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キリスト教信者がどう乗り越えてるのか不思議な事
キリスト教信者は、キリスト教以外の信者は地獄と、ヨシュアがアイの町のカナン人の女子供も含め虐殺したことにはどう心に折り合いをつけているのですか?
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キリスト教徒ってのは、異教徒に関しては虐殺しても良心の呵責は起きないようです。 原子爆弾を投下して異教徒の非戦闘員を大量殺人することで、キリスト教徒の米兵の命が多少救えるならば、それが正しい選択と考えるのが平均的キリスト教徒でしょうね。 だから、広島の原爆投下は問題ないのですが、キリスト教徒の一部が犠牲になった長崎の原爆投下はタブーとなっていますよ。 アメリカの歴史では二発目の原爆が投下された長崎がキリスト教徒の町である事実は教えられません。まして浦上天主堂が爆心地の中心に成ったことなど、キリスト教徒は殆ど知らされていないです。
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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No.1をおぎないます。 ▲ (出エジプト記20:5) ~~~~~~~~~~ わたしは ねたむ神である * 《熱情の神》という訳になってもいますが。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この表現を表現の問題として捉えるなら 次のように考えられるかと思います。 たとえば 雪の降る夜はたのしいペチカとか 狭いながらもたのしい我が家とか言います。 これらは ペチカや我が家がたのしいのでは必ずしもなくて そのペチカを囲む人びとや我が家の家族一人ひとりが たのしいわけです。 だとすれば ねたむ神というとき 神がねたむのでは必ずしもなく 神のもとにある人びとが ねたみを持ちこれを思うようにはコントロールできていないということを表現している。のかも分かりません。 民族の内外にわたって そのような社会的にして心的な情況があった。 じっさい 見てみるととなりの国は肥沃な土地だ 繁栄しているぢゃないか ひとつ奪ってやろうという妬み心を出すことは あり得ました。 あの島は 大昔からもともとわが国の領土だ――というよりも わが国というのは国境がない まわりはみなわが華々しき国情のちからの及ぶところでありそのめぐみに浴するところである―― 奪え! というわけで心理戦や移住作戦などをも含めて戦争が起き得ます。 これに対して 奪われそうになる国は 主戦論と非戦論とが絶えずたたかわされるものと考えます。 むかしは むかしでした。
- kia1and2
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過去においては、キリスト経信者だけで人間で、それ以外は人間の格好をした動物であると認識していた狂信的信者も多くいた時代もあった、です。これは、何もキリスト経だけでなく、すべての宗教でも、起ったことです。
お礼
仏教にもあったの? でもそれを今でも引きずってますよね
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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よくもわるくもと言いますか わるいことに 一般にどこでも神が民族の神であり この場合ユダヤ民族だけの神であるということが 前提となっていた。という事情だと考えます。 のちにこの民族の内向きという閉鎖性を開きましたが そういう極めて独り善がりの神である一面を持ちそこに閉じ籠っていたと考えられます。 つまりは そう述べたあと言い訳を添えるとすれば 一般にそのように民族を単位としたいわゆる国際関係として世界が動いていたし そのような民族どうしの対立関係の中を生き抜くためという事情が横たわっていたといったことではないでしょうか。 そのような《聖絶》の仕返しをナチスによってやられたのかどうなのか。
お礼
きっとそういうことですよね