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脱構築で生きていったなら、その人の人生はどうなる
デリダ、デリダ、デリダってことで、 一人の人間がデリダの脱構築主義にハマり、人生のあらゆる局面で脱構築を貫き生きていったとしたら、その人間の人生は一体どうなるでしょうか。
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前の質問に対する私の回答に対する補足を読みましたが、デリダの脱構築はヘーゲル弁証法のアンチテーゼで、ジンテーゼになっていないとか仰っているのを読んで、唖然としました。 デリダなんて読まないと、そういう自分勝手な理解になるのですかね? デリダの著作を少しでも読んだことがありますか? もし、読んでいたら、到底そんな誤解はすることはないと思います。 デリダは「声と現象」で、フッサールの現象学の自我は時間の流れの中で、流れつつ止まる、止まりつつ流れる、そのような絶えざる交替で形成される、それが根源だと言いましたが、デリダは根源などない、差異の戯れによって、つまり時間の差異の中から自我が出来上がるのだといい、フッサールの考えを批判しました。 これがデリダの「脱構築」でしたが、どこが弁証法で、フッサールの考えがテーゼで、デリダの考えがアンチ・テーゼなのですか? 弁証法というのは、概念の対立、あるいは概念の二項対立を相互に否定することで止揚し、綜合する方法ですよね? デリダの考えはフッサールの考えと別に対立していたわけではありません。 その前提を、あるいは考え方の根底にある先入観を批判して、別の考えを述べたものですが、そのデリダの批判と、フッサールの考えをどうやって総合するんですか? 弁証法というのは、相互に矛盾する概念とか、思想の対立を克服する方法ですが、フッサールはデリダの考えなど知りません。 生きている時代が違うんだから。 たとえば、カントがデカルトの思想を批判したとしましょう。 カントの思想をテーゼとし、デカルトの思想をアンチ・テーゼとして、それをどうやって総合し、克服するんですか? そんなことは誰もやったことがありませんよ。 たとえヘーゲルにしても、そんなことはやったことがありません。 私はヘーゲルがカントとデカルトの思想を総合したとか、克服したとか、そんなことを聞いたことはありません。 たぶん、あなたはデリダなんて読んだことはなく、「脱構築」という言葉だけ知っていて、それを自分勝手に、ヘーゲルの弁証法と混同して考えているのでしよう。 そもそもヘーゲル弁証法というのを理解していますか? たぶん、デリダの「脱構築」を言葉だけ知っているのと同じように、ヘーゲル弁証法も、言葉だけで知っているのではありませんか? 実際は、ほとんどヘーゲルなんて読まないで。 デリダも読まず、ヘーゲルも読まず、だから「一人の人間が脱構築にハマり、人生のあらゆる局面で脱構築を貫き生きて行ったとしたら、その人間の一生は一体どうなるのでしょうか」というトンチンカンな質問をしているわけですか? そういう質問をする前に、何よりもデリダの著作と、ヘーゲルの著作を読むのが、礼儀なのではありませんか? もし、ヘーゲルを読んだというなら、かれの実体=主観(主体)説が何であるかそれを説明してみてください。 実体=主観(主体)説はヘーゲルの思想の中核にある思想で、ヘーゲルを読んだ人なら誰でも知っているから、それを説明するのは容易なはずです。
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- Mokuzo100nenn
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>その人間の人生は一体どうなるでしょうか。 建築関係の職業だったら、世界的に有名になって、巨万の富を築くかもね。 ついでに、英国の国籍がもらえて、最後は勲章もくるかもしれない、、、、。
お礼
>弁証法というのは、相互に矛盾する概念とか、思想の対立を克服する方法ですが、フッサールはデリダの考えなど知りません。 弁証法をどのように実現するかは、我々の精神と哲学にかかっている。 弁証法はその実現方法までは規定していない。 我々にとってこの世界は様々な矛盾に包まれている。 我々は常に多くの矛盾にさらされ続けている。 我々は我々を取り囲む矛盾と戦い続けなければならない。 我々はある矛盾を解決したとしても常に別の矛盾が姿を変え形を変えて現れる。 これはどのような方法、どのような手段を用いて行っても同じことである。 かくして我々は矛盾から解放されることは決して無いのである。 我々は常に矛盾と戦い続けなければならない宿命にある。 しかしながら我々は1つ1つ矛盾(アンチテーゼ)と対決する中でジンテーゼを見つけ出し1段階ステージを上げていくのである。 これがアウフヘーベンである。 そしてアウフヘーベンによる段階的ステージ上昇のプロセスが即ち弁証法的進化である。 しかしこの弁証法的進化に終わりはないのである。 だから我々は常に弁証法的に進化し続けなければならないのである。 もしも弁証法的進化を止めたなら我々は腐敗するのである。 これは宇宙の法則であり、例外は無いのである。 だから我々は常にアウフヘーベンし続けなければならないのである。