私は感じます。 私の思考ではここまでで間違った解釈かもしれませんが、肯定する人がいれば、仏教僧侶の小池さんの考えも、キリスト教社会の西洋におけるフッサールの哲学も発想は同じなわけで、宗教によるいがみ合い(特に宗教内の宗派争いは不毛すぎる)はせず、テロが起こらない日本の社会を創造すべきと思います。 私から言わせるとkurinalさんのお礼は、いつもそっけなさすぎる!たまには自爆テロのお礼を望みます(笑)。また、このkurinalさんの理性についての投稿に対する回答が増えることを望みます。
お礼
amenhotep2000様、ご回答ありがとうございます。 >「フッサールは「エポケー(判断停止)」して、“思い込み”を停止しないと現象学的還元は出来ないと説いています。そしてエポケーのことを「カッコに入れる」とも言うそうです。」 なるほど。 「フリーズ!」して、真偽を見極めたい、ですよね。 >「私の思考ではここまでで間違った解釈かもしれませんが、肯定する人がいれば、仏教僧侶の小池さんの考えも、キリスト教社会の西洋におけるフッサールの哲学も発想は同じなわけで、宗教によるいがみ合い(特に宗教内の宗派争いは不毛すぎる)はせず、テロが起こらない日本の社会を創造すべきと思います。」 ・・・ 1 テロは、0(ゼロ) 2 日本社会では、テロは起こらない とすれば。 まあ、「日本のように平和になるのなら、なんでもする」という、外国の方も居られるようで。 (日本に住んでる小生の実感は「資源国は、いいなあ!」なんですけど)
- 雪中庵(@psytex)
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#3の者です。 >「予測」でしょうか? 単に予測するだけでなく、そこに真の目的たる最大充足の 志向を展開し、それに従って、短絡的欲求や自己顕示欲、 虚栄心といったものをコントロールする事である。
お礼
psytex様、ありがとうございます。 「青天の霹靂」とか、 「見れども、見えず」とか。 そこに「意志」という問題を見るとき、 「理性」と(その、もたらす結果)は、小生が思っていたものよりも、 遥かに強烈なものです。 「信教の自由」には限界があり、政教は分離されるべきなんですね。
- ks5518
- ベストアンサー率27% (469/1678)
No.9です。 >>「理性とは、四悪種をおさえるためのものです。」 >不勉強で、良く判りません。 四悪種とは、、、 仏教においての教義の中で、『十界』という人間の生命(心)の状態を説いたものがあります。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁楽・菩薩・仏の十種ですが、このうち地獄・餓鬼・畜生・修羅の四種を四悪種といいます。 ・地獄界 苦しみ、怒りの境涯 ・餓鬼界 貪り、不満の境涯 ・畜生界 愚か、本能に生きる境涯 ・修羅界 人を見下し戦いを好む境涯 を言います。 ※『十界』を参照してください。 >>「善悪の判断は、主に外的要因により植えつけられるものだと思います。それは、生まれてから現在に至るまでの学習や経験によるものだと思います。それらが蓄積された上で、理性により言動がコントロールされるものだと思います。」 >だから、未熟な「未成年者」は、保護される。 保護されるということではなくて、成長過程において家庭環境、学習過程において蓄積されるものという事です。 >>「犯罪を犯せば法律により処罰されますが、これはあくまでも共存社会を構築する上で必要とされるのであって、生命の因果律には影響を及ぼしません。現代の人間はその先にある、『生命の善悪』そしてそれがもたらす因果律までは把握できていません。 人間にとって、もっとも恐ろしいのはその部分なのに。」 >なるほど。 「自然」が神?であって、「恐ろしい物質」などは悪、なのでしょう。 違います。 一次元的な行為だけをお話しているのではありません。人間の行為というものは、その人間の持つ生命の『ハードディスク』的な部分に記録され、今(現在、現世)だけではなく、明日(未来、来世)にまで影響を及ぼすという事です。 また、『神』の定義も色々とあり、哲学のカテゴリーでも様々な議論がされていますが、未だに確定した解明には至っておりません。『神』が全てだということもありません。仏法における『神』の存在というものは、神道、一神教とはまた違った概念でとらえています。 そして、ただ単なる『善』、『悪』という視点だけでは、世の中の出来事は解決できないという事です。
お礼
ks5518様、ご回答ありがとうございます。 >「四悪種とは、、、 仏教においての教義の中で、『十界』という人間の生命(心)の状態を説いたものがあります。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁楽・菩薩・仏の十種ですが、このうち地獄・餓鬼・畜生・修羅の四種を四悪種といいます。 ・地獄界 苦しみ、怒りの境涯 ・餓鬼界 貪り、不満の境涯 ・畜生界 愚か、本能に生きる境涯 ・修羅界 人を見下し戦いを好む境涯 を言います。 ※『十界』を参照してください。」 了解です。「信教の自由」ですね。 >「保護されるということではなくて、成長過程において家庭環境、学習過程において蓄積されるものという事です。」 「理性によって、言動がコントロールされ得ない(責任を問えない)」場合は、責任を問えない(保護される)でしょう。 >「一次元的な行為だけをお話しているのではありません。人間の行為というものは、その人間の持つ生命の『ハードディスク』的な部分に記録され、今(現在、現世)だけではなく、明日(未来、来世)にまで影響を及ぼすという事です。」 「因果応報」という考え方もあると思うのですが、 どうも(一人間の)「理性」の範囲を超えて、のご説明のようです。 >「また、『神』の定義も色々とあり、哲学のカテゴリーでも様々な議論がされていますが、未だに確定した解明には至っておりません。『神』が全てだということもありません。仏法における『神』の存在というものは、神道、一神教とはまた違った概念でとらえています。 そして、ただ単なる『善』、『悪』という視点だけでは、世の中の出来事は解決できないという事です。」 ・・・こちらは、個人の信念、ということですか。
補足
「理性」を超えると、何があるのかなあ。 (個々人は?)・・・無理して超えなくても、いいのではないか? (その代わり、「(司)法」は、鍛えられる?)
- kohichiro
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理性がなくてもその社会にずっと生きて居れば、その社会に属する善悪は知ることが出来ます。宗教社会はその典型です。 理性というのは、この世の中のしくみ全般を正確に理解していく能力です。 善悪もそのしくみのひとつであり、人間に関わっています。なので、 >「理性」、それは「善悪を知る能力」? というより、善悪の奥(裏)を知るということです。 優れた理性は、その社会の善悪を知るという以前に、善悪そのものが人間によっては一定でないということを知るはずです。それは価値観に左右され、価値観というものは個人によって、あるいはその集団ひとつひとつによって異なっているということを知るはずです。理性はそういうことを知る能力でもあります。 なので、
お礼
kohichiro様、ご回答ありがとうございます。 んー。 「世の中のしくみ」って、人間ではどうにもならないことから、人間次第なことまで、幅広いと思います。 >「優れた理性は、その社会の善悪を知るという以前に、善悪そのものが人間によっては一定でないということを知るはずです。それは価値観に左右され、価値観というものは個人によって、あるいはその集団ひとつひとつによって異なっているということを知るはずです。理性はそういうことを知る能力でもあります。」 そう言われると。「メタ「理性」」ということでしょうか。 Ano.3様のご回答に立ち返りますと、 何が善か? ・・・「長期的に目指す」とは、「予測」なのか??
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お礼
psytex様、ご回答ありがとうございます。 >「環境における遠くのものとの波及効果や 長期的影響を考えて、本能的・衝動的な欲求の発露を コントロールして、長期的に最大の充足を目指すものです。」 宗教とは無関係な「理性」の定義を、、、頂きました? (勿論、「自律的に」コントロールされるのですよね?) ・・・(ある分野にだけは、詳しい)「コンサルタント」や「マネジャー」が必要になる、ですか。
補足
曰く 「長期的に・・・目指す」とは、 「予測」でしょうか?