- 締切済み
森鴎外と乃木希典 興津弥五右衛門の遺書
なぜ森鴎外が「興津弥五右衛門の遺書」を執筆したのかが分かりません。 「乃木希典への批判を抑えるのが理由なのか」と先生に聞いたところ、「じゃあなぜ死後5日で書いたのか」と返されてしまいました。 森鴎外と乃木希典はドイツ留学中に知り合い、鴎外が小倉へ立つときほとんど見送りもなかったにも関わらず、乃木希典は見送りに来たという話は見つけましたが、それが果たして僅か5日で執筆するだけの思い入れになるのでしょうか? 他にも森鴎外と乃木希典に関するエピソードをご存知でしたら、教えて頂きたいです。 お願い致します。
- みんなの回答 (1)
- 専門家の回答
みんなの回答
- ithi
- ベストアンサー率20% (1972/9601)
1125birth さん、こんばんは。 森鴎外という人はとてもけれんみがあり、神経質な人のように思います。特に軍内の立身出世には強い関心がありました。東京のポストから辺境のポストである小倉へ転勤になったのはライバルにおとしいられたのだと思っていたようですが、どうも定期異動だったようです。というのも小倉師団はこのころ新設されたばかりだったという事情があり、軍医として熟練している鴎外に白羽の矢が立ったというのが実情のようです。おまけに昇進しているらしいです。 森鴎外と乃木希典はドイツ留学中に知り合い、鴎外が小倉へ立つときほとんど見送りもなかったにも関わらず、乃木希典は見送りに来たという話は見つけましたが、それが果たして僅か5日で執筆するだけの思い入れになるのでしょうか? イメージが似ているので、創作する気が強く起こった程度の事でしょう。 日清戦争中に鴎外が第2軍司令部の軍医部長をしていたころ、乃木はその隷下の第一師団の第一旅団長でした。 また、乃木のドイツ留学中に鴎外が親交を持ったというところから、ドイツ語の通訳をしていたということが垣間見えます。 当時の日本陸軍の関心事であった。クラウゼビッツの「戦争論」の翻訳者として陸軍の主流からも強い関心を浴びていました。こういうところもどうにかして軍内で立身出世をもくろもうというところが見ます。 乃木希典 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%83%E6%9C%A8%E5%B8%8C%E5%85%B8#.E6.97.A5.E6.B8.85.E6.88.A6.E4.BA.89.E3.81.B8.E3.81.AE.E5.BE.93.E8.BB.8D 森鴎外 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E9%B4%8E%E5%A4%96