※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:法螺吹きの効用は?)
法螺吹きの効用は?
このQ&Aのポイント
人は自然本性を持ち、全ての悩みを背負い得る存在として生まれてくる。
他人の悩みも自分の悩みとして引き受け、過去や現在の人々の悩みを内面に反映させる。
悩みは残留放射能のようであり、癒されることもある。
1. ひとは 人の自然本性を見よ。
ひとは 《全ての悩みからの解放が成った存在》として しかも同時に 《全ての悩みを背負い得る存在》として 生まれて来るのだ。
2. あなたの悩みは すべて 過去の人びとのや現在における周囲の人びとの悩みを――なぜなら そのような人びとは うそをつくという精神のゆがみによって 悩みをたくわえるようになった そのような他人の悩みを―― 内面に引き受けて 成り立っているものです。
3. 自分もウソをついたなら 自分の悩みをも負っています。
4. 世界中のあらゆる悩みを引き受けて生きた人たちも いたのではないでしょうか。
5. この悩みは 残留放射能のようであり すぐ直ちには 消えません。消えませんが 時として 何ものかによって 包まれ覆われ癒されてくるようにもなります。
6. いわば人びとの悩みを そのような人たちは 《アース(接地)役》となってのように 引き受けたのではないか。すでに癒されていたからでしょう。
7. ひどい言い方をすれば ごみ処理場です。色をつけて言っても ごみ清浄化再活性化工場なので この世の屑だとも言われています。
8. この現状 この動態としての過程 これで すでに 完全な解放は成ります。
9. じつにすでにすべての解放と自由とは成っています。心配は要りません。
10. たしかになお悩み癖が消えないかのごとく思い思いの心配をすることはあります。たとえば シミ・ソバカス・ホクロなどの母斑が残っているのではないかというたぐいです。
11. ですが やがて この悩みにかんしても しかるべきものはしかるべく消えて行くでしょう。
12. 社会の三分の一の人たちが 連帯して ゴミ処理工場を引き受ける情況がやって来たときです。つぎの三分の一がそれに 加わらないけれど 共感し のこりの三分の一が ゴミの――人間の恨みや蔑みといった心のゴミの――排泄専門の・一般におえらい方がたです。三つ目のは アース役に対するに ガミガミ役です。
13. そうなったときには いまの昔をなつかしく感じることでしょう。
――という法螺を吹きたくなりますね。どうでしょう?
お礼
てふ_てふさん お早うございます。 ご回答をありがとうございます。 そうですね。 《信じる》というのは 無根拠なんですよ。 《無条件に心に受け容れること》です。 ですから 書かれたもの・つまりは人間の考えたこと これを《信じる》ということはありません。 それは 《考える》べきものです。 物語は したがって《考えること》としての思想内容を述べつつ その背後に・その根底に 信じるべきものを指し示すというかたちになっています。 それにイエスの指し示した神は 普遍神です。オシへにはまったく関係しません。 いやしくも神というならば そういうものでしょう。誰にとっても神であるはずです。 旧約の時代には まだユダヤ人という民族〔だけ〕のための神でした。 これを イエスが外へも開きました。 あるいは 前回触れました旧約のエレミヤ書31:31以降に伝えられたように そのユダヤの神が みづからを外へと開いてあたらしく普遍神の場へおのれを揚げて ふるい自身を棄てました。 神が 自分で自分を揚棄しました。イエスが これを――十字架上に磔のかたちで去って行ったことによって――成就したと受け留められています。 マグダラのマリアも弟子たちもあるいは そもそもイエスの馬小屋における誕生のときには 近くの羊飼いの少年たちがその場に招かれてもいるように しかるべき人たちみんなにおいて イエスの指し示した神のことが 伝えられました。それでじゅうぶんです。 まぼろしは まぼろしのままにしておいたほうが 信憑性があるのでは? ★ 共同体に於いて、霊による共同主観を利用して、誰もが自らの良心で他人のために尽くすことで、自分もイエスと共に幸せになると説くことは効果があります。 ☆ オキテ(律法)を守ることによってすくわれるというのは ふるい神を戴くオシへです。 義人は 信仰によって生きるのです。(ハバクク書2章)。人間の良心やその考えやあるいは信念によって――生きても自由ですが―― 神の友となるのではないわけです。 それに オシへを説くことは これは シュウキョウです。勝手にやっていればと言ってやります。 《あたらしい契約によれば もう神を知れと言って人びとが教えることも要らなくなる》と何度も触れるエレミヤ書に書いてあります。 シュウキョウは 信仰という蝉の抜け殻です。 もっと言うならば 支配欲に支配された人間の群れたがり症候群の為せるわざです。過去の遺物です。 《他人のために尽くす》なんて言わないで みながそれぞれ自分自身のために 自己経営するようになれば そこに連帯が生まれます。結びつき合う土台が しっかりしているからです。 自分がしあわせになることから始めればよいはずです。 ★ 霊を観た人がいなければ、人は自らの自然本性には気づくことなく死んでいくのかもしれませんよ。 ☆ その自然本性には 神の霊がやどっていますから だいじょうぶです。元気にしてくれ 助けてもくれます。何しろ普遍神のチカラなのですから。 モーセについてかれは 顔と顔を合わせて神を見て話をしたと書いてあります。(出エジプト記)。 それによって分かることは さらになお《霊を見る》余地がわれわれ人間にはあるということです。たとえ見なくても 霊ははたらいてくれています。 ★ 私は人を助けるとは、考えさせることだと思います。生きる糧を得るために。自分のためにも。 ☆ そうでしょうね。つまり そういった人間の次元のおこないをとおして 人は霊に打たれるようになる。のでしょう。 みんな我がままですよね。