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中学の国語の勉強について
- 中学の国語の勉強について苦手を克服するために再度学び直しています。
- 質問文章では詩の解釈に関する疑問があり、選択肢の表現についても考えました。
- 国語の比喩のルールについても疑問があるため、解答を求めています。
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海にある波というのは、水面の盛り上がりが伝わっていく現象のことですよね。 だから、ゆらりゆらりと揺れているのも波だし、上の端がぐっと盛り上がってつんととがっているのも波だし、その先端が崩れて白い泡となり、岸に押し寄せてくるのも波だし、その先端が崩れ、海水が砂浜を上がっていくのも波です。 そして、この詩に出てくる「馬」は「白い」のですから、波頭が崩れてできる白い泡の部分を表すと考えるのがいちばんいいでしょう。 海で波を見ていると、沖の方では海面の盛り上がりとしての波が動いていますが、岸に近づくと波頭が白く泡立ち、それが白いラインになって迫ってきますよね。作者はそれを「白い馬」にたとえたのでしょう。 そして、その白い先端はやがてざっと崩れ、砂浜を駆け上がっていきます。作者はそれを「少年たち」にたとえたのでしょう。 因みに、「同じ比喩を2度、使っていけないというルールでもあるのでしょうか?」とお書きですが、この質問はちょっと変ですね。 あなたは「白い馬」も「少年たち」も波の比喩だと思っていて、それをしてはいけないというルールがあるのだろうか、と聞きたいのでしょうから、正しく書くと「同じものを異なる比喩で表現してはいけないというルールでもあるのでしょうか?」となります。 その上でお答えすると、文章を書く際にそういうことをしてはいけないなどというルールはもちろんありません。 ただ、問題集などの問題を解く際には、異なる問題の答えが同じになるということはほとんどありません。 問題を作る人は、答えが同じになるような問題をふたつ並べるなどということはしたくないからです。 もちろんそうしてはいけないというルールはありませんが、ほとんどないと考えていいでしょう。
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- SPS700
- ベストアンサー率46% (15297/33016)
僕は少年の馬が白い糞をたれるのかと思っていました。この本が使われる前に中学を出たのは、とても運がよかったと思っています。
- bgm38489
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白い馬が、丘に駆け上がり、少年の姿になる。これは、 沖の波が、陸に上がって、浜辺に打ち寄せ、水しぶきとなること。 白い馬は、まだ波が沖にあるときのこと。波の先端は白く、走ってくるようなので、白い馬にたとえている。 蛇足だが、少年たちは、浜辺に打ち寄せた波といってもよいが、打ち寄せることによって、ばらけて、少年「たち」になると捉えたら、「水しぶき」としてもよいような気がする。
詩であってもロジックで解釈可能なものは、まずロジックで理解してみるのも一興です(必要不可欠ではないことは後述します)。問題は「白い馬」について問うていますから、「白い馬」に注目してみます。 01:波の後ろをはしる波 02:波のまえを走る波 03:海には「白い馬」が群れている 04:春の朝 05:「白い馬」は陸に駆け上がり 06:少年たちの姿になってはしりつづける 問題となる「白い馬」は二度使われています。これらの「白い馬」が「浜辺に打ち寄せた波」であるとしますと、03では、 03:海には「浜辺に打ち寄せた波」が群れている ということになります。この詩が描写しているのは波打ち際辺りだけに限定されていることになります。 同じく05では、 05:「浜辺に打ち寄せた波」は陸に駆け上がり となります。浜辺に打ち寄せた波がさらに陸に駆けあがるという状況を言っていることになります。 01~02では波の後ろも波、波のまえも波という描写をしています。受け取り方は個人それぞれではあるんですが、広がりを描写しているらしいことは分かります。 そこを分析的に考えてみると、「波」は特定の波に限定してはいないですから、波の後ろも波であるなら、波について再帰的な描写であり、波の後ろの波にも、後ろに波があります。「波のまえ」も波ですから、同様に再帰的な状況が生じます。 延々と連なる「波」を意図した描写らしいことが分かります。その波を「白い馬」と比喩で描写しているわけです。 「白い馬」が単に「波」か、「浜辺に打ち寄せた波」か、「白い馬」の比喩を使わないようにしてみます。 1.「白い馬」は「波」の比喩 01:波の後ろをはしる波 02:波のまえを走る波 03:海には波が群れている 04:春の朝 05:波は陸に駆け上がり 06:少年たちの姿になってはしりつづける これですと、例えば海を水平線まで眺め、海が波に覆われており、視点を浜辺に打ち寄せる波まで近づけて(01~05)、波打ち際に少年たちが走り回って遊んでいる、という状況を見て作った詩だということになります。 一方、お考えのように、「白い馬」が「浜辺に打ち寄せた波」、「少年」も「浜辺に打ち寄せた波」だとしてみます。 2.全て「浜辺に打ち寄せた波」の比喩 01:波の後ろをはしる波 02:波のまえを走る波 03:海には「浜辺に打ち寄せた波」が群れている 04:春の朝 05:「浜辺に打ち寄せた波」は陸に駆け上がり 06:「浜辺に打ち寄せた波」たちの姿になってはしりつづける 見ているのは波打ち際から陸までの範囲です。かつ、陸についても波が走り続けることになります(例えば、津波とも受け取れる)。この2を1の解釈を考慮した上で、採用するのなら、それでもいいかと思います。これも正解の一つでしょう。 P.S. 念のため申し上げますと、「こんなにおかしいのに、それでもこっちだと言うのか?」と言いたいのではありません。詩はイメージ重視なことが多く、ロジックばかり考えるのは、鑑賞の仕方として間違いです。むしろ、ロジックの破壊、飛躍が詩の身上の一つでもあります。 詩を読んで沸いたイメージが、詩を読んだ人にとっての正解です。他人と共有する必要はありません。作者の意図と異なっていても問題ありません。国語のテストで詩を読んで思ったイメージや感想の正誤を問うことは、益がないように思います。あまり気にされる必要はないかと存じます。
- hammhamm
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国語が得意なわけではないので、自分が思う詩から印象です。 「波の後・・・群れている」の部分は、 岸から離れている波の高い部分を、 白い馬の一団がかけている様子として 「白い馬は・・・はしりつづける」では、 幾重にも折り重なって押し寄せる波を、 少年たちが波打ち際を濡れない様に駆け回る様子に 表現しているのではないかと想像しました。
- ゆのじ(@u-jk49)
- ベストアンサー率30% (1233/4073)
白い馬としての波は砂浜に駆け上がると、その後、波は引いていきますから、何時しか、今やって来た波は消えて無くなります。 しかし、波打ち際から波に追われるようにはしゃぎ回っていた少年たちは、波の勢いが消滅した後も、波からバトンタッチされたかのように、波の早さを引き受けて陸上を走ります。 そういう様子を見ていると、波が少年に形を変えているように錯覚します。波のムーブメントが、そのままのスピードで少年たちに引き継がれているのです。 つまり、実在の「少年たち」と「白馬に見えていた波」は別物なんですね。 「群れをなす白馬」が「少年たち」に変換される面白さを感じましょう。馬が少年に「変身」するのですね。
- trytobe
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小学・中学での情操教育を重視した主観的な「国語」の問題と解答に、高校以降の「現代文」のような論理性を求めてはいけません。 義務教育での国語は、正しい文字の読み書きと、最低限の意思疎通ができるための発音と協調性をえるのに有用な題材を通じての情操教育、なのですから。 高校以降は、「現代文」として、問題のどこかに根拠があっての回答をする、という「論理で他人とコミュニケーションできる力」の訓練という、別科目だと思って取り組んでください。
- vaf326
- ベストアンサー率16% (285/1721)
同感。私も質問者様の最後の感じ方ですね。でも不正解になるのでしょう。残念。
お礼
同感っていうコメントいただけて嬉しいです。どっちでも、意味は伝わるんだし、っていうのでは点数はもらえないのが辛いところです。
お礼
中学生の参考書ですから、そこまで深い問いではないですね。 詩は受け手の取り方がものをいうってことを心に入れておきます。