- 締切済み
家康はなぜ三方ヶ原に誘い出されたのか?
三方ヶ原は家康にとってはホームです。 地形についても最も熟知していたはず。誘い出されれば逃げ道は無く袋のねずみになって撃破されるのは分かっていたはずです 信玄に手を出さずやり過ごすはずだったのに…なのに家康は三方ヶ原に差し掛かった信玄軍を追撃し、結局返り討ちにあいました 家康が三方ヶ原に行ってしまったのは何故なのでしょうか?
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
みんなの回答
- Pinhole-09
- ベストアンサー率46% (597/1294)
信玄の方が一枚うわてのようです。 信玄が織田と決戦するため西進を始めた時、信長は信玄の 強さを恐れ正面衝突を避けました。 信玄に家康の浜松城を攻めさせ、その背後を四方に隠しおいた 伏せ勢で突くと共に、城勢が打って出て挟み撃ちにしようと 考えたのです。「常山紀談」箕形原合戦の項 浜松城の守りを堅くするため、平手等の援軍を送りました。 援軍を知った信玄は裏を読んだのでしょう。 浜松城を一顧だにせず通り過ぎようとしました。 家康が信長の作戦を聞いていたかどうか不明ですが、うすうす 感ずいてはいたでしょう。 これはまずいと打って出ました。浜松城に引きずりこめば勝利の チャンスありとみたのです。 武士道の意地などは皆を説き伏せるための言い訳で、家康は こんなことで、勝算のない戦はしません。 浜松勢を恐れさせるため奮戦し援軍の平手まで討ち死にする 激戦の敗戦でしたが、信玄はその手に引っ掛かりません。 浜松城はおいてきぼりで西進です。 信長の作戦は失敗し諸勢は撤退防御体制です。 これ以降信玄の西進は遅々として難をのがれました。 信玄の病気の為といわれ当たっているようです。
- chiha2525_
- ベストアンサー率13% (119/883)
家康は、信長を見て、定石通りに戦っていたのでは今の時代に生き残れないと考えていたのかもしれませんね。 相手は通り過ぎ”背を向けている”、土地はこちらが良く知っている、後ろから”奇襲”を掛け、相手に大打撃を与える千載一遇のチャンス、と思ったのでしょう。 うまい話には裏があったのです。
- eroero4649
- ベストアンサー率32% (11074/34518)
「政治的に誘い出された。出ざるを得なくなった」のではないかなと思います。目の前を悠々と通られてコケにされて、それで戦いもせずにただただ籠城するだけだったとなったら「家康は臆病者で、まったく頼りにならない」と戦わずして徳川(織田)方の国人衆が武田方にドミノ現象を起こす可能性があったでしょう。 我々は後世の歴史を知っていますから「信玄は死ぬ」と分かっているわけですが、病気であることは把握していたでしょうが、治るか死ぬかまでは予想は不可能です。例えばこのとき家康が出陣せず、なおかつ信玄が存命であったならば、その翌年辺りには三河の国人衆も武田方に寝返って「詰み」になった可能性はあったと思いますし、家康としてはそれを最も恐れたでしょう。 三方ヶ原の合戦はいうまでもなく家康最大の敗北でありますが、しかし家康も戦国時代の三本指に入るほどの野戦の鬼でもあります。この生涯最大の敗北にも野戦の鬼ぶりは発揮されていると思います。 倍近い敵軍、更には地形も相手が有利で兵も歴戦のつわもの。しかも数が多いほうが魚鱗の陣形と「死亡フラグがいくつあっても足りない絶体絶命どころではない騒ぎ」にも関わらず、徳川四天王を始め主だった武将を誰一人失っていません。増援の織田軍は平手汎秀を討ち取られています。マンガやドラマなら、本多忠勝が「ここは俺様が」とかなんとかいって食い止めている間に逃げて戦死するってパターンですが、本多忠勝はご存知のとおり、この大敗北の最中でもケガひとつしていません。 後に長篠の合戦で武田方が有名どころの武将をほぼ全滅させていることを考えれば、家康としては「失ったのはザコばかり」です。だからその点を考えると、私は意外に秩序だった退却をしたのではないかなと思います。それか、家康の指揮能力はこの敗北の最中にも失われることはなく家康は冷静さを保ち続けられたということになりますね。だとすると、家康は鉄の心臓どころかオリハルコンの心臓の持ち主といえそうです。地形を熟知していたからこそ、敗北の中にあっても総崩れを起こさず、歴戦の武田軍を相手に存分な追撃をさせなかったのでしょう。家康が空城の計で山県昌景をして追撃させなかったといわれていますが、そこに至るまでの間でも武田軍を警戒させて追撃させなかった退却戦を行ったのだと思います。