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家康の跡継ぎ
江戸幕府2代将軍は、なぜ3男の秀忠だったのでしょうか。長男、次男は何でなれなかったのでしょうか。あと、昔は、今では考えられないほど、子どもを産みましたが、今は経済的に産めない人もいるかと思います。昔は経済的なことは考えなかったのでしょうか。給料がこれだけだから子どもはあきらめよう、とか、1人でいいや、とか。
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1102530346 さん、こんばんは。 江戸幕府2代将軍は、なぜ3男の秀忠だったのでしょうか。長男、次男は何でなれなかったのでしょうか。あと、昔は、今では考えられないほど、子どもを産みましたが、今は経済的に産めない人もいるかと思います。昔は経済的なことは考えなかったのでしょうか。給料がこれだけだから子どもはあきらめよう、とか、1人でいいや、とか。 長男信康は本当に跡継ぎでしたが、天正7年に家康の命で自殺させられています。理由は信長の怒りを買ったとか、親子の不仲説、徳川家臣団の派閥抗争の犠牲になったとかいろいろあります。 次男秀康は名前はとても由緒がありますが、実は家康からは冷遇されていました。親子対面は3歳の時で信康のとりなしだったようです。天正12年に秀吉の養子となり、秀康という名前をもらいますが、天正18年に下総の名門結城家の養子になります。 そのため、秀忠が3男ながら跡継ぎになったのでしょう。 殿様のお家はちょっと特殊ですからね。例にもってくるのは当てはまるものが少ないです。 昔はとても栄養状態や健康状態が脅かされやすいので、たとえ10人生まれても成人できるのは4,5人位だったとかと聞いていますので、生まれてくる子供はたくさんがよかった時代でした。正妻だけでなく、側室にも子供を産ませていたというのは当たり前でした。お家に子供が生まれないのはお家の断絶を意味しますからね。その家に仕えている家臣、郎党が路頭に迷います。 まず、子供を成人するまでの生涯コストを計算に入れているからです。 江戸時代では下々のほうでも「子供は宝」といっていました。それは百姓の子は百姓とか鍛冶屋の子は鍛冶屋という風に学校教育がない時代では親を見習い、仕事を覚えるようになるので子供を労働力としてみていたからです。 なんとなく不安定でいつどこで戦争が起きるかもしれない時代と制度があるけれど、ある程度経済力がないと生活が豊かにならない現代とでは比較になりませんね。 詳細は下記のURLを参照ください。 結城秀康 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E5%9F%8E%E7%A7%80%E5%BA%B7 松平信康 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E4%BF%A1%E5%BA%B7
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長男 松平信康 母親が今川家の一族。一説では織田信長に配慮して切腹させられる。 次男 結城秀康 朝鮮出兵時に、当時の不治の病気に。 今は子供を育てるのに多大な費用をかけますが、昔は逆に子供は労働力としてあてにしちゃう。 大名などは跡継ぎとしてたくさん作る。特に乳幼児の生存率が低いので多めにつくる。 昭和の初期などでも大家族が普通。増え過ぎた人口を日本の国土でささきれずに、戦争の一因に。
- 0fool0
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秀忠を世継ぎにした正確な理由は判りません。 単に家康の気分としか言えません。 経済的理由を問題に子供を生まないのは、現代病です。 昔は子供は家庭の子供でも有りますが、何より「共同体」の村や社会の子供でした。 成長すれば労働力になりますので、大切な村の構成員候補者です。 現代でもそうですが、子供が居なければ将来はありません。 経済的に考えれば、子供が居ないのはアウトです。 養育に金が掛かるの言葉の裏は、「自分が遊ぶ金が無くなる」です。
- あずき なな(@azuki-7)
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長男 徳川信康は信長に謀反の疑いを掛けられ切腹 次男 結城秀康は豊臣秀吉の養子となったのち結城晴朝の養子になり結城家を継いだ(のちに越前松平家となり福井城主となった) つまりこの2人は世継ぎになる資格はありません となると3男の秀忠ですが 実際家康は最後まで迷っていたらしいです ただ 戦国も終わり これからは武勇より文に優れた者が必要と考え家康は 文に優れた秀忠を将軍にしたようです(実際は天海大僧正の力が働いたらしいですが) 家康は豊臣秀吉が子宝に恵まれず家が滅びた事を目の当たりにし 側室を大量に作りました 結果的にその子供たちが徳川将軍家を代々継いだわけですから成功だったわけです
- kusirosi
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長男 松平信康 家康より先に死亡 ・嫁の父の織田信長より、謀反計画と通報。切腹 次男 結城秀康 家康より先に死亡 ・秀吉の養子として羽柴秀康、さらに家康の関東移転後、同じ関東の名家の 結城家の跡取り養子として結城秀康に。 家康の子 男子 長男・松平信康(母:築山殿) 二男・結城秀康(母:小督局) 三男・徳川秀忠(母:西郷局) 四男・松平忠吉(母:西郷局) 五男・武田信吉(母:下山殿) 六男・松平忠輝(母:茶阿局) 七男・松平松千代(母:茶阿局) 八男・平岩仙千代(母:お亀) 九男・徳川義直(母:お亀) 十男・徳川頼宣(母:お万) 十一男・徳川頼房(母:お万) 女子 長女・亀姫(母:築山殿) - 奥平信昌室 二女・督姫(母:西郡局) - 北条氏直室のちに池田輝政室 三女・振姫(母:お竹) - 蒲生秀行・浅野長晟室 四女・松姫(母:お梶) 五女・市姫(母:お梶) 猶子 八宮良純親王 - 後陽成天皇第八皇子 養子 松平家治 - 奥平信昌次男 松平忠政 - 奥平信昌三男 松平忠明 - 奥平信昌四男 養女 小松姫(大倫院) - 本多忠勝娘、真田信之正室 満天姫(葉縦院) - 松平康元娘、福島正之妻・津軽信枚正室 栄姫(大凉院) - 保科正直娘、黒田長政継室 阿姫(光照院) - 松平定勝娘、山内忠義正室 蓮姫(長寿院) - 松平康直娘、有馬豊氏室 国姫(栄寿院) - 本多忠政娘、堀忠俊妻・有馬直純継室 亀姫(円照院) - 本多忠政娘、小笠原忠脩・小笠原忠真室 万姫(敬台院) - 小笠原秀政娘、蜂須賀至鎮室 久松院 - 松平康元娘、田中忠政妻・松平成重継室 浄明院 - 松平康元娘、中村一忠妻・毛利秀元継室 唐梅院 - 松平康親娘、井伊直政正室 菊姫 - 岡部長盛娘、鍋島勝茂継室 清浄院 - 水野忠重娘、加藤清正継室 貞松院 - 保科正直娘、小出吉英室 昌泉院 - 牧野康成娘、福島正則継室 名前不詳 - 松平家清の娘、浅野長重室 名前不詳 - 松平康元娘、松平忠政(大須賀忠政)妻・菅沼定芳正室 名前不詳 - 松平康元娘、岡部長盛継室 たくさんいるね\(^^;)... 昔は、子どもの内に死ぬこと多かったので家名絶えないように 子だくさんだった。たくさん生き残っても、 どこかに養子の口あるかもしれないと期待したりして( ^^) _旦~~
- 1paku
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長男の信康は、若い時に死亡。いちおうは、後継者候補の筆頭でした。 次男は、一時期、候補にはなってましたが、苗字が徳川でも松平でもなく、結城ですね。 人質の形で秀吉の所に行かされて、他家の養子に。この時点で、後継者争いからはほぼ脱落でしょう。 いろいろとやんちゃな性格でしたから、家臣の支持が得られたかどうか。 晩年、ある病気にかかってますから、結果的には次期将軍にしなくて正解でした。 三男の秀忠の長女千姫が豊臣秀頼と縁組。豊臣家との絡みで、二代将軍は徳川だけど、三代目はその婿の秀頼にって思わせるためにも、後継者レースは、秀忠が大本命。