中世は過度期ですのであらゆる点で分かり難いかと思います。
行政区を区分けしたのは奈良時代です。
この時代は国土は原則として国即ち朝廷のものとされていました。
「国」という言葉がややこしいのが、日本全国を指す場合と個々の行政区分を指す二つの使い方があった為です。
奈良時代以前から地方の名称として、近江、伊勢などという呼び名がありましたが、これを行政区の名称として法文化したのが大宝律令です。
この行政区の名称を国と呼びました。
国を幾つか纏めた地方名として「道」がありました。
国の中を幾つかに分けて郡(ぐん・こおり)と呼びました。
この郡を更に2乃至3つに区分して里と呼びました。
ご質問に「国郡理(郷)」とありますが理ではなく里です。
この里を後に「郷」という名称で呼ぶようになりました。
これが基本です。
時代を経て荘園と呼ばれる私領が増加すると同時にその広さが里(郷)や郡を越えるものが多数できてきました。
里をまたぐものや郡をまたぐものなどが現れました。
この私領は朝廷の管轄から独立していましたので大宝律令に定めた国郡里(郷)には含まれない独立したものとなってしまいました。
現代で考えますと、県の中に突然個々の市町村の広さを越えた個人の宅地が現れて、県の世話にはならない、税金も納めないと言いだしたようなものです。
この私領の領域に勝手に名前がつけられて郡、郷、保、院、条などと呼ばれるようになりました。
ここで郡、郷が大宝律令に定められた名称と同じであることに注意して下さい。
ご質問で「郡郷保や荘郡郷など何回かわけてますが」とありますのはこのことです。
個々の荘園の事情によりますので、こうだという規則性はありませんので非常に分かり難いかと思います
朝廷から独立した領域でしたので、治安維持のための武装した集団が居ました。
各地の武装集団の親玉に守護とか地頭という名称をつけて、朝廷に認めさせたのが頼朝です。
鎌倉時代には、朝廷から任命された国司や郡司である一方で頼朝から守護とか地頭と命名されて御家人と呼ばれていた人もいました。
中世の行政区画が分かり難いのはこのためです。
政治的な力が、武力を所有しない朝廷よりも、武力集団を纏めていた鎌倉幕府のほうが強くなってゆき、守護大名などと呼ばれる人が現れてきました。
後は南北朝時代、室町時代、戦国時代となっていきます。
戦国時代まで続く、この行政区画の混乱を終結させたのが、秀吉による太閤検地です。
個人の所有地が明確にされ、その個人の集団を統治する領主が明確になりました。
室町時代には日本国という統一された国家は無かったという歴史学の先生もおられます。
地域の統治者がコロコロ変わりますので、地域の住人は自治組織を発達させました。
これが現在の村落の原型です。
後の江戸幕府は、この自治組織の上に乗っかっていたというか、自治組織を通じて間接統治をしていました。
超大雑把に説明しました。
何かあれば補足で御質問をお願いします。