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人間は精神である。精神は人間の存在性である?
人間と言うと体と頭に宿る精神と・・・と考えますが 私は極論ですが、人間とは精神の事だと言いたいです。 精神は人間の存在性であり。従って人間は存在性そのものです 存在しようという性質(のハタラキ)が人間なのです。 え~~~?という方も居られるとは思いますが そう思う貴方 貴方は精神ではありませんか? 精神がなくなったら、貴方ではなくなるのでは? 精神が存在性でなければ 人間は死んでしまうのでは? 存在性とは そのものを存在させる性質の事です つまり精神は性質なのです? おかしいでしょうか? 教えてください よろしくお願いしますm(_ _)m
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哲学を知らず、哲学書を読まない、だからもう2~3年間、同じ質問を繰り返し、繰り返し、まるで壊れたレコードみたいに質問している。 いったい、それしか質問することが無いのか? 哲学書を読んでいたら、いくらでも疑問に思うことがあり、いくらでも質問することがあるのに、いかんせん、ぜんぜん哲学書を読まないと、一つことをバカの一つ覚えのように質問するしかない、ああ、哲学を知らないとこういうことになるのか、という見本のようなもの。 他にないのかね? もう、その質問は飽き飽きして、あくびが出る。 こんなことを言うとOKウエイブの担当者は、また私の回答を削除するかもしれないが・・・・・・・ それにしても、なんでそんなつまらない質問にわざわざ回答しなければならないのか、空しさを覚えます。 私は自分を人間だと思ったことはあるけど、精神だなんて思ったことは、これまで一度もありません。 「精神というと、体と頭に宿る精神と・・・・・考えますが」と言って、その間に・・・・・・・が入っていますが、たぶん、あなたも、そう言い切るのには「ためらい」があるということなのでしょう。 「ためらう」のも分かります。 なぜって、体を、頭を、解剖したって、精神なんてどこにも無いからです。 人間の体は機械と同じもの、そして頭は肉のカタマリ、神経繊維・ニューロンと化学物質・シナプスのネット・ワークに過ぎない、そんな中にどうして精神なんて存在するでしょうか? 肉のカタマリでしかない、脳が、精神? あなたのいう精神とやらは、どこにあるんですか? きっと、17世紀にデカルトが心が実体、身体が実体と言って心身二元論を唱えてより、人間はただの物質ではなく、精神を持った存在だと、学校で教わったから、それをあなたは今でも信じていて、人間は精神だと信じているのでしょう。 だけど、心が実体だというデカルトの考えは、19世紀初頭にカントによって、心が実体ではないこと、心は物のように実体的に存在するものではないことが明らかにされ、デカルトの心身二元論を論破してより、今では人間を精神などという人は、あなたを除いて、他に誰もいません。 人間が意識を持っていることは明らかですが、その意識が精神だとは誰も思っていない。 あなたのいう精神って、いったい何ですか? そしてその精神はどこにあるんですか? 精神なんて、ただの言葉、言葉でしかありません。 あなたはそれをみずから「極論ですが・・・」と言っているように、「人間は精神である」とは極論を通り越して、妄想のたぐいです。 「精神は人間の存在性であり、したがって人間は存在性そのものです」 ・・・・・と言っているが、「・・・・・・性」という場合の「性」とは、その物の本性・本質を言う。 人間性といったら、人間をして人間たらしめる本性とか本質を言う。 ところがあなたは「存在しようという性質(のハタラキ)が人間なのです」 ・・・・・と言っているが、性質というのは、そのものの本性でも、本質でもなく、属性のこと。 人間が本性とか本質によって人間であるというのなら理解できるが、その属性である性質の「ハタラキ」によって、人間であるとはどういうことか? また、「人間は存在性そのものである」とはどういうことか? 人間の本性とか本質は、その属性である性質と不可分だとしても、「人間が存在性そのものである」とは言えない。 また、その「性質の「ハタラキ」が人間なのです」とも言えない。 そもそも性質の「ハタラキ」とは何を指して言っているのか? 人間がさまざまな性質を持っていることは分かります。 本性や本質以外に性質という属性を持っています。 だけど、その性質の「ハタラキ」とは具体的に何を指して言っているのか? 「ハタラキ」とは機能のこと、人間の機能だとしたら、「走ったり」「食べたり」「ウンチをする」「恋愛する」「旅行する」・・・などのことです。 でも、「走る」のは人間だけではありませんし、「食べる」のも人間だけではありませんし、「ウンチをする」のも人間だけではありません。 ところがあなたは「性質のハタラキが人間なのです」と言っている。 どうして人間が、「走ったり」「食べたり」「ウンチをする」ことが人間なのですか? あなたは人間以外の動物が「走ったり」「食べたり」「ウンチをする」のを見たことが無いのですか? そうしたことは人間だけの特権だとでも思っているんですか? ああ、笑っちゃう! 私は精神なんて無くても、あなたのいうその変な言葉・存在性が無くても、それでも人間です。 「精神が存在性である」なんて考えないし、「精神が存在性でなければ人間が死んでしまう」なんて考えないし、そんなものが無くても、私は自分を人間だと思っています。 意識があれば、それだけで十分。 心だとか精神は、ただの言葉です。 だから言葉としては実在しても、現実には実在しない。 心も、精神も、見えない。 見えるものだけが実在し、見えないものは概念、言葉。 「存在性とは、そのものを存在させる性質のことです」「つまり精神は性質なのです」 ・・・と言っているが、「存在性」という言葉がどの辞書にもない、ウィキペディアにも載っていない、あなたの自分勝手な造語だし、そんな言葉は無いし、デタラメだし、哲学も知らない、哲学書を読んだこともないあなたの妄想に過ぎないし、性質とは本性・本質と違って、そのものに必然的に属する属性ではないし、人間は本性・本質によって人間なので、性質という偶然的なものによって人間なのでもない。 最後に「つまり精神は性質なのです?」と言って、最後にクエッション・マークを自分でつけているように、自分でもそれを正しいと信じていないのではないか? 「おかしいでしょうか?」と言って質問する前に、あなたはそれが「おかしい」ことをあらかじめ知っている。 あらかじめ知っていて「おかしいでしょうか?」と質問するのは人をバカにするのと等しい。 「おかしい」に決まっているだろう? さて、この回答にOKウエイブの担当者は、削除するか、それが楽しみだ。
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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1. ひとの存在: 身と心 / 身体と精神 / 感性と理性(広義) 2. 自然本性: 身と心それぞれの能力と性質を言う。 3. 感性: 身の五感が知覚すること。 4. 悟性: 知覚を認識する。知覚は 世界事実に接して起こるゆえ 悟性は 世界の事実認識である。 5. 理性: 悟性の成した事実認識ないしその情報を整理しつつ――その一つひとつの意味内容を整理しつつ―― そこからさらにあらたな(或る意味で将来へ向けての)意味を捉えようとする。この場合 しばしば意味の連絡は 感性を括弧に入れておいての論理的なつながりに収斂していく。 6. 判断: 理性のおこなった推論とその結果について 或る基準によって取捨選択する。その判断基準は 一般に主観的な《よいかわるいか》である。 7. 知解: 感性の得た感覚を認識して知識ないし情報として捉えたあと理性がこれに意味づけをしさらにあらたな意味連関をみちびきだす。 あるいはさらに理性は 事実認識としての情報を概念として整理し この概念をすでに――感性から一たん離れたかたちの――観念としこの観念を 想像力にまかせてあやつりつつ 或る種の推論をみちびく場合もある。こうして 選択肢をととのえ 判断過程へと送る。 ここまでが 知解という作業である。 8. 意志: 判断能力とその行為を言う。選択肢の中から 一般によいものをえらぶのであるが 良し悪しの評価と判断は やはり主観的なものである。(学習過程を経つつ くせ・ならわしとして培うようになる)。 8-1. 自由意志は 周知のように 必ずしも善と思うものをえらぶとは限らない。おのれの心にさからって負の善(つまり悪)をえらぶことも 少なくない。 9. 記憶: ただしこれら知解および意志に或る種の仕方で先行する自然本性の能力として 記憶がある。おぼえるというよりは 存在にかんするすべての(つまり本性としてすべての能力および性質の)あり方の秩序作用である。自己組織化のハタラキである。 9-1. 記憶は 悟性が認識した知識としての情報を むろん整序してその倉庫におさめる。 9-2. たぶん 狭義の理性による論理的な情報整理とは違った《身と心の全体にとっての》整序作用を持つというように思われる。 9-3. 言いかえると 《わたし》が意識していないハタラキであり 直接に意図(意志)もしていないそれであろうと思われる。 9-4. 記憶は 取捨選択した判断とその内容を実際に行為したという意志行為の実績を整序しつつ記憶し その記憶の中にとうとぶべき意味内容のたくわえを持つ。これは 知恵だと考えられる。 10. 知性: これは 知解という行為能力を言う場合が一般である。ただし 知恵をもふくめて言うこともあるか。 11. 境地: 《記憶・知解および意志》の三つの行為能力の全体を言う。つまり 自然本性の――特には 精神にかかわる――全体のことで 特定の《わたし》の実際の存在形式である。その状態である。知恵と知識とそして判断力あるいは度胸などを含めたかたちである。 ☆ ここで 行為能力とは ほぼエネルギーのことです。 性質は 特に具体的には示していません。たとえば身と心とがうつろいゆかざるを得ないといった特徴を 性質と言うのがふつうです。 《極論として 人間は 性質であり 精神である》というのは勝手ですが 哲学とするためには その見解に一般性を持たせなければいけません。ここで勝手にほざくだけなら もう放っておきます。(これまで何度も放っておいて しかもこの目の前で持論が繰り広げられるからには 何度も回答して来ました)。 このまま同じことを十年一日のごとくつづけるのなら それは日本にとってとうとい時間の浪費であり 莫大なムダになるとお伝えします。その意味であなたの行動に対してわたしは敵対します。
お礼
日本にとってとうとい時間の浪費であり 莫大なムダ ですか。 分かる人が分かれば良いのではないでしょうか? 性質の事ですが なんで精神を性質というかといえば 既に書きましたが、脳内で行われてる精神という現象はその要素として微弱な電気的な性質や、伝達物質の性質が反応し合って実現しているから、その実現したものも性質の反応の集まり、つまりは性質であると言う訳です。 ブロゲロンヌさんの精神現象の整理は見事だと思いますが、だからと言って敵対しなくてもいでしょうに。それじゃあ理解できないものは悪魔だと言って悪魔狩りをしている様なものです。 私の中では分かっていることを説明しているのですが、説明能力の足らなさと、珍しい考えなので、何かと誤解されたり腹を立てられたりするのです。 見解に一般性を持たせると言う事ですが、つまりは間違ってるか、当を得ているかを分かる様にすればいいのでしょう? そんな一朝一夕には行きませんよ、こんな大問題は。 どうか気を長く持って 理解して頂けると嬉しいです。 どうも大変ありがとうございます。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
(敢えて主語を記さない)精神が存在性であるとことに首肯します。 その”精神”の何たるか、そしてそれをどう体認しているかの問題ですね。
お礼
精神は人それぞれ体感してると思いますが 人によって幾らか違うだろうと思います 考え方を変えれば 人によって赤い靴がどの様に見えているかも違うかもなので 赤緑色盲の方など 見え方も違うと思います。 精神の有り様も違いでしょうけど 実際には本人が体感(体認)する精神で考えるほかないと思います 精神がなかったら植物人間になるのかも。そうなると生きて行くのは困難です。 精神は最も大切な存在性の集まりの一つです。 どうも大変ありがとうございます。
- urigadai2013
- ベストアンサー率37% (92/244)
あんたの補足回答に対して、再度、私から反論する。 ああいえば、こう言う、減らず口の絶えない人だな、あんたは。 しかも言っていることはすべてデタラメ、めちゃくちゃ、まるで主婦の井戸端会議のたぐい、まあ、哲学を知らないんだから、しようがないが、OKウエイブの他の雑談コーナーとか、人生論コーナーとか、別のところに行って、やったらどうか? 質問したりする場所を間違えているんじゃないか? あんたの補足を読んで、なんとバカな人間か、つくづく思い知らせられたよ。 そういう人間が、この世の中に生きているなんて信じられない思いだ。 こんなことを言って誹謗中傷するとまた、OKウエイブの担当者がこれを見て削除するかもしれないから、この辺でやめておくが。 それにしても、このOKウエイブにそれだけ質問するヒマがあるんだったら、1冊でもいいから哲学書を読んでみたらどうか? ここは雑談コーナーでは無いんだから。 まあ、前置きはこのくらいにして、一つ一つ、あなたの言っていることをやり玉にあげよう。 「体はいわゆる猿ですから、大自然の法則、体の進化のための弱肉強食、欲望に従います」 ・・・・・というが、私の体は猿だなんて思ったことはない、人間であり、人間の体だ。 そしてダーウィンの進化論を誤解しているようだが、ダーウィンは自然界に生存競争があるとか、自然淘汰で、弱肉強食の世界だなんてどこにも言っていない。 そういうことを言ったのは19世紀末の英国のハーバート・スペンサーの「社会進化論」で、英国が植民地支配を強めている中、自分たち英国人が進化の頂点にあり、強いもので、後進国の野蛮人は進化に遅れた弱い人間どもで、強い自分たちがかれら植民地の人間を支配するのは正当性があると言って、そのためにダーウィンの進化論を曲解して利用したのだ。 ダーウィンは強いものが生き残り、弱いものが淘汰されるとは言っていない。 環境に適応した種だけが生き残ると言っているので、強いものでも環境に適応できないものは滅びるのだ。 だいいち、進化という言葉が、誤解を受ける元になっている。 ダーウィンは進歩発展などという意味でそれを言ったのではない、環境によって「変化する」と言っているので、「変化論」というのが正しい。 今西錦司によれば自然界に生存競争は無い。 「棲み分け」があるだけ。 「・・・・・・弱肉強食ではいけません」 ・・・・・と言っているが、自然界に弱肉強食は無い、「棲み分け」があるだけだから、「いけないもなにも」そんなものは無いのだから。 もうちょっと進化論を学んだらどうか? 日本は明治にダーウィンの思想を入れたが、それはダーウィンの思想というより、スペンサーの「社会進化論」なのだ。 そして人間は「知・情・意」の3つの能力を持っています。 そして「知」は必ずしも、心でも、精神でもありません、ただの知性です。 そして人間は猿ではないので、人間なので、知性を持っています。 知性とは考える能力のことです。 そして知性は意志と衝突することがあります。 「その体と精神(心)には従う行動に矛盾が生じるのです」 ・・・・・・と言っているが、体と精神が矛盾するのではなく、知性と意志が衝突して矛盾を生じるのです。 「知」は道徳的でありたい、理想をを持ちたいと願いますが、意志は欲望に従いたいと思います、そこに矛盾が、あるいは葛藤が生じます。 「牛や豚を食べたいが、人を殺して食べるのには抵抗をがあります」 ・・・・・・というが、それは人間だけではありません。他の動物も自分たち同じ種は食べません。しかし、それは精神(心)があるからでも、理想があるからでもなく、自然の摂理だからです。 人間も他の動物と同じ、自然の摂理に従っているだけです、決して精神(心)だからではありません。 「思春期の子供たちは、そのような悩みを抱えて苦しむのです」 ・・・・・と言っているが、子供に限りません、大人でも「知性」と「意志」の葛藤に苦しみます。 「人間は心身両方を持って人間とするには矛盾をはらみ、割り切れません」 ・・・・・・と言っているが、あとで自分でも言っているようにデカルトの「心身二元論は取らず、エネルギー(物質)と性質の二元論です」と言っていることに矛盾しないか? 心身両方を持っているというのは心身二元論とは違うのか? 人間は「知性」と「意志」を持っているので、心身両方を持っているのではありません。 「それよりも欲望に関しては動物、心に関しては精神(心)とした方が分かり易いです」 ・・・・・・・と言っているが、ぜんぜん分かり易くないです。 欲望は意志で、意志は人間の有するもの、動物ではありません。そして人間は知性は持っているけど、心も精神も持っていません。 あんたの言っていることはデタラメ、誤魔化し。 「そのうえ、人間は人工物を多く作りました。それらは主に精神のなせる技です」 ・・・・・・と言っているが、人間が人工物・工作物・道具を作るのは人間の知性によるもので、精神のなせる技ではありません。 これも言っていることはデタラメ、何とかすべてを精神に誘導しようとしている、あなたの誤魔化し。 「その時、作る手は人間の手です。意識・精神が支配しています」 ・・・・・というが、工作物を作るのは私の手ですが、だからといって、意識・精神が支配しているとは思わない。 意識と精神を同一視しているようだが、人間に意識があることは確かとしても、精神を持っているとは言えない。 ましてや「意志・精神に支配されている」とは思わない。 それではまるで人間は意識・精神の奴隷だと言っているようなものではないか? あんたは意識・精神の奴隷なのか? 「そこで私は精神の方を人間と呼び、体の方は動物と呼びます」 ・・・・・.と言っているが、私は精神なんてただの言葉で、その精神を人間だなんて呼ばないし、ましてや体を動物なんて呼ばない。 私の体は人間の体で、動物の体ではない。 動物の体に似ているというだけ。 「つまり、精神が動物を飼っている格好になります」 ・・・・・・と言っているが、ただの言葉である精神が動物という現実の存在者(物)を「飼っている」とは何事か? それじゃあ、まるで、精神が神だと言っているようなもんじゃないか? 精神は神か? 何度も質問するが、あんたの言う精神というのはどこにあるのか? 脳の中にあるのか? 脳はただの肉のカタマリ、脳味噌があるだけ、そんな中に精神なんてないよ。 「精神が性質で出来ているというのは、精神のようにひじょうに多くの情報や性質、ハタラキを持っているのは・・・・この世には性質しかないからです」 ・・・と言っているが、性質というのは物質の属性のこと、物質あってのもので、物質が無かったら性質も存在しない、つまり性質はそれ単独で存在しない。 しかも精神というのはただの言葉、その言葉でしかないものが、どうして性質を持つのか、バカバカしいにもほどがある。 みんなデタラメ、哲学を知らないというのは悲しいねえ。 自分勝手なことをベラベラいって、自分ではデタラメダということが分からないんだろう。 「この世には性質しかないのです」 ・・・・・性質はそれ単独では存在しない。単独で存在しないものをどうして「この世には性質しか存在しない」といえるのか? 性質は物の属性のことだ。 物があって初めて属性もある、性質もある。 たとえば物は色がある、その色は物があって初めて存在するものだ。 色だけが存在するわけではない。 どうしてこの世には物がなくて、属性だけが存在するのだ? 言っていることが滅茶苦茶ではないか? 哲学というものを知らないのか? 「私は心身二元論ではありません。エネルギー(物質)と性質の二元論です」 ・・・・・・.と言っているが、ではあんたの言う精神はどこに行ったのか? あんたは人間は身体を持ち、心とか精神を持っていると考えていたのではないのか? 今度は、精神に代えて、エネルギーと性質の二元論だと? エネルギーは物質と物質が衝突して発生するものだから、物質あってのもの、二次的な派生体だ、そして性質も物質あっての属性であり、同じく二次的な派生体だ、どちらもそれ単独では存在しない。 それなのに、あんたは派生体であるエネルギーと、同じく派生体である性質の二元論だという。 どこか、おかしくないか? 要するに物質の一元論じゃないか? エネルギーも、性質も、物質あってのものだから、物質の一元論だ。 私は二元論です、と言っているが、一元論だよ。 ああ、疲れた。 あんたのデタラメをいちいち指摘するのは疲れるよ。 もう、あんたのつまらない質問に答えるのは、これでお終いだ。 さあて、OKウエイブの担当者はこりれを見て、削除するか、それが見ものだ。
お礼
>というが、私の体は猿だなんて思ったことはない、人間であり、人間の体だ。 人間はお猿さんじゃないんです!と言うのはクリスチャン、エホバの証人の台詞です。 人間は猿の一種だと思います。 >ダーウィンは自然界に生存競争があるとか、自然淘汰で、弱肉強食の世界だなんてどこにも言っていない。 私もダーウィンが言ったとは書いてません。自然界はよく観察しましたが、弱肉強食の食物連鎖があります。それも淘汰の一つです。強い個体が残るのです。 >今西錦司によれば自然界に生存競争は無い。 >「棲み分け」があるだけ。 生存競争がない?本当にそう思いますか?餌や水場を争って 競争して生き残ろうとしてるじゃないですか。メスをめぐってオスあ競争してるじゃないですか?違いますか?ほかにもいくらでも競争はある、存在を求めてせめぎ合っています。自然を観察しましたか? >そして人間は猿ではないので、人間なので、知性を持っています。 私は精神は人間だと言っています。知情意は人間の有様です。 >・・・と言っているが、体と精神が矛盾するのではなく、知性と意志が衝突して矛盾を生じるのです。 知性と意志が矛盾する?そうですか? 欲望と理性も矛盾すると思いますが。 意志って精神的、理性的なものも加味して決まるのではないのですか? >心身両方を持っているというのは心身二元論とは違うのか? 心身が在るとは思いますが それが二元だとは位置づけません。残念ながら。 私は「エネルギー・物質」と性質の二元論を取っています。 エネルギー・物質が「身」よりも広く見たもので 性質が「心」より広く見たものです。 >人間は「知性」と「意志」を持っているので、心身両方を持っているのではありません。 これは? 心身両方を人間とするという先生の解釈と異なるのでは?ありませんか? >欲望は意志で、意志は人間の有するもの、動物ではありません。 意志というものは 欲望なのでしょうか??これはあまり一般的ではないのでは? >それじゃあ、まるで、精神が神だと言っているようなもんじゃないか? >精神は神か? 余談かもしれませんが 精神の世界以外に神の根拠って在るのでしょうか? 自然の摂理や宇宙の真理はあるかもですが 神と言うものが精神の世界以外に根拠があるとしたら 世界に10000もあると言われる神々は 矛盾しないのでしょうか? 精神に根拠があるから10000もの神が出来るのではないでしょうか? >「この世には性質しかないのです」 これは何処に書いてあったのでしょうか?書いた記憶がないですが。 「この世にはエネルギー・物質と性質しかない」が正しいですねえ。 書いたとしたら間違っています。訂正します。 >エネルギーは物質と物質が衝突して発生するものだから、物質あってのもの、二次的な派生体だ、そして性質も物質あっての属性であり、同じく二次的な派生体だ、どちらもそれ単独では存在しない。 属性というのは何ですか? 確かに「エネルギー・物質」の無い性質はないですが、性質のない「エネルギー・物質」もありません。 単に性質が見えないから「属性」と言ってるだけなのでは?属などと言う言葉は必要ないと思います。 私は障害者なので疲れやすいし腹も痛いです。これだけ書くのも大変です。 どうもありがとうございます。
補足
誤解、曲解、思い込みの勘違いが多いですねえ。 いちいち反論するのが面倒なので また今度時間があったら書きますが ウリガダイ先生は哲学という学問で考えてありますが 哲学は今や人々に帰されるべきではありませんか? 哲学離れで人々から「難しい」「分からくて気味が悪い」というイメージを持たれてる今。
お返事どうもありがとうございました。Yuniko さんの説明にあるとおり、 「精神が人間の本質であり、存在性が精神である。」 「死なないほうが精神は成長できる。」 という説について、すでに了解可能性の文節として、現存在の構成要素と認め、私はこの説が現象学的に正しいと判断いたしました。もう完成は近いようですね。 私は解釈学的な地平からの論理を基に、心の科学についての原稿を書いているところですし、私からはもう言う事なしですね。
お礼
それはどうもありがとうございます。 納得して頂いたものと思います 心な科学には私はまだ入ってないので 是非研究を急がれてください 現代が必要としてる研究だと思います。 私も私の論を磨いて行きたいと思います。 またの機会を楽しみにしています どうも大変ありがとうございます。
- weavaest
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No.8です > でもムッシュ・・・何がお気に召さないのか分かりません 気に障ったとかじゃ無くて、話が通じて無い気がしましたので回答をしました。 私から見た理解 質問者様 「人間は精神である」 私 「精神とは何ですか」 質問者様 「精神とは人間です」 正しくは「精神とはあなた自身」とあったので、私は人間でもありますから、つまり「精神とは人間です」と理解しました。 しかしこれでは、説明になっていないですよね。 質問者様の考える「人間は精神」では「精神とは」何なのですか。 No.6のコメントで「回答者様の考えは 精神が肉体の一部とのことでしたが、それは違うと思います。」とありますが、そんなことは言って無いです。おそらく「脳の中の”何か”なら、肉体の一部ですよね。」の解釈だと思いますが、脳の中の”何か”であると定義されて無いのであれば、肉体の一部では無いですよね。私は、精神についての定義は一切しておりません。もしこうなら、こう考えれるよねって仮定の話を書いたまでです。
お礼
精神とは脳内の物質・エネルギーの性質が反応し合って主体化した人間の主体である。 そして精神は人それぞれであり、もし説明を加えるなら 精神とは今読んでる貴方 その人です。 としか答え様がないのですが もし精神を定義できるようでしたら誰かお願いします。 どうもありがとうございます。
Yuniko さん、こんにちは。私は人間が生きるときの、性質のハタラキについては、文を読んで分かりました。存在しようという性質(のハタラキ)が人間なのですね。 では次に、「人間が死ぬ」ときは、その性質はどういうハタラキをするのか、を示してください。
お礼
人間が死ぬときも 存在しようとする性質は働いているのですが 人間の体は動物なので 進化するためには個体の死は必要なことだたのです 従って子孫が残ってるというつもりで進化する為に個体が滅すると言う風に働きます。 つまり死も種族の進化、引いては個体の生き残りの為に親が死ぬのです。 人間は機械の体?でもあれば 死なない方が 精神は進化できます 学習、記憶、思考、実行する事に衰えない脳があれば・・・ でも動物はそれほど学習しないので 怪我とか病気が命取りなので 世代交代します。 どうもありがとうございます。
いくら精神があっても精神を宿す身体がなかったら人間は生きられない。
お礼
それはいくら人間が身体であっても それを取り巻く環境がないと人間は生きられない というに似ています。空気がないと生きられない。水がないと生きられない。 社会がないと生きられない。 色々です。人間は精神であるはあくまで私の思想です。極論です。 どうもありがとうございます。
- weavaest
- ベストアンサー率15% (157/1020)
No.6です No.2の回答に対してのコメントが、曖昧だと感じたので、No.6で、その内容が曖昧だとの指摘と共に理論がおかしければ指摘するように書きました。それに対して否定も肯定もなく、相変わらず曖昧な話を繰り返しています。 あなたは質問者であり、私は回答者です。私は何かが知りたい訳ではないです。矛盾点を指摘しているだけです。 すでに、話の内容には興味ないですが、あまりにもいい加減な内容だったので、再度書き込みました。
お礼
でもムッシュ・・・何がお気に召さないのか分かりません どうもすみません。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
おい うりがだい。 そうやって 言葉でやり取りしているのは 精神というハタラキではないのかい。 いつまで同じことを言わせるんだ。
お礼
ウリガダイ先生 なんか言われてますが?
- weavaest
- ベストアンサー率15% (157/1020)
No.2です コメントもらったのですが、全てが曖昧な物に思えます > 精神はあなた自身ですよ 他人の精神なんて体験できませんよ 私自身は人間です。これを否定されると話が進まないので否定しないでね。 「精神はあなた自身」つまり私自身が精神ってのは、「人間は精神である」との質問者様の考えをここでゴリ押ししているだけですよ。 精神の説明にもなっていないですし、それ以降のコメントでは「よく考えれば・・・」となり、こちらに考えろってなってます。 私の理論がおかしければ御指摘下さい。
お礼
人間と言うことは 心身ともに人間である という事かと思いますが ウリガダイさんに説明したように 心身はその従う法則が矛盾します ですから苦悩を避けるために どちらかを人間と呼ぶとしたら精神の方です。 体の方は「動物」です。だから牛や鶏を食べても良いのです。食物連鎖の中に生きています 性的にも動物なのです。 しかし精神は動物ではなく理性ある人間なのです。両方人間だと考えるから人間が矛盾するのです。 回答者様の考えは 精神が肉体の一部とのことでしたが、それは違うと思います。 精神は性質で出来ています。 どうもありがとうございます。
お礼
ご回答ありがとうございます 何か誤解が多いようですが、私の主張は次です 体は所謂猿ですから、大自然の法則、体の進化のための弱肉強食、欲望に遵います。 しかし精神(心)は猿ではないので、それなりの理想を持ちます。弱肉強食ではいけません その 体と精神には従う行動に矛盾が生じるのです。 これが人間を悩ますのです。人に良くして上げたいが、自分の欲が出ます。 牛や豚は食べたいが 人を殺して食べるのには抵抗があります。 思春期の子供たちはその様な悩みを抱えて苦しむのです 人間とは心身両方を持って人間とするには矛盾をはらみ割り切れません それよりも 欲望に関しては動物、心に関しては精神(人間)とした方が分かり易いのです その上人間は人工物を多く作りました。それらは主に精神の成せる技です 動機は美味しいものが食べたい、衣食住に困らないように、移動をスムーズにしたい 雨に濡れない職場を作りたい等々有りましょうが。精神が作ろうとしなければ出来ません その時作る手は人間の手です。意識、精神が支配しています。(欲望が主に支配することもある) そこで私は精神の方を「人間」と呼び。体の方は「動物」と呼びます。 つまり精神が動物を飼ってる様な格好になります。 精神が性質で出来ているというのは、精神のように非常に多くの情報や性質、ハタラキを持ってるものは この世には「性質」しかないからです。他に何があるでしょうか?そのような小宇宙をこさえるものが? つまり前に書いた様に脳を主体とした神経細胞などが持つそれぞれの性質、伝達物質や微弱な電磁波の持つそれぞれの性質、ホルモン、脳漿の成分の持つそれぞれの性質が反応し合って意識、感情、心、精神を成している訳です。 世親が存在性だというのは 簡単に言えば 精神がなかったら人間も生きてはいけない、存在できない と言う事です。 私は心身二元論ではありません。エネルギー(物質)と性質の二元論です。 取り敢えず今日はこのへんで。 どうも大変ありがとうございます。