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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:法螺吹きの効用は?)

法螺吹きの効用は?

このQ&Aのポイント
  • 人は自然本性を持ち、全ての悩みを背負い得る存在として生まれてくる。
  • 他人の悩みも自分の悩みとして引き受け、過去や現在の人々の悩みを内面に反映させる。
  • 悩みは残留放射能のようであり、癒されることもある。

質問者が選んだベストアンサー

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  • Tefu_Tefu
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回答No.2

お礼ありがとうございます。 >マグダラのマリアであろうと誰であろうと 勝手にふるまってもらっては 困ります。 マグダラノマリアがイエスの霊を観たことで、誰もが共同主観を持てたのですから、イエスの復活は立証されています。 共同体に於いて、霊による共同主観を利用して、誰もが自らの良心で他人のために尽くすことで、自分もイエスと共に幸せになると説くことは効果があります。 霊を観た人がいなければ、人は自らの自然本性には気づくことなく死んでいくのかもしれませんよ。 >もうアース役のこちらは何もせずに・しかもその人はたとえば おそらく踊り出すであろうと思われます。 より幸せに成りたいと云う願望が、自分より不幸な人を求めます。そして、助けたつもりになり自己満足するのです。 >私は自由意志であり続けます。我がままだから。(^-^) 私は人を助けるとは、考えさせることだと思います。生きる糧を得るために。自分のためにも。

bragelonne
質問者

お礼

 てふ_てふさん お早うございます。  ご回答をありがとうございます。  そうですね。  《信じる》というのは 無根拠なんですよ。  《無条件に心に受け容れること》です。  ですから 書かれたもの・つまりは人間の考えたこと これを《信じる》ということはありません。  それは 《考える》べきものです。  物語は したがって《考えること》としての思想内容を述べつつ その背後に・その根底に 信じるべきものを指し示すというかたちになっています。  それにイエスの指し示した神は 普遍神です。オシへにはまったく関係しません。  いやしくも神というならば そういうものでしょう。誰にとっても神であるはずです。  旧約の時代には まだユダヤ人という民族〔だけ〕のための神でした。  これを イエスが外へも開きました。  あるいは 前回触れました旧約のエレミヤ書31:31以降に伝えられたように そのユダヤの神が みづからを外へと開いてあたらしく普遍神の場へおのれを揚げて ふるい自身を棄てました。  神が 自分で自分を揚棄しました。イエスが これを――十字架上に磔のかたちで去って行ったことによって――成就したと受け留められています。  マグダラのマリアも弟子たちもあるいは そもそもイエスの馬小屋における誕生のときには 近くの羊飼いの少年たちがその場に招かれてもいるように しかるべき人たちみんなにおいて イエスの指し示した神のことが 伝えられました。それでじゅうぶんです。  まぼろしは まぼろしのままにしておいたほうが 信憑性があるのでは?  ★ 共同体に於いて、霊による共同主観を利用して、誰もが自らの良心で他人のために尽くすことで、自分もイエスと共に幸せになると説くことは効果があります。  ☆ オキテ(律法)を守ることによってすくわれるというのは ふるい神を戴くオシへです。  義人は 信仰によって生きるのです。(ハバクク書2章)。人間の良心やその考えやあるいは信念によって――生きても自由ですが―― 神の友となるのではないわけです。  それに オシへを説くことは これは シュウキョウです。勝手にやっていればと言ってやります。  《あたらしい契約によれば もう神を知れと言って人びとが教えることも要らなくなる》と何度も触れるエレミヤ書に書いてあります。  シュウキョウは 信仰という蝉の抜け殻です。  もっと言うならば 支配欲に支配された人間の群れたがり症候群の為せるわざです。過去の遺物です。  《他人のために尽くす》なんて言わないで みながそれぞれ自分自身のために 自己経営するようになれば そこに連帯が生まれます。結びつき合う土台が しっかりしているからです。  自分がしあわせになることから始めればよいはずです。  ★ 霊を観た人がいなければ、人は自らの自然本性には気づくことなく死んでいくのかもしれませんよ。  ☆ その自然本性には 神の霊がやどっていますから だいじょうぶです。元気にしてくれ 助けてもくれます。何しろ普遍神のチカラなのですから。  モーセについてかれは 顔と顔を合わせて神を見て話をしたと書いてあります。(出エジプト記)。  それによって分かることは さらになお《霊を見る》余地がわれわれ人間にはあるということです。たとえ見なくても 霊ははたらいてくれています。  ★ 私は人を助けるとは、考えさせることだと思います。生きる糧を得るために。自分のためにも。  ☆ そうでしょうね。つまり そういった人間の次元のおこないをとおして 人は霊に打たれるようになる。のでしょう。  みんな我がままですよね。

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その他の回答 (1)

  • Tefu_Tefu
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回答No.1

こんばんは bragelonneさん マグダラノマリアは、磔にされたイエスのまぼろしを3日後に観た、そして、神を信じ隣人を愛したイエスの意志を受け継ぐことを決意した。 彼女は、イエスのまぼろし=霊をイエスを信じる人々と共有すること、すなわち、人は誰でも良心から共同主観として霊を観る、これにより、イエスの復活を実証した。 イエスの使徒もキリスト教の布教活動の課程で、同じような非業な死を遂げたがイエスの霊は誰にでも観えたのです。 そして、世界中の人々がキリスト教を信じるならば、まぼろしは、イエスとなり再降臨する。 アース役のマグダラノマリアは、世界中の人々を思うように動かせる。 人間の良心を震わせる事ができる者は、共同体の要となる。 宗教なのでしょう。 >そうなったときには いまの昔をなつかしく感じることでしょう。 いえいえ、考えるのが人間です。 私は自由意志であり続けます。我がままだから。(^-^)

bragelonne
質問者

お礼

 やっと第一回答が来ました。  てふ_てふさんかぁ。久しぶりですよねぇ。こんばんは。  まづは ご回答をありがとうございます。    遠慮なく切って切って切りまくります。よ。  ★ そして、神を信じ隣人を愛したイエスの意志を受け継ぐことを決意した。  ☆ ダメ。《イエスの意志を受け継いで イエスよりももっと大きなわざをも成すに到る》ことがあり得ますが・あるのですが それもこれも イエスがキリストとして父なる神といっしょに聖霊なる神を 人びとのもとへ送ってくれるからです。これを承けて そのわざ・このわざをわれわれ人間が成して行きます。  つまり 人間が《決意した》からと言って どうなる・こうなるといった問題ではないわけです。  むろん 人間の自由意志によって 互いに助け合いをおこなうことは出来ます。人間の知性が考えた範囲でのおこないです。自由に出来ます。ですが 聖霊なる神を受けてそのチカラに裏打ちされて わざを成すことは 人間が人間のチカラだけで成せるものではない。こう考えますので マグダラのマリアであろうと誰であろうと 勝手にふるまってもらっては 困ります。  ★ すなわち、人は誰でも良心から共同主観として霊を観る、これにより、イエスの復活を実証した。  ☆ 良心や知性からは その人間の能力に応じたチカラと考えしか出て来ません。それ相応の仕事が出来るだけです。  《復活》は 物語には書かれていますが これほどむつかしい問題もありません。  無理です。将来成されるであろう つまりそれをわれわれも受け取るであろうと思っていまは 臨むことになると思います。  この将来性が 共同主観になっているとは思います。  霊は 見る見ないよりも すでにわが身と心とにやどっていて 実際にすでにはたらいてくれている。つまりは 汲めども尽きない泉の水のごとく元気が湧き出て来るという《イエスの友のひとりとしての生活》。  ★ キリスト教  ☆ というのは・つまりオシへは モーセの律法とともに イエスの登場によって 要らなくなりました。エレミヤ書31:31以降を へブル書の8章が引いていますが そこに書かれています。  ★ イエスの霊は誰にでも観えたのです。  ☆ そうだとしても これも 物語であり《まぼろし》であると言って説明したほうが よいでしょう。  《異言》よりは《預言(=解釈)》のほうが 人びとに語っているからです。(⇒パウロ)。  ★ そして、世界中の人々がキリスト教を信じるならば  ☆ まづは 三分の一の人びとでよろしい。現実的な話をしたほうがよいと思う。  ★ まぼろしは、イエスとなり再降臨する。  ☆ わたしは《再臨》の話は からっきしピンと来ていません。つまり 分からないという状態です。  ★ アース役のマグダラノマリアは、世界中の人々を思うように動かせる。  ☆ そうぢゃないんですよ てふ_てふさん。  アース役になると まづガミガミ役やそのガミガミ・デンパをうまくアースできずに自分の中に受け取ってくすぶっている人たちが その心のモヤモヤが消えて行くようにうまく受け留めてやります。  そのあとは したがって心が多少はすがすがしくなったところで それぞれが自由に考え自由に行動するようになる。  そのとき なおもガミガミ役となるクセが直らなかったりまたそのガミガミ・デンパを相変わらず躱(かわ)せずに受けてしまったりするときに もう一度 あのアース役がいたぢゃないかと思い出させるように 余韻をもすでに与えている。  そうしてたとえばガミガミ役であった人が もう《足を洗おうとした》とき そのときには もうアース役のこちらは何もせずに・しかもその人はたとえば おそらく踊り出すであろうと思われます。  つまりガミガミ役を辞めようとしたとき かんたんにやめられない。それまでのクセが身に着いていて それとの葛藤が出て来る。その結果が 踊り出すという事態になるかと考えられます。  すなわち   ★ 人々を思うように動かせる  ☆ というのは 決してあやつったりすることではないわけです。本人たちがみづから その自由意志で振る舞うようになる。あたかも脱ガミガミ踊りを踊り出すように《動かした》かに見える場合もあるかも知れませんが それは違います。すべては 自分自身で踊り出すのだと思います。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  人間の良心を震わせる事ができる者は、共同体の要となる。  宗教なのでしょう。   >そうなったときには いまの昔をなつかしく感じることでしょう。  いえいえ、考えるのが人間です。  私は自由意志であり続けます。我がままだから。(^-^)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この締めくくりの部分は あえて保留しておきましょうか。どうでしょう。

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