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日露戦争 もしも津軽に移動していたら?

結局もう1日対馬に留まる と言う東郷の決断が「敵艦隊見ユ」に繋がり日本海海戦の勝利となるわけですが もしもう1日対馬に留まらず津軽に移動していたら 日本はロシアに負けていたでしょうか?

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  • mm058114
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回答No.3

日本艦隊は津軽に移動しますが、第3艦隊による索敵は継続されていたのであるので、場所は違うではあるが、日本海開戦は発生したいたでしょう。 日本海軍は、対馬海峡だけでなく、津軽海峡、宗谷海峡での海戦計画を持っていました。 問題は、他の海峡での海戦でも完全勝利得られたかが焦点です。 ウラジオへの距離が、より近いので、何隻かウラジオに逃してしまう事も考えられます。 しかし、日本艦隊の練度、整備状態から考えても、ウラジオ艦隊を数隻増やしただけでしょう。 その後、日本艦隊はウラジオ封鎖を行う事により、日韓、日大の制海権か確保できたでしょう。 その結果、奉天会戦は同じ結果をたどるとは思いますが、 日本海海戦の結果とウラジオに何隻のがしてしまうかで、 世界勧告の停戦の機運が高まって、停戦、ポーツマス条約が締結されても、 樺太、東清鉄道を手に入れられたかは疑問です。 条件が悪くなっていたでしょう。 ロシアも、革命気運が高まっており、国内治安警備、他のアジア国境警備の為、 これ以上、多くの兵力は割けませんでした。 在極東兵力で戦うしかなかったのが実情です。 前置きが長くなりましたが、ロシア極東軍の引き伸ばしに戦術に、 どれだけ日本が経済的に耐えられたかでしょう。 私は、英国を中心に、一度バルチック艦隊に非協力姿勢を行なったので、 ロシアの勢力拡大を望まない国家が、更に借財させてくれたでしょう。 負けは無かったと思います。 ただ、その後の経済発展、一等国の仲間入りはできなかったか、 遅れていたでしょう。 八八艦隊計画、シベリア出兵なんかできなかったのでは。 はたまた、日韓併合競争に負けていたかもしれません。

azuki-7
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その他の回答 (4)

  • misa-on28
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回答No.5

ロシア艦隊の朝鮮での入港・補給に関しては考える事は出来ません。 当時、日本は朝鮮の「局外中立宣言」(1904.1.21)を無視しソウルを占領下に置いていました。ですからロシア艦隊が朝鮮で補給や休養を取る路は事前に封じられていたと言えます。 そういう観点から見ても、 津軽から南下しても恐らくロシア艦隊には勝てたでしょう。 ただ討ち漏らした艦艇が多少は日本と朝鮮のあいだの補給路に影響したかもしれません。 満州は日本の勢力圏にはならなかったかもしれませんね。 でも、案外満州の日本権益が存在しなければ必然的に大陸進出は出来なくなりますから、 結果として日本の海洋進出、英国との関係の維持、強化など、 もしかすると太平洋戦争でコテンパンにやられるルートでない歴史となったかもしれませんね。

azuki-7
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  • jkpawapuro
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回答No.4

私は対馬海峡という隘路で待ち受けることができなければ、日本海海戦はMAX相手戦力の半壊どまりだったと思います。 そうなるとウラジオストックで艦隊の整備補給をおえたらロシア艦隊は日本艦隊との決戦を避けつつ遊撃戦を展開して日本の海運の妨害に走ります。津軽か宗谷かわかりませんが足の速い艦を集めて太平洋に突破し、北海道~東北~本州~名古屋~大阪間の太平洋の海運を妨害にかかるわけです。 これによる日本の経済的な損失は馬鹿にならないでしょう。ただし鉄道が広島までありまた制海権的には日本優位でしょうから大陸への軍需輸送が半減するような大打撃とは思いませんが、やはり影響はでかいと思います。 海運の阻害によりうける日本の経済的損失、日本海海戦が完全勝利とならなかったことによる外債調達の難航か、バルチック艦隊が通商破壊戦をはじめることにより大陸のロシア陸軍も反転攻勢にでます。 じりじりと満州で戦況が悪化し、おおはばに史実より悪化した形でのポーツマス条約締結になると思います。 おそらく朝鮮半島における優越権の確立と、遼東半島の租借権を日本に移すまでで、満州はロシア支配のままに終わったのではないでしょうか?

azuki-7
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  • oska
  • ベストアンサー率48% (4105/8467)
回答No.2

>もしもう1日対馬に留まらず津軽に移動していたら、日本はロシアに負けていたでしょうか? 可能性は、ゼロとは言えませんね。 バルチック艦隊の敗北の原因の一つに「燃料・食料の過大積載」があります。 アフリカ大陸(喜望峰)をまわって、インド・インドシナを経由して旅順に向かう訳です。 通常だと、燃料・食料は「各々の寄港地で調達」しますよね。 ところが、バルチック艦隊は「各地で、寄港を拒否」若しくは「燃料・食料の調達拒否」を受けます。 イギリスをはじめとする欧米各国は、ロシアへの協力を暗に拒否したのですね。 調達が出来ない事が分かると、出航時に「必要な食糧・燃料を積載」する必要がありますよね。 弾薬を減らす事は出来ませんから、過積載状態。 各艦船の安定性・走行性能は、確実に落ちます。 開戦時には、100%の能力を発揮出来なかったようです。 ところが、東郷艦隊が津軽に移動していれば・・・。 当時の朝鮮王国(大韓帝国)は、宗主国の清国が日本に敗北した結果「ロシアに急接近」していましたよね。 バルチック艦隊に、食糧・燃料を供給する事は誰でも想像出来ます。 朝鮮に寄港する訳ですから、乗員も上陸。休息をとってリフレッシュ出来ます。 出航してから、久しぶりの上陸。気分的にも、戦意が上がります。 物資(乗組員・艦船)ともにリフレッシュすれば、出航時の戦力と同じ。 艦船の動きも(朝鮮寄港前より)機敏になります。 実戦経験が少ない東郷艦隊としては、脅威になったでしようね。 勝敗は、誰にも分かりません。 津軽海峡の気象状況も、考慮する必要があります。

azuki-7
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  • titelist1
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回答No.1

対馬の位置でロシア艦隊を発見して、津軽から日本海軍が直行しても距離的にウラジオストック近海で海戦になっていたでしょう。双方が被害を受け、ロシア艦隊はウラジオストックに逃げ込み、日本海軍が待ち伏せ攻撃しようとしていた目的は半分ほどしか達成されていなかっただろう。そうなると日本海の制海権は互角となり、旅順の攻略も困難になっていた。日本の戦費は底を付き中国からの撤退もあったかもしれない。おそらく満州はロシアのものになっていた。

azuki-7
質問者

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