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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:太平洋戦争に踏み切った精神の楽天性の根拠について)

東条英機の楽天性が太平洋戦争に踏み切った根拠となったのか

このQ&Aのポイント
  • 東条由布子さんの『祖父東条英機「一切語るなかれ」』によると、東条英機は統帥権のシステムの間違いを指摘し、日本の将来の軍制について語っていました。彼のポジティブな考え方や楽天的な感じは、太平洋戦争に踏み切る要因の一つと考えられます。
  • 日本が太平洋戦争で敗れた場合でも、東条英機を含む指導者層や一般人は日本の復活を信じていたとされます。この楽天性が戦争の決断に影響を与えた可能性があります。また、第一次世界大戦で敗北したドイツの復活を見て、東条英機は日本も同じように復活できるという期待を抱いていたのかもしれません。
  • 東条英機や戦争に対する楽天的な考え方とは別に、戦争をスポーツのように考える人々もいました。米国大統領が戦争をスポーツと例えたことがありますが、それによって戦争に踏み切る意欲が高まった可能性も考えられます。ただし、冷静に問いかけるとまだ早い話題かもしれません。

質問者が選んだベストアンサー

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  • hekiyu
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回答No.2

”指導者層あるいは一般でも、それでも日本は復活していくだろうという考えがあって、 その楽天性が、太平洋戦争に踏み切らせたという面もあったと考えられますか?”        ↑ それを指摘する識者もおりますが、どうですかね。 大東亜戦争は、何としても、中国のような植民地にはされまい、 とする、日清日露戦争の延長にある、日本の必死な抵抗であった、 と考えています。 ”開戦について、無責任な楽天性があったように思います。”      ↑ あの戦争は回避出来なかったと思いますよ。 当時の米国は、1930年に続く大不況の真っ只中でした。 GDPは1/2に、株価は1/10に落ち、国民の1/4が 失業し、あちこちで暴動が発生していました。 ルーズベルトは、ニューデールなどの政策を打ちましたが効果は はっきりしません。 それでどうしても戦争をやる必要があったのです。 戦争は最大の公共事業ですから。その証拠に戦後、米国 経済は見事な復活を遂げています。 これは私の偏見ではありません。 米国歴史学の権威チャールズ・A・ビーアド元コロンビア大教授は 公文書を調べて、ルーズベルトが巧妙に日本を戦争に引きづり込んだ 過程を明らかにした本を出版しましたが、これは事実上の発禁処分 にされてしまいました。 31代米国大統領のフーバーが、ルーズベルトを、日本を無理矢理戦争に 引きづり込んだ狂気の男、と評した書見を残しています。 彼は、ルーズベルトは真珠湾を知っていた、とも書き残しています。 マッカーサーは戦後、あの戦争は日本の自衛戦争であったと 米国議会で証言しています。 ハルノートのハルは、真珠湾攻撃を耳にして躍り上がって 喜んだ、という側近の証言が残っています。 「これで戦争ができる」 また、パル判事は、あのような要求を突きつけられたら モナコのような小国でも銃を持って立ち上がっただろう と述べています。 ●では、日本が米国に屈してハルノートを受け入れれば、戦争を避けられた でしょうか。 私はそうは思いません。イラク戦争を見て下さい。 ありもしない大量破壊兵器を口実に戦争を始めたのは 米国です。 その後、英国BBCは、911以前から米国はイラク、 アフガン戦争を計画していたことを暴露しました。 米国は何か罠を仕掛けて、戦争に持って行ったと思います。 1898年 2/15 ハバナ湾で、米国戦艦メイン号が謎の爆発沈没しました。 これで米兵266名が死亡し、スペインの仕業だ、 ということになり、あの米西戦争が始まっています。 後になって米国政府は、事故だと発表していますが 陰謀ではないか、という説が強いです。 ベトナム戦争では有名なトンキン湾事件が発生しています。 1964年8月、北ベトナムのトンキン湾で北ベトナム軍の 哨戒艇がアメリカ海軍の駆逐艦に2発の魚雷を発射した とされる事件です。 これをきっかけにアメリカは本格的にベトナム戦争に介入しましたが、 その後、ニューヨークタイムズが、米国のやらせであることを暴露し 真実が明らかにされました。 湾岸戦争 1990年 では アメリカの駐イラク特命全権大使のエイプリル・グラスピーが イラクのクエート攻撃に対して 「介入するつもりはない」と発言しており これを信じたフセインがクエートを侵略しましたが、 米国軍等により撃退されています。 米国は約束の存在を否定していますが、当の大使は、それ以後、公式の場には 一切姿を見せなくなりました。 その他にも怪しいのはいくらでもあります。 以上が、日本が戦争を拒んでも、ダメだったろうと思われる理由です。

spongetak
質問者

お礼

大変勉強になりました。ありがとうございます。張作霖爆殺、柳条湖、のようなことは米国などもやっているんですね。対華21カ条要求のような強引な施策も、やってきていますね。ただ日本だと、どうでしょう、戦略の一環で、利用した自国人を、手のひらを返したように、あとで抹殺するといったこと、あるいは真偽はわかりませんが、米西戦争の例のように大量の自国民の犠牲を見込んだ、自国(軍産複合体?)の利益のための陰謀、といったことは、できないように感じます。(彼らにしてみれば、甘ちゃんということになるかもしれません)

その他の回答 (5)

回答No.6

楽天家なのが東条英機なのか東條由布子なのか、ちょっと分かりませんが、東條由布子という人は『もう一度戦争になったら、我が家がまた栄える』と思ってるような人なので、この人が楽天思考なんではないでしょうか?

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11074/34516)
回答No.5

将来に対する楽観性というのは、なにも日本人に限った話ではないと思います。イラク戦争だって、あんな泥沼に巻き込まれるとはバカなほうのブッシュ大統領も超絶イケイケのライス国務長官も思わなかったでしょう。元軍人だったパウエルさんは「泥沼になるで」と警告していましたけどね。 また、2010年からいわゆる「アラブの春」と呼ばれる民主革命運動が北アフリカなどの中東諸国で起きました。あの辺の国々は独裁的な指導者が長期政権を持っているところが多かったので、「これで中東諸国も民主的な国になる」と世界的に歓迎ムードでした。でもね、私は当時から「ヘタするとよく分からんテロリストが横行して昔のソマリアみたいに収拾がつかなくなるよ」とここで書いていたのです。内心ドヤァと思っているのですけど。今にして思うと「春でもなんでもないじゃないか。ただ革命が起きた国で混乱が起きたり内戦が起きて治安が悪くなっただけじゃないか」ってなりますよね。エジプトなんかは、アラブの春が起きる前は世界中から観光客が集まる世界トップクラスの観光立国だったのです。私の家族も行ったのですが、ナイル川を遡る観光船というのがあって、それで遊覧しながらカイロからアブシンベル神殿まで観光旅行を堪能できるんです。それに世界中から人々が集まり、その観光客相手のエジプト人雇用と収入があったわけです。今はそれが全滅し、揚句に博物館が襲われて略奪されてしまいました。 「きっと勝つる」とか「どこかでなんとかなるだろう」って思えるから、戦争を始められるんですよ。「泥沼になったらどうしよう」なんて思ったら戦争なんて始められません。 今、ロシア軍機がトルコ軍に撃墜されたことで国際的に緊張感が高まっています。先日テレビで有識者が「戦争になっても両国にはデメリットのほうが多いことはお互いの指導者も分かっているから、冷静になれば話し合いで解決できる」といってたんですけど、「それができるんだったら世の中戦争なんてなくなっているんだけどなァ」って私は思ったのです。 第一次大戦も、「三週間で終わる」と思って始めたのがあれほどの大戦争になったのです。そういうものなのです、戦争というのは。

spongetak
質問者

お礼

どうもありがとうございます。たいへん勉強になります。 一応、ここでの質問のポイントは、「負けたとしても、国は滅びはしないだろうから、いいんじゃないか」という楽天性です。何らかの意味での国家的な「精神(Guist)」は、植民地化されようが、国体が崩壊しようが、不死身なのかもしれませんね。自分が死ぬとは思っていない、ということなのかもしれません。

回答No.4

第二次世界大戦の主目的は、ABCD包囲網による石油 禁輸措置に対抗して、南方の石油資源を確保するためです。 もう1つは、そのABCD包囲網を解く条件として、 ハルノートに示された中国大陸からの撤退(満州国の 放棄を含む)が国政として不可能である以上、米国との 開戦は避けがたいという追い詰められた状況であった ためです。 それは、単に「仕方なかった」という話ではなく、 リットン調査団の指摘を受けて、満州国の自治を強化 したり、武力によらず裏で東南アジア諸国の独立を助け、 交易により石油資源を確保するなどの方法を、上記の ように追い詰められた状況になる前に画策すべきだった のです(軍部が権力を持ってしまっては、もう単細胞な 思考しかできなくなるが)。

  • catpow
  • ベストアンサー率24% (620/2527)
回答No.3

戦後、日本を占領したGHQは、日本が先の大戦を「大東亜戦争」と称するのを禁止し、「太平洋戦争」と呼び名を変えさせました。 また、旧日本軍の戦いにおいて、すばらしかった点をすべて報道禁止しました。それは、ラジオ・新聞・雑誌のみならず、演劇や一般人どうしがやりとりする手紙や電話にまでも及んだ広範囲なものでした。 大東亜戦争前や戦中において、日本政府も新聞や雑誌に対して検閲をやっていましたけど、それは、文字を黒塗りにするとか、○○に置き換えて、「ここは検閲して削除した」ということが読者に分かるものでした。 でも、GHQの検閲は、黒塗りや○○で潰すのを許さず、すべて書き直しをさせ、検閲の存在すら日本人に分からないように要求しました。 朝日新聞がGHQ批判や原爆についての記事を載せたとき、GHQは、「発禁処分」という厳しい処分を下し、それ以降は、朝日新聞など新聞各社は「自主検閲」をするようになって現在に至っています。 日本が(太平洋戦争ではなく)大東亜戦争にふみきったのは、大きくみて2点あります。 1)欧米がアジア・アフリカ・南米を植民地にして、人種差別・圧政をやっているのに対し義憤にかられて、彼らを解放し、独立国家にさせるための「聖戦」として戦った。 2)経済不況に苦しむ米国が、日本やドイツとの開戦を開いて、経済復興をするため、ABCD包囲網を作り、日本を経済封鎖したため、生き残るためにやむ終えず戦争を始めた。 ちなみに、日本は開戦してまもない1941年12月、「大東亜会議」を東条英機首相が主導して開催し、「大東亜共同宣言」が採択されました。 この時の参加国は、中華民国(現在の台湾)、満州国、フィリピン、ビルマ、タイ、インドでした。 この会議で日本の重光外相は、次のように述べました。 「日本の戦争目的は、東方の解放であり、アジアの復興である。この他に日本は何等野心をもたない。これが、日本が大東亜戦争という戦争に突入して行った戦争目的であり、これさえ実現すれば、日本は何時でも戦争終結の用意がある。」 実際に日本が破竹の勢いで、欧米の植民地支配国を蹴散らした後、支配したアジア地域において、朝鮮半島や台湾と同様に、インフラを整備し、学校や病院を建設して、現地の人々を教育し、奴隷として生きるしかないと思っていた植民地国となっていた人々に、自主・独立精神を持たせたのです。 当然ながら、アジアの人々は「植民地の支配者が欧米から日本に変っただけで、圧政は同じように続く」と思った人達もいましたが、日本軍は本気で彼らを独立させようと頑張ったのです。 その証拠に、インドネシアのPETA(祖国防衛義勇隊」を創設させたのは、日本軍ですし、日本が敗戦になる前の1944年9月、インドネシアの「近い将来の独立」を約束する声明を発表しています。 インドネシアが独立宣言を行った1945年8月は、すでに日本は戦いに敗れていました。 その独立宣言に記載された日付は、「05年8月17日」です。この05年というのは、西暦ではなく、皇紀2605年なんです。 西暦でなく、日本の皇紀を使っているところに、インドネシアの人々がいかに日本軍に対して感謝の気持ちをもっているかが分かると思います。 ちなみに、インドネシアが独立宣言をした後、元の植民地国であるオランダが戻ってきたわけですが、日本軍2千名は、すでに終戦になって日本に帰ってもいいわけですが、現地に残って、PETAと共にオランダ軍と戦い、祖国日本の地を踏むことなく戦いで亡くなっていた方もいました。 フィリピン、マレーシア、シンガポール、ビルマ、インドに関しても、日本は、同様なスタンスでした。 なお、白骨街道を生み出したとして悪名名高い「インパール作戦」ですが、あの作戦は、インド独立を支援するという目的で始められたものでした。 作戦自体はいい加減で稚拙で、楽観主義なものでしたが、その作戦目的自体は、大東亜戦争の目的に沿ったものだといえます。 ということで、大東亜戦争に踏み切った日本は、力の差は、10対1くらいある米国と戦いましたが、それは、アジア解放、人種差別撤廃、という崇高な目的があり、聖戦というものでもあったのです。 なお、「力の差」という点では、日清戦争・日露戦争でも、同じような国際評価を日本はされていました。 「絶対に日本は負ける!」と思われていた戦いに2度も勝利した日本軍でしたので、「神の国、日本は米国にも勝てる!」という心情を持っていたのでしょうね。

spongetak
質問者

お礼

どうもありがとうございます。いろいろと勉強になりました。「太平洋戦争」は、(半藤さんによると)海軍が使い始めたと思いますが、海軍の「太平洋戦争」と、GHQが、大東亜戦争から変えさせた「太平洋戦争」は、意味が大きく違いますね。 まだ冷静に余裕があった「太平洋戦争」(一部限定的な使用だったと思いますが)→自立のためにやむなく始めた戦争が、泥沼化し、内外への正当化PRを必死でしなければならなくなって、ある程度それ自体が目的化もした「大東亜戦争」(その思想自体は開戦前から実際あったと思いますが) →戦後の支配者がオセロのように一気に白を黒に塗り替えるために「大東亜戦争」表現をやめさせ、採用した「太平洋戦争」。 力の差ということでは、どうなのでしょう? 日清、日露では、まだずっと可能性が高かったと思います。

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (816/3045)
回答No.1

戦争に負けても立ち直るってのはいささか楽天的な表現ですが、むしろあの時点で戦争に踏み切らなかったら日本は高い確率で消滅しますよね?アメリカからの原油禁輸、実質武装解除をつきつけられていたわけで、当時の帝国主義時代の考えとして武装解除に応じたら次は併合・国家解体ですよね?というかむしろ武装解除に応じた国などかつて無く、武装解除に至る前に併合・国家消滅がおきてますよね?朝鮮にしろ清にしろ武装解除などは行われていませんが、その段階になるまえに国家はなくなっています。戦わずに米国の言いなりになり国家がなくなっていくことと比べれば敗戦くらいなんてことはないって考えはあったと思います。私は開戦前夜の日本のおかれた状況に対する解釈を現代日本人こそいささか楽天的に見すぎていると思っています。 私は東条英機の本を読んだことはありませんし、東条英機などただの大戦犯としか思っていませんが、同時の日本にほかに選択肢があったとは思えません。

spongetak
質問者

お礼

どうもありがとうございます。清や朝鮮の例など、十分に認識しておくべき視点ですね。南部仏印進駐、あるいは北部仏印進駐、などの段階で、戦争を避けることについてはもう限界だと思います。 日中戦争を避けるか、途中で切り上げるか、ドイツとの同盟を避けるか、ひとつひとつが、不可避的要素が重なっていると言われていますが、ひとつひとつが、もう少し、いやもう大きくひとまわり、一般国民、指導者層に、理性が多ければ、避けることもできたと思います。 hekiyu さんから、その戦争の不可避性について、いろいろ指摘していただいていますけれども、私自身は、米国の姿勢も、開戦へと至るその状況の進行の中では、戦争一本でまとまっていたわけではないと認識しています。最終的に、アメリカの姿勢がその方向でまとまってしまった段階では、どうしようもないと思いますが。