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個性、同調と調和

最近は個性化して、個ではなく全体であるという論理から反個性化(全体)していたりしているように思えます。 2進法で個性化か全体化のようですけど。後者は画一的に同調を求めますよね。 でも差異があるかなくすかではなく、個性と調和を保つって別の軸のように思えます。 画一的で同調してそれになじめるかどうかと調和するってどのように違うのでしょう? 前者には偏り感を感じますし、後者はアナログとかそこまでわかるのですけど。 個性(最近はエゴ)が強いと協調性や調和などないですし、かといって差異をなくせば調和するわけでもないとおもいますし。

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noname#210533
noname#210533
回答No.5

二つの見地が成り立つと思います。 まず、数値化と量子化、序列化と平滑化、最終的には画一化。 言葉にすると訳が判らんですが、例えば彼は賢い、あいつはバカだ。 数学が得意な奴、英語が得意、・・・国語が苦手、古典が苦手・・・ 何もかも苦手。 一長一短あるから、「合理的に利口とバカを決める為」偏差値を 物差しに集約する。 誰の言う事が正しいかを決めるために、利口な奴の言う事が 正しいと考え、誰が一番賢いかを決める為の手続きとして 考えます。 一点刻みで偏差値の分布が出て、偏差値順に並べることは出来た。 でも、数学が得意な奴の方が向いている問題もあれば、 音楽が優れた奴の方が核心を突いた答えが出せる場合もある。 だから、単純に偏差値順に並べてトップを選ぶだけでは正しいとは 言えない。 そこで、量子化の手順を取る。 難しく言えばデジタル化だ。 (ダメだ、どっちも判りにくい。) つまり、成績を並べてなだらかな斜面を造るんじゃなくて、 10点刻みとかにグループ分けして、階段状のグラフに 生徒を嵌め込み、グループ毎に優劣を決めようという訳。 10未満の偏差値は圧縮されて、同じ程度、と考える。 (ひでーな。) 次に、この量子化されたグループをシャッフルする。 例えば、具体的なテーマをいくつか決めて、議論させて 点数をつけ、トーナメント方式で勝負を付ける。 闘うテーマを決める段階で、そもそもなんのためにこんな バトルやってんだ?ということを皆で議論して、目的の 「皆が従う頭のいい奴を決めるために必要な能力、知力」を 分類して点付けし易い問題テーマをひねり出す。 こうして、量子化されたグループは、何試合もバトルを繰り返しながら 最初は10グループという小刻みだった階段グラフが、勝負が 進むにつれて8とか5、3と減っていく。 細かい階段が大きな階段少ない段数に均されていく。 民主主義は多数決と言われるが、51:49ではあんまりだ。 だから、多数決と言うのは根本的な論理的な破綻、大穴が 空いてる欠陥商品。49%は捨てろって? 酷いよね。 そこで、出来るだけ全員が納得しながら多数から一人、 或は限られた少人数を選出する仕組みを考える。 その点、スポーツのヒエラルキーは良く出来てる。 未だに完成したものはないと思うけど、とにかく、 色々な科目のテストを繰り返して、それらの膨大な点数を 並べ、まとめ、平滑化し、本当にその序列で話を進めて いいのかを何度もバトルトーナメントを繰り返す。 「俺達一生懸命やったけど、負けちまったんだから仕方がない、 勝ったあいつのバックアップをして、他のクラス対抗でも あいつが勝てるように協力しようぜ」、とは中々行かない。 けどまあ、それを理想として負けた人には舞台を降りてもらい、 裏方に回ってもらう仕組みを数学的なモデルに沿ってやってみる。 これは、外から見ると、沢山の個性が平滑化され、顔のある 個人個人が舞台を降りて裏方に回る、つまり匿名化することで 全体が画一化されたような印象になる。 でも、51:49で負けた有権者の民意が無いものとして扱われて しまう乱暴な多数決に比べて、リベンジもあれば、協力者に なるもの、グループを抜けて他の人とタッグを組むなど、 様々な離合集散と、この選出システムそのものを変化させて いく原動力に、大半の人がなれるという点で、無個性化・ 画一化、とは異なる見方も出来る。 例えば、鍋。 具材の多くは煮崩れて形が無くなっても、材料が溶けた スープはとても奥深い美味しさです。 スープの中に勝ち残った肉が浮いていても、その肉だけでは 美味しい料理足り得ない。 その肉自体が煮溶けた出汁が効いたスープで煮込まれて 凄く美味しくなるし、スープそのものが無ければ肉が少なくて 料理にならない。 例えが変だけど、世に出られなければ自分は立つ瀬がない、と 勝てないことを否定する見方なら敗者の没個性化、という観念も 成り立つけど、先の鍋理論に従えば、負けることが存在意味の 低下や消滅を意味しなくなる。 多くの敗者の個性を埋没させ、消失させるのではなくて、 島のように、水面下の部分をトップ以外の人々が形成することて゜ 海底からの標高が高くなり、てっぺんが海面に出た島になる、 そういう構造だとも考えられるわけです。 永くなってしまいましたので、二つ目の二進法で均される無個性化、 についてですが、先ほど量子化の過程で述べたことは消失する訳では なくて、ステルス化、縁の下の力持ち化、と言うニュアンスで 書きました。 では、各々の個人にどれだけの個性があるのか、という側面に 光を当てて考えてみると、これがまたかなりあやふやです。 というのも、どんな個人も、無から生まれた有ではないからです。 誰も、ユニークでオリジナルな存在ではあり得ない、ということです。 (ここでは、当初の意味通りユニーク、と言う言葉を唯一無二の、 という意味で用いています。) 私たちは普段、盲目的に「自分は確固たる独立した存在だ。 オリジナルであり、自分と言う人間は二人といない。 だから自分には尊厳があり、失われないようにしなければならない」と 信じてます。 でも、よくよくよーく考えてみると、自分を構成する遺伝的な形質も その後の肉体の成長も、人格形成も、全て他所から来たものを材料にして、 古代から続く生き物の設計図に従って造られ、親に育てられ学校や友人 その他の外界の環境に強い影響を受けながら、「造られて」来ました。 断固として、「私は自分の意志で自分を形成してきたのだ」と言い張る 人もいますが、それ自体が結果的に形成された性格です。 自分のことを大事に考えすぎるあまり、自分の考えが自分の欲求に支配 されていることを認めることが出来ずに、自分にこだわってこだわって、 他人を貶したり、落ち込んで自分を貶したり。 どこまで行っても「私は私だ、死にたくない、良い目に会いたい」という 生物的な欲求に支配されている、つまり自分の意志、と信じている物さえ 遺伝子に書かれた生物としての仕組み、特徴が発揮されているのに 過ぎません。 生まれたころ、人に人格はありません。 死んでしまった胎児の脳細胞を顕微鏡で観察した写真を見ると、神経網は 殆ど無くて、脳細胞だけがロクにつながりもせずにバラバラと存在している だけです。 つまり、生後間もなくは、純粋に生理的な快感や嫌悪感で反射的に泣いたり 笑ったり眠ったりする構造、生体的な仕組みしかありません。 自我、人格と言うものは、その後の爆発的な脳の成長に従って、遺伝子の コードに従い、肉体の好調・不調に左右され、親から愛される愛されない などの環境に応じて、 「周囲の環境を、なぞり、コピーしていく」ことで築き上げられていきます。 赤ん坊のころは、空間の三次元認識は愚か、色彩の知覚、明暗の境界線の 認識さえ漠然と、目で追うことで「なぞっている」真っ最中です。 声も、音も、手触りも、味覚も、何もかも、なぞり、触り、口に入れ、 五感の感覚器を通して入って来る情報をひたすら頭に組み込んでいく毎日です。 記憶することなく、感じてはまた感じを繰り返す中で、自分に関わる頻度が 高いものが「回路として」脳に組み込まれていくことで、「それはそういうもの」と、 周辺世界の認識を深める前提理解として頭の中に焼き付けられて行きます。 それを足掛かりにして、前後上下左右、窓や扉、昼夜、父母兄弟やペットと いった「自分の家族と家」を頭の中に創り上げる。 そして、外の散歩、幼稚園や学校を通じて、自分の家族と家、の外側に 玉ねぎの皮の様に、或は同様の小さな世界があちこちに散在するなどの 「自分を取り巻く世界像」を頭の中に造り上げていきます。 そこには、自分が関わって、楽しかった、嫌だった、自分がした言動に対して 周囲がどう反応した、それらの自分と世界の結びつきという小さな自分、も 含めて心の中の世界モデルが出来上がっていく。 その形成された内的な世界モデルを「人格」と呼びます。 だから、言わば、自分の人格と言う物は、自分と言うレンズを通して 眺め、関わり続けた周辺世界の、写像・・・世界の模型、その人の、 「世界の見え方」の集合体、ということになります。 自分は全部、外から来た材料で、昔から続く設計図に従って、 周囲の大人たちと環境を写し取りながら形成された、世界の ほんの部分的なコピー。 誰もが、歪だったり色々偏ったりしていますが、自分の中に 自分なりの世界を持っている。 それはポエムでは無くて、科学的にも、自分なりの小さな世界を 内側に持っている、のです。 随分遠くまで来てしまいましたが、だから、画一化する、ということは 今も「真似続け、なぞり続けている」という視点から見直すことで、 別な視点を提供します。 個性がなくなるとか単一化する、という見方では無く、自分を独立した 不可侵なユニークな存在だと思い込まずにはいられない、 「スタンドアロン・コンプレックス」 を脱して、自分と言う存在の出自も思考も何もかも、ルーツとなる源流を持つ、 その分岐に過ぎない、という視点です。 全体論という表題のご質問の中で、ひとそれぞれの再現不可能な ユニーク性/その人格形成は二度できないこと/と矛盾せずに、 他人との知識や感覚の共感・価値観や思考の共有化が可能になる。 更には自分が自分であるという主観さえも統合し得る「人格並列化」の 概念も成り立ちます。 残念、もう字数がありません。

その他の回答 (7)

回答No.8

 1. 《個性》というのは ありません。社会全体の中で どういう仕事を分担しているかに尽きます。  2. 同じ仕事をして 前任者とは違った仕事ぶり(指導ぶりをふくめて)であってそこに個性があると言う場合 だとしても 全体における分担のあり方としては おおむね同じでしょう。  3. ぎゃくに言えば その仕事の成果に 差があるかも分かりません。けれども その差は 一定期間を取ってくらべただけのことです。つまりその一定の期間というのは むしろその直前やさらに過去の経緯から影響を受けている可能性があります。ということは 仕事の成果の――前任者との――差は 一概には決められません。  4. かんたんな説明ではありますが このように人それぞれの個性というのは 社会から見てむしろ無いという見方が成り立ちます。  5. この基礎的な見方に立って その上で仕事をするにあたって 互いの協調ぶりや内外における・時には対立ぶりなどなどとして一人ひとりがそこに感じ取る仕合わせ(つまり 相互関係の情況)があれば そこに現われ出て来る。といった程度のことではないでしょうか。  6. それでも やはり人間には個性があるのではないかというときには どうなんでしょう。たとえば社会の全体やその個別の仕事の単位体において これこれこういう思想で行こうとか その目指すところを明らかにして人びとに示したりあるいは互いのコミュニケーションの仕方をあれそれそのように行なおうとか それぞれ互いの位置関係を踏まえたマジハリにおける交通整理の仕方を指し示したりするハタラキにあるでしょうか。  7. むしろ そういった仕事の場と過程でそれぞれが味わう充実感をとうとぶこと そしてそのことをうったえそのための指針を出せるかどうか。こういったところに――人と人との現象的な差としての――個性は そうだとすると 発揮されるもかも分かりません。  8. 画一性や同調は ただのファッショであり 人間性の放棄です。お呼びではありません。  9. 協調や対立は どちらも仕事のためと捉えて 互いに推し進めて行くのが ふつうです。言うとすれば そのような対立を容れた状態での進展が 動態としての調和です。  10. 《個性》がどうのこうのと言うのは まだ人間以前の状態にある人間です。吸血鬼というものが思い描かれ観念として持たれていますが 世の中には言わば吸心鬼とも言うべき思いと行動性を持った人間がいます。  自分の差し出す悩みや問題を ともに考えてくれと言って 相手に近づき責め寄るクセのことです。相手の心くばりを引き出し その努力をけっきょくは消耗させようとねらっているヤカラです。吸心鬼です。  11. 個性を省みてくれ 人間性を大事にしてくれ 人権侵害ではないかと言い張ろうとするのは この吸心鬼とよぶクセ・性分なのだと見て それほどマチガイはないと考えます。

  • kurinal
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回答No.7

pkuobe99様、こんばんは。 >「かといって差異をなくせば調和するわけでもないとおもいますし。」 そうですね。 「人権侵害しない」で、ファイナルアンサー

回答No.6

組織化の必然は分業にあり、多様化が必須であって、 画一化は質の低い集団化だ。 また、個性的である事と、自己主張が強いのも、 また別の話だ。 より生産性の高い組織化を可能にする多様化とは、 個性的であると同時に、他人と強調できる社会性 (思いやりや自己抑制)を具備する事によって、 可能になる。

回答No.4

漢字変換ミス 寒岩⇒寒山

回答No.3

寒岩、拾得の話などご参考になりますよ。 君子和して同せず 小人は同して和さず。付和雷同ですね。 などもご参考かな。

noname#208724
noname#208724
回答No.2

あなたはなかなか熱心ですね、感心してしまいます。 まづ、画一的に同調というのは無いですね。ウキぺデアの陰陽のページを見てください。 概要だけ読めばいいですよ。 「陰と陽の二気が調和して初めて自然の秩序が保たれる。」 ということですが、そこに白と黒のオタマジャクシみたいなのがあるでしょう。それが追っかけっこをして循環していることを想像すれば、わかりやすいです。片方だけが優勢になることは無いようです。だから個性的に全体なんです。 あと、事実と理念というのもあるんですよ。事実が一致しても、理念は違うとか、事実がばらばらでも、理念が一致するとか。だから人間関係ぐちゃぐちゃで、がっちゃがちゃで、それでいて全体という意味です。

noname#208229
noname#208229
回答No.1

どこまで個性を出すか どこまで協調するか どこで線を引くか 自分をどこまで許せるか許せないか。

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