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精神は性質で出来ている か?

私は色々考えた挙句 精神は脳の物質反応による性質のハタラキによって出来ていると考えます。 それ以外に説明がつきません そうだと言う方 そうじゃないと言う方の精神の存在の説明をお願いします。 性質というのは物質にもあり、生命・生物にもあり 人間にもあるものです。 性質とはその存在が持つ力 によるハタラキ そしてそのシルシでもあると思います。 これは結構大きな問題です。精神とは何か? 性質で出来ているか? [勿論環境(文明文化とか)や食物なども精神には関わってきます]

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  • stmim
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回答No.6

stmimです。 urigadai2013とのやり取りを読んでyuniko99の言う意味がわかってきた気がします。 ものすごく単純なことです。yuniko99さんの考えを理解する上でurigadai2013さんの豊富な哲学的知識が邪魔をしていると思います。 物には必ず何かの性質があります。普通はそれは物と一体と考えていますがyuniko99はそれを分けて考えているということなのでしょう。 物=物質+性質ということだと思います。そして機能は性質に含まれます。 物が外界と作用するインターフェイスが「性質」です。 yuniko99さんの考え(と私が思っていること)でurigadai2013の回答にコメントしてみます。 >私は心とか精神が人間にあるとは思わないから、意識なら人間が有していることは分かります。 おそらくyuniko99さんは(私もそうですが)精神と意識を厳密には区別していませんから「精神」という言葉に問題があるなら「意識」でOKです。 「脳には意識を生じさせる機能がある」ということは言えると思います。この「意識を生じさせる機能」が性質です。 >私たちは「心とは・・・・」とか「精神は・・・・」とか「時間は・・・・・」と言って、何ものかを主語において語るとその主語が実体的に存在するものと錯覚します。 urigadai2013さんがあると思うものはあるで結構ですし、ないと思うものはないで結構です。それは今回の議論とあまり関係ありません。 >あなたは「精神は脳の物質反応の性質のハタラキによってできていると考えます」と仰っていますが、「脳の物質反応の性質のハタラキ」っていったい何のことですか? >性質というのは物の属性を言うもの。 >だから、少なくとも物質的なものです。 yuniko99さんの考えでは物と性質を分けて考えています。物質的なものは性質ではないです。 例えばリンゴの「赤い」という性質は物質ではない。 >物資である脳が非・物質である「ハタラキ」を生み出すとしたら、それは謎です。 物質であるミシンが「布を縫う」という「ハタラキ」を生み出すのは謎ですか? 物が機能やハタラキを持っているのは当然だと思います。 人間の脳でも同じです。 >そもそも物資である脳が精神などという非・物質的なものを生むとしたら、それは謎なのではありませんか? リンゴという物が「赤い」という非・物質的なものを生んでいますがそれは謎でもなんでもありません。 >現代の「心の哲学」では、意識とか心は脳の「機能」と考える考えが主流です。 その「機能」が脳の性質なのです。 >しかし、そうした内的体験から切り離して、それ単独で心とか精神があるという考えには私は同意できません。 心とか精神が脳とはなれて存在している訳ではありません。脳の機能(ハタラキ)として、つまり脳の性質として存在しています。

yuniko99
質問者

お礼

stmimさん どうもありがとうございます。ほぼ基本的なことを理解されてる様です。 私の存在性思想はその性質の哲学でもあります。 これはまだ思ってるだけですが この様に書いたらピンと来る人も居るかもしれません 物質=エネルギー+性質  つまりエネルギーはどのような形にも変化可能ですので それを真理の法則通りに変化していると分かるのは性質がそのように変化しているからです 性質こそが真理を表し、現実の情報です。頭の中の(精神の)言葉や概念は真実とは限りません。 僕もこれを読んで なるほどこう答えられればよかったなと思いました。 これはどうも大変ありがとうございます。

その他の回答 (7)

回答No.8

>精神は脳の物質反応による性質のハタラキによって >出来ていると考えます。 >それ以外に説明がつきません それは、その「物質」とやらが、精神とは独立した先入的 な要因であるという、いわゆる素朴唯物論の延長だ。 いくら説明しても、その議論が終わるとまた元の意識に 戻って、同工異曲の議論を繰り返すのみ。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.7

人権を侵害しないでね。

yuniko99
質問者

お礼

原理的な問題になるので 人権を侵害しないようにしないといけませんねえ。 ありがとうございます クリナルさん^^

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.5

"私は色々考えた挙句 精神は脳の物質反応による性質の ハタラキによって出来ていると考えます。"    ↑ そうですね。 精神とは、脳細胞が織りなすネットワークの 産物である、というのが現在の最有力説です。 ネットワークの産物、というのはネットワークの 性質、働きかもしれません。 ”精神とは何か? 性質で出来ているか?”     ↑ 脳細胞が織りなすネットワークと考えれば それは結局物質に行き着くでしょう。 電流が通れば、そこに磁界が出来るような ものです。

yuniko99
質問者

お礼

成る程 磁界が出来る 様なもの。ですね。 まあ実際には精神は一人一人かなり違うわけですが まあそうそう単純な有様ではないでしょうねえ かなり複雑な有機的というよりは 心理的な有様ですね 当然ながら。 心理学と哲学の間にも風穴を開けなければなりません。 どうも大変ありがとうございます。

回答No.4

精神とは脳みそを筋肉トレーニングすることで高まる。 ラララララー。 私は前人未到の筋肉エクスタシーを知る超人。 実在する仮面ライダー。 黒き明星だ。 ベイビー。 正解は筋肉現象だ。

yuniko99
質問者

お礼

なーんだ あなたでしたか 筋肉現象? 確かに筋肉も神経に似てますねえ 神経も使うし運動神経を どうもでした。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.3

例えば、物質が存在する以前に、原理が存在していたと仮定するならば、精神もまた、脳における働きであると定義する以前に、なんらかの形で存在していたと推測することも出来うると思えます。質問者の言う性質という単語が、その様な原理的なものを指し示しているとするならば、その様に性質という言葉を定義した上でなら、精神は性質であると言えると思います。 精神という言葉は、現実生活において、十分な意味を有していて、例えば精神論とか、精神病理とか、⚪︎⚪︎の精神とか言う風に使っている以上、それが物質的であるかないか、機能であるかないかを問う以前に、それの存在は認められなければならないと私は考えます。精神など実際にはないのだと言っても、その様に言葉として使われている以上は、その様な主張をしてみてもせんなき事です。存在とは、言葉としての存在も含むのであるから。

yuniko99
質問者

お礼

言葉は概念ですかね 概念も精神活動の一環です 性質は精神である前は 脳における神経伝達物質やホルモンゃ脳波やその他の神経系の 媒体などの性質だったのです。元は食べ物や酸素から作られたものですから それらの構成要素 栄養とかCHINOPS系のそれぞれの性質であったのです。 アホなさんは何時もセンスがいいですねえ 感心します。 どうも大変ありがとうございます。^^

  • stmim
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回答No.2

yuniko99さんの考えが理解できているか自信がありませんが、違っていたら違っていると指摘してください。 およそ全ての物質には性質があり、物質と性質は不可分です。 水素と酸素が反応して水分子ができる場合を考えてみます。 水素には酸素と反応する性質があり、この性質のハタラキにより水分子が生成されます。 これがyuniko99さんの考え方になるかと思います。 普通は、水素という物質と酸素という物質が反応して水分子ができると考えます。 これは同じことだと思います。 確かに水素が持っている酸素と反応する性質があるから、水素は酸素と反応するのだと言えると思います。 ですが、それはもともとわかっていることですから、「水素と酸素が反応して・・・」と普通は考えます。 このように考えるとyuniko99さんの考え方は、別に人間の精神に限ったことでなく全ての現象についてあてはめることができるでしょう。 ただ、それはすでにわかっていることを分解して、話の理解を面倒にしているだけのように私は思います。 新しい概念を導入する場合に何かその導入のメリットが必要だと思います。そのことによって今までの事象をより理解しやすくするか、今までわかっていなかったことがわかるようになるというメリットがある場合は、新しい概念を導入するべきでしょう。この「性質」という概念をわざわざ入れることのメリットを私は感じません。 そのことによって何か新しいことが理解できるわけでもなく、逆に理解が面倒になるだけです。 人間の精神がどんなものであるのかについては現代の科学ではわかっていません。しかし、それは調べていないからです。まだ調べる手段がないからです。科学に於いてわかっていないことが存在することはしかたないことです。わかっていないことはもっと後の世代の人達がより進んだ科学技術で解明するのを待つしかないと思います。 何か、物質に内在されている性質を、分けて考えてみたところで何か新しいことがわかるとは私は思いません。 脳の中の構造が物質的に解明されない限り人間の精神とは何かということは明らかにされないでしょう。 調べていないのに、理解したということはありえないことです。 現代人にとっては精神の仕組みがわからないことが当たり前なのです(まだ調べていないのですから)。 もし、わかったという人がいたらそれはインチキです。

yuniko99
質問者

お礼

まあ 精神は見えないものですから 脳内の伝達物質やホルモン、脳波などは分かっても 精神を科学で観測することは難しでしょう というより 哲学としては脳の物質とか地球とか言う前に 精神が存在することが分かるのです それで唯心論とか唯識論とかいう人もいるくらいですから しかし考え進むと 非常に当たり前な 地球上に人間が存在し その脳を主体に精神が存在していることが分かるのです 唯心とか言っても 人が死んでも世界は無くなりません 人の脳の性質の小宇宙はなくなるかもしれませんが 宇宙はなくならないのです そして脳の活動の性質部分として 精神があると私は考えるに至りました 最初は「存在性」というものについて考えていたのです 存在性とは そのものが存在するために必要な、或いは有効な性質のことです。 それで性質を考えていたら ああ これは精神は誠意室でできてるなと それ以外に見当たらない。クオリアとかいうものがなんで物質から出来てくる理由があるのか?? と思ったのです。 どうもありがとうございます。

回答No.1

私は心とか精神が人間にあるとは思わないから、意識なら人間が有していることは分かります。 なぜって、17世紀にデカルトが心が実体、身体が実体といって心身二元論を唱えましたが、現代の哲学者で心とか精神が実体だとか、実体的に存在すると考える人はいないからです。 すでに19世紀にカントによって、その「純粋理性批判」の弁証論の中の「実体論的誤謬推理の批判」で、デカルトの心が実体とする説とともに、プラトンの魂が実体とする、魂の不死という説を共に、誤謬推理に基づくものと言って、徹底的に論破していたからです。 私たちは「心とは・・・・」とか「精神は・・・・」とか「時間は・・・・・」と言って、何ものかを主語において語るとその主語が実体的に存在するものと錯覚します。 事実、古代ギリシャのアリストテレスも「文法で主語に置かれたものが実体である」と言って、主語と実体を同一視しました。 西欧文法では、主語と述語が欠かせないので、その文法形式から、物事を実体論的に考える傾向が避けられませんが、これが日本語だったら、主語なんて要らない言語体系だから、そんな錯覚は起こりえないのですが。 アリストテレスもギリシャ語の「ウーシア」に、存在・主語・実体・基体などの多様な意味があることから、古代存在論の「存在」を実体と同一視し、存在とは何か? という問いを実体に関する問いにすり替えて、存在の問いが忘却されてしまったと、ハイデガーは言っています。 あなたは「精神は脳の物質反応の性質のハタラキによってできていると考えます」と仰っていますが、「脳の物質反応の性質のハタラキ」っていったい何のことですか? 性質というのは物の属性を言うもの。 だから、少なくとも物質的なものです。 それに対して「ハタラキ」というのは非・物質的なものです。 脳が物質的なものであることは分かります。 で、その脳の性質って、いったい何でしょう? 性質は物質的なものですから、「ハタラキ」という非・物質的なものではないですね? 物資である脳が非・物質である「ハタラキ」を生み出すとしたら、それは謎です。 現代のアメリカの「心の哲学」のチャーマーズやデネットが、その深い謎を探究していることはご存じのとおりです。 ところがあなたは、いとも容易に物質と非・物質の断絶と溝を乗り越えてしまっています。 物質と非・物質との間には、いかなる「接点」も「接触面」もないのだとしたら、互いに作用を及ぼすことは不可能と思われるのに、あなたはいとも簡単に、それを乗り越えてしまい、脳の性質とその「ハタラキ」を結び付けてしまっている。 そもそも物資である脳が精神などという非・物質的なものを生むとしたら、それは謎なのではありませんか? 物質からは物質しか生まれません。 物質から非・物質は生まれません。 「ハタラキ」とは機能のこと。 例えば車でいえば「走る」こと。 そして「走るコト」はエンジンにもないし、シャーシにもないし、車の中のどこにも無いもの、したがってそれと同じで「ハタラキ」は脳の中にはありません。 したがって精神が「ハタラキ」としたら、それも脳にはないということになります。 ところがあなたは「精神は脳の・・・・・ハタラキによってできていると考えます」という。 脳の中にない「ハタラキ」が、どうして精神を生み出したりできるのでしょうか? 現代の「心の哲学」では、意識とか心は脳の「機能」と考える考えが主流です。 機能主義と言われるもので、刺激・インプットと反応・アウトプットを中継し、それを変換する装置、それが心とか意識というものと考えられています。 そして人間の脳は神経線維・ニューロンと化学物質・シナプスの膨大なネット・ワークで、その中には自我とか主体とか、心とか精神は存在しないとされています。 神経学者マイケル・ガザニガは近著「<わたし>はどこにあるのか」という本で言っています、 「脳は並列分散処理をしていて、そこには主体がいるわけではない、何があるかといえば処理の規則であり、最終的な決定権を持つ、誰かがいるわけではない」と。 つまり、脳には自我も、心も、精神もないということです。 あなたは「性質とはその存在がもつ力」と仰っていますが、「力」とは物質が持つ性質ではありませんから、「性質とはその存在がもつ力」とは言えません。 例えば「力」とはニュートンの万有引力のようなもので、重力のようなものを考えれば分かりますが、重力は物質に帰属する性質ではなく、物質と物質の間に働くものです。 そしてあなたは「これはけっこう大きな問題です」と言っていますが、むしろ「大きな問題がある」としたら、あなたの誤解の方にあるのではありませんか? 「精神が性質で出来ている」という誤解に。 いろいろな心的現象、思考・意志・感情・感覚などの現象があるというのは分かります。 デカルトが言うように、その種の内的体験があることは確実でしょう。 そして心とか精神というのは、そうした内的体験を「総称」した概念だと考えるならば、理解できないことはありません。 しかし、そうした内的体験から切り離して、それ単独で心とか精神があるという考えには私は同意できません。

yuniko99
質問者

お礼

いや単独という訳じゃなくて 脳の活動の物質面(エネルギー面)と性質面の 性質面が精神だと言ってる訳です。 それは目には見えません。普通の石でも性質は見えません 緑の電磁波を放てば 緑色をしていると色を認識しますが その色自体が性質ではありません。 そのような性質を持っているわけで 光を当てなければ黒です。 今回は話がかみ合わないようですが 是非理解していただきたいと思っています。 合点が行けばですが。 どうもありがとうございます。