- 締切済み
キリスト教の信徒さんに質問です
・強姦されて刺殺された少女は無宗教で反キリスト教 (幼少期にキリスト教の牧師から性的暴行を受けていた) 少女は、動物を愛し近所の子供達に絵本を読み聞かすような娘だった 葬儀は沢山の子供達、涙を流す近隣の住民達で溢れた。 ・強姦して刺殺した男は無宗教 男は、動物を虐待し複数の少女に性的暴行を行っていたような男だった (少女達は今尚、重度のPTSDで苦しんでいる) しかしそんな男は、牢獄で聖書に触れ、熱心なキリスト教の信徒となった。 さて、どちらが天国で どちらが地獄に行くんですかねぇ? 教えてください、キリスト教の信徒さん キリスト教が生まれる以前に生きていた多くの古代人は 信仰していなかったということで全員地獄行きになるのかな? 流石にそんな・・そんなことはないよね? 信仰することが出来得る状態にない人 たとえば脳に障害がある人とか精神に異常をきたしてしまった人とか そういった方も問答無用で地獄落ち? 先天的サイコパスや先天的同性愛者も 生まれながらにして反キリスト教的立場をとらざるえない人達だけど こういった人も地獄落ちなのかな? 聖書で禁じていることを症状として犯してしまう人達が 生まれてきてる現状があるわけですよね? おかしいと思いませんか? 神義論では納得いかないわけです。
- みんなの回答 (7)
- 専門家の回答
みんなの回答
その人が天国に行く資格があるかどうかということは神様だけがご存じである、というのは私のオリジナルの考え方ではありません。どの本か忘れましたが、アウグスティヌスもそういう意味のことを書いているはずです。これをどの程度強調するかは宗派によって違います。ルーテル派などのプロテスタント系の諸派では、これを強く強調する傾向があるようです。カトリックでは、それだけということはないだろう、ということで、信者を正しく導く教会の役割を強調する傾向があるようです。マイナーな宗派やキリスト教系新興宗教でどう考えているのかは知りません。 神様のお心は測りようがありませんが、少なくとも形だけ信者になったからと言って天国に行く資格がないことは、私は明らかだと思っています。ルカによる福音書に、形だけの信仰を実践する者と、極悪人とされているが神様のお考えになる何かを持っている者を対比させたたとえ話が出てきます。 もちろん、信者であれば天国に行ける、といういいかたがされる場合もあるかもしれません。しかし、私は、それは人が死んで「成仏する」と言うのと同じ意味だと思います。つまり、そういう風に考えることが、死者に対する思いやりでもあり、また、残されたもののなぐさめともなるわけです。仏ト成ル、というのは本来はそんなに簡単なことではありません。 また私のオリジナルのたわごとを言っているといわれてしまいそうですが、私は、神様のご関心は生きている人間にあると考えています。一言でいえば、「よく生きる」ための道を示しているのだと思っています。 よりよく生きれば、それは"たぶん"神様の意志にもかない、死後も安らかでいられるだろう、また、死んだ後も何もない闇の中に一人で放り出されるのではなく、神様とともにいることができるだろう、というのが一般的な生死観でしょう。
どこまで面倒くさいんですかね~^^; 人が何を言っているのかを確認無しで理解して自己確信に至る能力が高いのは解りましたので、あと少し精度が増したらまたお話しましょう。 では^^
お礼
面倒くさい? 私は強制していませんよ? そう思うなら回答しなくていいのでは? そもそもまともな回答を得られていませんがね・・・ ただ「面倒だ」ではね・・ あなたがした質問に対して私の答えを提示したまでです それに対する的確な反論を持ち合わせていないのは わかりますがね 「人が何を言っているのかを確認無しで理解して 自己確信に至っている」 それはあなたのことではないでしょうか 精度が増したらまたお話しましょう? 話など無用です。 得るものが何も無い。面倒くさいのは私の方ですよ? 何のために回答したのか・・・それこそ時間の無駄です こう言っては失礼ですが 私はもう少しまともな信者の方の答えを聞きたいわけですよ 他の信者の方も同じと思われるのは苦痛かと思いますね あの文面では・・・ >教会の人たちと「合うな~」と思う事ができず でしょうね・・・
こんにちは。 実は私はあまり教会の人たちと「合うな~」と思う事ができず、教会通いのモチベーションが高くなく、事情があってもう2年半ほど教会に行っていません。あと半年したらまた事情が解けるのでそしたら通おうとは思っていますが。 だから現在は知りませんが、私も教会に通っていた時には多くの信徒さんたちに対して「無駄に狭量だな~(先にも言った様に布教という視点では無駄ではありませんが、純粋な教義として)」的な思想を持っていました。 さて、あなたご自身の近しい人がその様な目にあったのでしょうか?もしそうでないなら、あなたは「踊らされている」可能性がありますから、先ずそこから冷静になる様努めなければなりません。主語は恐らくあなたは信じないであろう「悪魔/それに準ずるもの」です。 「臨死体験が脳の幻覚」と言い、それを裏付ける論拠をいくつ持ってこられても「そうですか」としか言えません。 それらがどれだけ”証明”されようが自分のした体験を消す理由には全くならないからです。さらに私は別にあなたに弁明するつもりもありませんので、あなたが信じようが信じまいが私には関係無いという思いです。 私も以前は”ごく一般的な無宗教”だったので、何を言われようが聞く耳持たないほど宗教や神仏の類いを否定する心理状態は解ります。 だからこそ思うのですが、信じる時が来たらその時また会いましょう。という感じです。当時の私の頑迷さと同じだけの頑迷さをみなさんお持ちなので、どれだけ頑迷かを知っている私は正直あえてキリスト教を伝え広めようとするモチベーションに薄いのです。クリスチャンとしては情けない事ではありますが。。。^^; マタイによる福音書18章 21 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」 22 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。 23 そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。 24 決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。 25 しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。 26 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。 27 その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。 28 ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。 29 仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。 30 しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。 31 仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。 32 そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。 33 わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』 34 そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。 35 あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」 あなたはここから何かを学び取りますか?それとも今全く自分の身に関係のない強姦殺人などの妄想に憤り、意味不明な拒否を続けますか?自分の身に起きたらその時に考えれば/対処すれば良い事です。まだ起きておらずこの先おそらく一生起きないであろう事柄に憤り、自分の目の前の知恵に目をつぶるのは愚かだと思います。 この瞬間世界では実際に起きているんだと叫びたいかもしれません。でもそれがあなたに何の関係がありますか?あなたはそれに憤るよりも先にそういう事件が起こらない様な世界を造る知恵と忍耐と行動を身につけるべきだと思います。 そうでなければ戦争反対運動をしているがその心は戦争をしている人たちと全く同じである人たちと同じ事をする事になるでしょう。(※反戦運動を否定している訳ではありません。例えです。) 今この瞬間自分の未体験な事柄に対してきれいごとを言っているだけかもしれません。それが悪い事でしょうか?実際に自分の身に起きてもいない世界のどこかで起きている事件に憤り(ここまでは良いです)、その矛先を明後日に向ける行為(ここが意味不明です)の方が私からみれば無駄が多い。 犯人に憤るのは解る。でもその憤りの矛先を犯人にではなく、犯人を作り出す様な原因にではなく、自分の信じてもいない神様に、或はさらに関係無いクリスチャンに向けている。私からしてみればキリスト教はとんだとばっちりだなと思います。この矛先がなぜかキリスト教に向いた理由にもやや興味があります。 それよりも、恋人があなたを愛していると言った時にあなたはそれを信じると思いますが、何の証拠もありません。ただの言葉です。 なぜこれを信じてクリスチャンの神体験談は信じないのでしょう?こちらの方に興味があります。教えて頂けますか? また、私は別に進化論を否定している立場じゃないのですが、例としてあげると、進化論を初めから最後まできちんと説明できますか?たぶんできませんよね?どうしてその自分がろくに知りもしない事柄の内Aは信じてBは信じないのでしょう?おなじ「ろくに知りもしない事柄」なのに信じる信じないの違いがでるのはどうしてでしょう? ツッコミどころはこの辺りから進めて行きましょうか? >疑問符は常に持つべきです 改めて、前述した様に、無宗教の人たちがどれだけ頑迷かは内側から外側から実体験によって知っています。ですから正直面倒だな~と思う部分強いです。もう勝手に否定でも何でもしてれば良いじゃんという感弱くないです。 でも悲しいかなそれでも興味のある話は神に関する事真理に関する事信仰に関する事なのです。こんな形でもね。だから質問を眺めていてついこういう質問に捕まる^^; それほどど暇というわけでも無いんですがね。。。 ま、思いがけず棚からぼたもちが出てくるかもしれませんし。 あなたが今信じている物に対して改めて観察し直して、「何故自分がそれを信じているのかを改めて知る」方が案外あなたの求めている答えに近いかもしれませんよ。道が少々険しいかもしれませんが。。。
お礼
>「踊らされている」 誰にですか? 意味不明としか言いようがないですね 質問に対する答えが聞きたいだけです。 そういった質問をしている時点で 悪魔に取り込まれているとでも? そういった考えこそ「妄想」でしかありません >近しい人 質問の問いは創作ですが 近しい人でなくてはならないのですか? そこが引っかかりますね・・ 近い遠いは関係ないことでしょう? 隣人のみ愛せと? >今全く自分の身に関係のない強姦殺人などの妄想に憤り >意味不明な拒否を続けますか? >自分の身に関係のない 関係はないですがだからと言って 無関心ではいられませんね 関係ないからといって見過ごせるんですか?あなたは たしかにあなたの文章を読んでいると 他者のことより自分という感じは伺えはしますが・・・ それと私の質問の意味するところを 理解されていないようですね もしくはわかっていて話を逸らされたのか・・・ 私は質問に対する聖書に則った答えが聞きたいわけです >妄想 たしかに質問の例は私が創作したものです 意図してわかりやすいかたちで提示しました。 しかし現実で起こっていることと かけ離れていることを述べていますか? あなたは30年間にわたって児童に 性的虐待をしていた神父のドキュメンタリー映画 「フロム・イーブル」を見たことありますか? 神父は何の罪の意識もなく、淡々と当時の虐待を語っています。 キリスト教の神父から性的暴行を受けている、受けていた 児童というのは珍しい話でもなんでもないことでしょう? 犯罪者が牢獄で聖書に触れ 熱心なキリスト教の信徒なるなんていうのも 海外ではよく聞く話です、いや実に多い 宗教によって引き起こされてきた多くの戦争や争いの犠牲者を 考えるとこういった話は無数に転がっている 宗教を持たない人々、持つ人々の無残な死や 持つ者の蛮行と憎しみの連鎖 犠牲になる人の多くは子供達や抵抗できない力を持たない人々です。 質問の例はこういった事例を元にしたものです。 はっきり言って事実はもっと悲劇的なのです。 あなたが私の質問の答えを出さないように 目を逸らしているだけです。 >恋人があなたを愛していると言った時にあなたはそれを信じると >思いますが、何の証拠もありません。ただの言葉です。 >なぜこれを信じてクリスチャンの神体験談は信じないのでしょう? >こちらの方に興味があります。教えて頂けますか? まず実体として存在している恋人と クリスチャンの神体験談を同一には語れないでしょう? 「居る者の愛情」と「不確かな者の存在」 全く異なる性質を持っています 問1.居る者の愛情を信じるか? 問2.不確かな者の存在を信じるか? 問2はただのオカルトです 「誰かが廃墟で幽霊らしきものを見た 信じる?or信じない?」 これと同じことです。 そして問1で「あなたはそれを信じる」と断言して言ってますけど それはわかりませんよ? 仰るとおり「ただの言葉」だから もちろん信じたい、信じようとは思いますがね これらをあなたがなぜ同一視してしまうのか 私には理解しがたいですね・・・ >進化論を初めから最後まできちんと説明できますか? 説明できませんよ? 誰もね 多くの科学者が昆虫の進化の過程がわからないのに 私がわかろうはずがない だからと言って、聖書が真実だとする根拠はありますか? 宗教に根拠なんてないんですよ ただ「信じるか」「信じないか」だけでね 私は科学が答えを出すのを待つというスタンスです わかりやすいでしょう 実に公平明快だと思いませんか? まぁ生きてるうちにはわからないでしょうけどね だからといって神秘主義に浸るつもりは全くありません >あなたが今信じている物に対して改めて観察し直して >「何故自分がそれを信じているのかを改めて知る」 これはまずあなたがやるべきことだと思いますよ? ゾロアスター教やミトラ教の歴史を紐解いて 学んでいくとキリスト教がどういった経緯で生まれたのか より理解できると思います、これらの古代宗教は キリスト教の原形ですので そして人がなぜ宗教を欲するのか 自身が何を求めているのかが見えてくるんじゃないですか?
補足
>聞く耳を持たないほど 待たなかったら、質問なんてしてないですよ 関心があるから聞いているのです 関心が無い人がこんなことすると思います? にしても 近しい人でないなら「踊らされている」 「自分の身に関係のない強姦殺人などの妄想に憤り」 「自分の身に起きたらその時に考えれば/対処すれば良い事です」 これらの発言で言いますと 失礼ながらあなたこそ「悪魔/それに準ずるもの」のように思えます 強姦殺人は毎日どこかで起きています 妄想でもなんでもない 自分の身に関係ないからといって近い人でないからといって 無関心でいられて心痛めないなんてそんなことはできませんよ 少なくとも私はね 苦しんでいる人を見て 「自分の身に起きたらその時に考えれば/対処すれば良い事です」 と通り過ぎることができる人間にはなりたくないものです。
私もキリスト教の話をしてるんだけどね。 私が書きたかったことは、つまり、天国行き審査チェックリストみたいなものがあって、それで機械的に決定するというような性質のものではないでしょう、ということです。 何かをすれば、救済される、あるいは天国にいける、ということはない、というのはないですよ。 もちろん、人は死んで無になるというのなら、それでもぜんぜんかまわないわけです。 キリスト教がそれを教義として採用しなければならないということも無いでしょう?
お礼
>私もキリスト教の話をしてるんだけどね。 >天国行き審査チェックリストみたいなものがあって、それで機械的>に決定するというような性質のものではないでしょう、ということ>です。 キリスト教徒じゃないということですが 聖書をチラッとでも読んだことありますか? とてもキリスト教の話をしているようには思えないんですが・・・ 何度も言いますがキリスト教では答えを出してるんです だから信者さんに聞いているんです あなたはそれをどう思いますかと あなたの話してることは自身の神仏論です それを聞きたいわけじゃない だから「キリスト教の信徒さんに質問です」と題したわけです 趣旨をわかってもらえましたか? >キリスト教がそれを教義として採用しなければならないということ>も無いでしょう? 「無」というのを採用すれば良いなど一言も言ってないですよ あくまで個人的な死生観です。 大体採用するわけがないでしょう? 教理を根底から覆すわけだからありえないわけで・・・ 他の回答者に対するコメントで 死に対する恐怖と対峙する時 多くの人々とっては必要なのかもしれない というような事を書いております 天国や地獄という概念そのものを否定しているわけではないのです。
補足
私の質問は聖書を取るのか 自身の良心を取るのかという種の問いかけを含んでいます これは厳しい問いかけなので 答えるのは難しいでしょうね 恐らく自分の解釈を入れるはずです でもそれは目を背けているだけなのです
私はキリスト教徒じゃないですが、私の意見では、そんなことは神様が決めることであって、我々人間の知るところではありません。 そもそも、キリスト教が嫌いな人は、キリスト教の天国に頼まれたって行かんでしょう。 札付きの悪人を天国に迎えるかどうかも同じことで、我々にはわからないとか、客観的基準が無いように見えても、神様はきっと全部ご存知なんですよ。
お礼
これはキリスト教に対しての疑問符的質問です 「神様が決めることであって」と言われてますが その神様がキリスト教では決めているのです 答えを出しているのです それに対しての疑問符なのです 信じれば救われ 信じなければ・・・ あなたの信じる神様はどう審判を下すか わからないという意見ですね? そしてすべてを見通していると・・・ 一般的な日本人の宗教観という感じですかね 無宗教だが神だとか天国、地獄という概念を自然と受け入れている 私は神は人間が作ったものだと小学生の時から思っています それは今も変わりません。 質問の例だと 私は二人とも「無」だと思います。 もしくは単なる物質になる 被害者も加害者もどちらもね、残念ながら 要はキリスト教の信徒の方がどう回答するのかが聞きたいのです キリスト教に対する認識が一変するほどの 回答が欲しいものです
こんにちは。 一クリスチャンの意見であり、教会、或はキリスト教全体を代表する言葉ではない事は改めて念頭に置いてくださいね。 先ず、刺殺された女の子も刺殺した男性も両方天国に行く可能性があります。 可能性があるという言い方をするのは、私はそれを決める立場に無いからであり、私個人的には両方とも天国に行く/行ってほしいと思っています。 もちろん、他人事で軽く考えている訳ではなく、赦せない気持ちはよく解ります。でもそう思うべきであり、できるならそう思おうと思っているという意味も含んでいます。 臨死体験などで天国に行ってきたなどと言う人がいますが、私も実は似た様な経験を持っています。 その時に感じたのは、例え自分を徹底的に苦しめた上で殺した人であってもこの世界(多分天国)に入れないのはあまりにかわいそうだから誰でも良い、是非入ってほしいと心底願う様な心でした。 事実キリストはかなり苦しめられた上で殺されています。 この心の持ち方は聖書にも一致しています。 キリストが生まれる前の人々やキリストを知り得ない人が救われないとは思いません。 同性愛については私は無知なので意見は控えます。 また、聖書で禁じている事を症状として犯してしまう人という存在が解りません。 聖書で禁じている事はそれほど多くありませんから。これについては何か誤解されているのではないでしょうか。 さて、人は時間とは過去から未来へと流れて行くものと考えています。 ところが、天国と呼ばれる「永遠の世界」ではそうではないとよく言われます。過去と未来と現在が混在している様な、全く私たちが日頃当たり前に考えている時間の概念とは違う世界であると。私が見た世界もそうでした。時間だけでなく空間すらそうでした。西と東は同じ場所にあり、南と北も同じ、全体は一つとして存在しているのに個々がキチンとある。 もう言葉にするだけイカレていると思われる様な表現しかできない世界でした。 なぜこういう話をしたかと言うと、ある人が天国には時間が無いと言う、それは正しい、別のある人が天国には時間はあると言う、それも正しい。また、ある人が天国には上下がないという、別のある人が天国には上下はあると言う。両者ともに正しい。 矛盾じゃないのです。 また、人の集まりですからある程度の決まり事が必要になる事もありましょうし、集まる群れの方がそれを望んだりしますから、本来はキリストの教えでは別にこれはして良いと思うが、自分たちの集まりがより良いと思える状態でまとまれる様にあえてこう決めるかと。 こういう種類の決まり事は教会内には結構存在すると思います。つまり方便としての決まり事であり、本質的な教えとは別の物であると。しかしいったん決まり事にしてしまうと原理主義的な人たちがそれを強要したりなどと始まります。これもまた「矛盾」と一言では片付けられない問題です。 さて、それとは別に「矛盾」を言っている人たちも現実にいます。 この人たちは頭がしっかり回っていないので自分たちが矛盾を言っているとは考えていません。しかし、かなりのレベルまで突き詰めれば矛盾を言っていない人など恐らく一人も居ない。クリスチャンもノンクリスチャンもです。 クリスチャンの視点から見れば無宗教が矛盾甚だしい突っ込みどころはいくらでもありますし、無宗教から見たクリスチャンもそうでしょう。 この両者の会話に必要なのは「自分たちは何についても完全に知ってはいないという自覚」とその上で会話を進める誠実と謙虚と思慮です。 これらの「徳」を用いずに会話してもその結果はたかが知れるでしょう。 ですから、多くの場合初めからすでにけんか腰、見下し、猜疑心に満ちている人とまともな実り多い会話が成立する確率はかなり低いでしょう。 この点が解っていないといくら「Why」と言っても白々しいだけです。
お礼
熱心なキリスト教徒となった強姦殺人犯は 自分が地獄に行くのが嫌だからという思いから信仰を始めた またはあなた自身の娘さんがそういった不憫な目にあったという 場合でも同じように慈悲深い心で天国に行ってもらいたいと 本当に願えますか? 臨死体験は脳が起こす幻覚症状です。 脳に電気ショックを与えても薬物でも 眩い光や、トンネル、花畑は出てきます 臨死体験で見ることが多いこれらの要素は 電気ショック、薬物で見る幻覚で最も多いのです こういった検証結果をもっと知るべきです >クリスチャンの視点から見れば無宗教が矛盾甚だしい突っ込みどころはいくらでもありますし いくらでもあるなら突っ込んでください ただあなたはまだ柔軟な考えをお持ちのクリスチャンですね 実は私自身バチカンに好きな司祭がいます (かなり上の人なので有名なのかな) 彼は実に面白い たぶん神を信じていない キリストすらそれほど崇めていない でも苦悩する人はほっとけない 異端なんだろうけど 彼は好きだ
補足
回答はあなた自信の慈悲の思いであって 聖書にそのようなことが書かれているとは思えません あなた自身の心と聖書にひらきはないですか? 疑問符は常に持つべきです
- hekiyu
- ベストアンサー率32% (7193/21843)
私は信者ではありませんが、回答させて下さい。 これは、日本にイエズス会が来たときにも 問題になったことです。 イエズス会は信者にキリスト教の説明をしましたが、 それでは先祖は救われないのか。そんな宗教 では困る、と言われ、難渋した、と記録に あります。 その他に、善悪なんて相対的なものだろうと 言われて説明に窮した、という記録も残っています。 あの新井白石も、次のように言っています。 「この世の総ては神が創った? なら神は誰が創ったのだ? 神は自ずから存在する? ならこの世の総ても自ずから 存在するとすればよいではないか」 キリスト教は布教の為、もっともらしい説明をしますが 多くは矛盾だらけです。 それで、最後は、神の御意思は人間の知る得るところでは ない、との逃げ文句を用意しています。
お礼
>>先祖は救われないのか? 信長や秀吉、家康が同じ疑問符を投げかけたらしいですね 正にごもっとも、私も同じことを思います >>多くは矛盾だらけ ですよね・・。 ただ宗教を欲するのは仕方の無いことだとも思うんです 人間は大脳が肥大化してしまったせいで 死を直視せざるおえなくなった その恐怖を克服するために多くの人々とっては 必要なのかもしれません。 今も昔も世は無常すぎるわけで 天国や地獄を信じないとやってられない気持ちはわかります 「あの子は戦争で死んでしまったけど天国で会えるんだ」 「残虐非道の殺人犯は捕まってはいないが 死んだら地獄で永遠に焼かれるんだ」っとかね あ、でも残虐非道の殺人犯がキリスト教に帰依したら・・・
お礼
>私のオリジナルのたわごとを言っているといわれてしまいそうですが いやそんなことはないですよ プロテスタント系はカトリックに比べると割と許容値が 高いですよね 私が思うに聖書の解釈は、基本的には人々の良心によって 変わってきたのではないかと思います (文明が発達するにつれ変えざるを得ないところが出てきた というところもあるとは思いますが・・) 原理主義は危険な思想を孕んでいます だから解釈によって回避してきたとそう思います 仏教だって真実の仏教は日本に伝来してないですものね まぁこちらの方は解釈の方がまずいですが・・ 解釈によって考えが違う やはりそこに格闘があるということですよね人としての そう思いたいっていう 原理主義的な答えを 並べ立てる人がいるかなと思っていたんですが そうではなく格闘している それは嬉しいですね 正直、原理主義的な答えなんて求めてはいないです ぞっとしますよそんなの 聖書と良心の狭間で信者の方がどう思うのか そこに関心があり際どい質問をしました 死んだら「無」になるという私の死生観は 味気なく救いが無いように思うかも知れませんが 一番平等で一番救いというものがあるのではないかと 思っています でもあなたが一般的だと思う死生観も すばらしいと思いますよ、本当に