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帯方郡と楽浪郡

日本史で出てくる 帯方郡と楽浪郡の 違いがいまいち分かりません。

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  • fumkum
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回答No.2

こんいちは。 楽浪郡はBC108年に前漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして、遼東半島の東側から、朝鮮半島の北部・中部一帯にかけて4つの郡を設置して直接統治をしますが、この内の一つの郡です。この四郡は、現在の平壌とソウルを中心にした地域の楽浪(らくろう)郡、その東側で日本海側の臨屯(りんとん)郡、楽浪・臨屯の北方の玄菟(げんと)郡、楽浪の南側の真蕃(しんばん)郡です。 この内、玄菟郡は後の高句麗(扶余族)に圧迫されて縮小が続きます。臨屯・真蕃も現地の住民に圧迫されていたようで、BC82年に両郡は廃止されます。この時、真蕃郡は完全に廃止されますが、臨屯郡は管轄下の15県中の6県が楽浪郡に編入されます。同時に玄菟郡から1県が楽浪郡に編入されて、楽浪郡は拡大されると共に、朝鮮半島にある漢の領域中、最南部となります。そのために、後の204年の帯方郡設置までは、楽浪郡が倭人から見ての最も近い中国(前漢・新・後漢)領域であり、中国側からすると倭に最も近い領域になります。漢書地理に「夫れ楽浪海中に倭人有り。分れて百余国と為る。」とあるのは、そのためだと考えられます。 拡大した楽浪郡ですが、後漢末の動乱の中で遼東太守で地方軍閥というべき公孫康によって204年に分割され、楽浪郡の南部領域は帯方(たいほう)郡が設置されます。現在のソウルを中心とした地域に設置されたとされています。そのため、帯方郡が中国で倭に最も近い領域になり、魏志倭人伝に、「倭人は帯方の東南大海の中に在り。」の記述になるとされます。また、魏志倭人伝の「景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣し郡に詣(いた)り」の「郡」は、帯方郡のことです。 分割された204年以降、楽浪・帯方郡は高句麗・韓族・濊(わい)族などに圧迫され、314年に両郡共に、高句麗により滅亡しています。この時代中国は、魏晋南北朝時代の晋(西晋)で、八王の乱は終結していますが、その後も混乱と異民族の侵入が続き、316年に滅亡するほどですから、辺境に力を注ぐ余力はなかったと思われます。そもそも、後漢末から魏晋南北朝の時代は強力な統一政権が倒れ、混乱と分裂の時代ですので、中国の周辺国家・民族が台頭した時期であったとも言えます。 *領域は諸説ありますので、おおよその範囲です。 まとめると、 前108年=楽浪郡と臨屯・真蕃・玄菟の三郡を前漢が設置。楽浪郡の領域は、現在の平壌とソウルを中心にした地域と言われています。 前 82年=臨屯・真蕃を前漢が廃止し、楽浪郡が拡大。 204年=楽浪郡を分割し、南部を帯方郡とする。後漢の遼東太守の公孫康が分割。帯方郡の領域は、現在のソウルを中心とした地域と言われている。 314年=楽浪・帯方郡滅亡。 というわけで、楽浪郡と帯方郡の違いは、設置時期・設置者と領域にあるのですが、帯方郡は楽浪郡を分割してできているので、紛らわしいことです。 以上、うまく説明できませんが、参考まで。

  • chiha2525
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回答No.1

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