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人として基本的な大切な価値

ラジオのパーソナリティーが言ってた「咎める」という言葉で思ったのですけど。 基本的な価値観があっての「咎める」ですよね。 インターネット技術でどこまでが犯罪でというのは技術が進化する中で法的な問題など進化していくものではあります。 しかし、窃盗、傷害、殺人、嫌がらせなど害悪はしてはいけませんし、 聖邪あるいは俗は逆転とかはあまりしないものであると思います。 仏教など伝統の価値であるとか、同性愛に対してどう思うかなどの進歩的な価値であるとか。 関係なしに、大きく変わらない価値ってあると思います。 いくら正当化しても牽強付会であったり、低級な欲ってその個に対して正しいだけで人の社会を維持するうえで人としての善悪というものでは決まっている問題かと思います。功利主義のみんなの利益というものとも少し違うと思います。進歩や変えることや革新、やる気のために傷害を起こすのは人として良くないですよね。 反進歩が当然いいわけではありません。 人として変わらない大切な基本的な価値って何でしょう? 時代や場所だから変わるともいいきれないものってたくさんあります。多数決で変えてもダメなものも多いです。普遍的というのでしょうか? 嘘とかはだめとされてますね。 おおむね伝統はそのことが含まれてはいるかとは思います。揺らぐとかの意味で変えすぎは善くないものでもあります。 真善美、正邪俗、自然犯などの部分など。 最近はなぜ咎めるがなかなかできなくなったのでしょう?

みんなが選んだベストアンサー

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  • ucyuuneko
  • ベストアンサー率17% (63/354)
回答No.7

物事は多面性があり、一方的な見解だけで行動すれば、『リンチ』にもつながりかねません。『必殺仕事人』は見る分には痛快ですが、ある意味では正義、ある意味では犯罪ですよね。

その他の回答 (8)

回答No.9

>人として変わらない大切な基本的な価値って何でしょう? 哲学の根本命題でございます。 哲学は科学ではありません。 哲学は、哲学をする人、ひとりひとりの個性に立脚して結論(=価値観)を導き出します。 >最近はなぜ咎めるがなかなかできなくなったのでしょう? 日本に近代的な個人主義が根付き始めたからではないでしょうか。 個人主義を消化・吸収する過程で、誤ってゲマインシャフトにまで個人主義を持ち込んでいるのが、現代日本の問題ではないかと思います。

  • ways
  • ベストアンサー率31% (79/253)
回答No.8

食料は必要なだけ求めて、なるべく無駄なものを出さない、世のため人のため自分のために働き、家族や人と仲良く、困っている人には相談に乗る。

回答No.6

価値ではない自覚だ。 私は生きている。 これだけの自覚だ。 そして生き続けるためには他者と協力するよな。 ここで生きている者同士、自らが生きることが他者を自らに等しく生かすこととなる。 これ自体は私の考え方なのだが、人間には納得がいかない事なので、神にゆだね、「アマテラスの善し」と言っている。 人間の圏外は、自分の事だけで、他者を等しく生かす協調など実践できないわな。 人間教育は失敗だった。 そのまま身体が機能停止して死を迎えると、精神は死の安らぎに眠る。 死後仏となって覚醒することは無い。 死んでお終い。 天国に行く者と地獄に行く者はこうしてきまる。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.5

pkuobe99様、今晩は。 >「人として変わらない大切な基本的な価値って何でしょう? 時代や場所だから変わるともいいきれないものってたくさんあります。多数決で変えてもダメなものも多いです。普遍的というのでしょうか? 嘘とかはだめとされてますね。 おおむね伝統はそのことが含まれてはいるかとは思います。揺らぐとかの意味で変えすぎは善くないものでもあります。 真善美、正邪俗、自然犯などの部分など。 最近はなぜ咎めるがなかなかできなくなったのでしょう?」 「自由」だから、ですか。 対するに「咎める」とは「私刑」に過ぎないものかもしれない。

noname#207138
noname#207138
回答No.4

こんにちは。 誰もこういった事を話題にしなければ私が変わりにこういった質問を挙げるのですが、今回は質問者さまがこの質問を挙げていらっしゃるので、私はまた別の立場から。 例えば、自分が世界の頂点に立つ力を持っていると想像してみてください。 そしてその時のあなたには善意とか親切と言った類いのものが少し欠けている。 上から今この質問を見ているとしたら。 「力の無いやつが何を探り、何を探り当てようと、誰が私に敵う?万が一私を発見できたところで誰が立ち向かう?お前らはそこで死ぬまで疑問に思っていろ」とでも意訳できそうな「無関心」がありそうな気配はするでしょうか? まあ実際ある意味その通りです。 どれだけ真実に迫っても「力」が無ければある種むなしい。 私たちは正義を知り、発展させるとともに力を持たなければなりません。 その為にはするべき事が山ほどあり、永遠のカス(笑)と一時のカスの区別をつけなければなりません。 一時のカスなら働きかければカスを止め、正義の味方になってくれるでしょう。 しかし永遠のカスに時間を割くのはリソースの浪費です。 ストレスのはけ口位にしか役に立たない。 力を使わない事によってしか迫れない真実と、力によってしか迫れない真実と、大きく2種類ある気がしないでもない。 そして、この両方を理解しなければ、恐らく結局は「自滅」というにふさわしい争いを巻き起こす事になる。 これは上から見ているあいつの思うつぼです(笑) 正義の促進発展は、力の促進と発展も兼ねなければならない。 私はそう思う面もあります。 そして「力」が働く時は理性はあまり意味をなさない。 仏教で言うところの仁王様とかにあたるんでしょうか。 言葉の通じない相手に「力」によって抑制したり働きかけたりする。 私は仏教徒ではないので仁王様に対する誤解かもしれませんが(笑) 力によって何者かが削ぎ落されている時、それを絶対悪だと断ずる事はできない。 「禊ぎ」とはそういう部分を含まなければ、ただ水に入って何の意味があろう? (余分な)心を削られ、(余分な)精神を削られ。 これらもとても大切に思う。 ですが、これらは悪意によっても起こる。 この区別をつけるのは簡単ではないかもしれないが、そう難しい事でもないかもしれない。 頭でっかちを止め、誠と真の下で理性と思考と感情と気持ちと思いと心とで全身全霊生きる事。 これが今の時代なにげにとってもとっても大切に思えます。 (無意味に)肉体を長く生きさせ、(無意味に)肉体を快適にさせ、(余計な)心の満足を求め、(余計な)精神のケアをする。 これらは諸悪の根源と言って過言ではないかもしれませんね。 (余計な)心は死んでしまった方が結果その本人のためになる事も多いですし、(余計な)精神は滅びてしまった方が新しく生きる事ができる事もある。 「自分とは何者か、どういうものか」の定義が堅過ぎて、その定義を傷つけられる事を自分自身を傷つけられる事と考える人も多いかもしれませんが、その実単なる認識の形式の一つに傷が入ったに過ぎないという事も多々あろうかと。 だから、言葉で定義できるとすれば「愛」とか「親切」とか「博愛」とかそういう言い方であれば良いけど、具体的な言動については何も定義付けできない。 親が子供を強く叱るのと、精神不安定野郎が小さい子を捕まえて怒鳴るのとは違うが、見た目は同じ。 洞察力と冷静な判断力、真と誠に向かい続ける強い意志とかそういういわゆる「精神論」的にしか言えなくないですか? あくまで私はいくつかの視点を持っており、今回は質問者さまがこの質問を立てたのであえて別の角度から発言しただけです。 質問者さまと恐らく同じ視点や価値観も持ち合わせているつもりなので、一つの題材についての一つの意見ということで。

noname#208724
noname#208724
回答No.3

人として変わらない大切な基本的な価値は、社会の構造や主義ではなく、未来を見つめる希望だと思います。 前向きであること。諦めないこと。 それについで構造的なものを見直し、技術的に解決することなどを考えることができます。 咎めることの正当性について。 絶対的な脅威を目の前にすれば、脅威を防がない者に対しては、絶対的な正義として咎めるのは難しくはないと思う。巨大津波を目の前にして、津波の当事者で、利益を得る人と被害を受ける人が半々に分かれることはまずないと思うから。地震も噴火もそうだし、科学で防げない脅威、また逆に科学によって引き起こされる脅威。 また別の視点では、どうしても構造を重要視する傾向がある管理職などが咎める場合は、塔の上から構造を見下ろすことになるので、気が付けば構造だけが残り、人が死んでしまって誰もいなくなったりします。 まとめると、「価値には認識の階層がある」あるいは「認識の階層ごとに固有の価値をもつ」という風に考えます。

  • kohichiro
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回答No.2

>人として変わらない大切な基本的な価値って何でしょう? 価値観というものは、人間、個人が勝手に決めているものですから、人それぞれで、認定された世界共通人類普遍の価値体系というものは厳密には存在しないと思います。これに、その人が属する社会、時代がくくりとして現れて、はじめてその社会が決めている価値観が適用されるわけでしょうね。 強いて真剣にそれを探そう考えようと思えば、おおむね古来から深くそのことを考え抜いて文字化してきた宗教者とか哲学者たちが残した膨大な言葉の山を見直さねば成らないと思います。そういったものが歴史になってそれぞれの社会の伝統になっているのでしょう。自由主義が一般になり行過ぎるほどになり、個人主義がそれに拍車をかけて現代の混乱が始まったと私は思います。 >最近はなぜ咎めるがなかなかできなくなったのでしょう? 価値観、倫理観が個人の思いに任されるようになってきた、そのために社会共通の倫理観が否定されたりして揺らいできた、法律で明確に禁じられていること以外のモラルの断片は、よほど地位のある人の発言でなければ説得力をもたなくなったということではないでしょうか。教師の存在が価値をさげたり、学級崩壊もそこからきているのでしょう。

回答No.1

量子論的世界像において、世界は人の意識の中にしか 存在せず、意識=意志として、価値=生きる目的は、 意志の充足=幸福感の人生を通算した最大化にある。 それが、様々な社会的制約(善悪、正邪etc.)が加わ るのは、その意志が自己中心的・低認識であり、真に 「人生を通算した充足量の最大化」を目指しておらず、 目先の短絡的な快楽や、そうした自己チューな意識を 他律的にコントロールするためのお金や虚栄心などの “馬車馬の目の前のニンジン”によって操られる(抑制 =欲求の内的対立)ようになっているからだ。 そうしたアメやムチによって操られるのではなく、 分業化=自己の生の社会的拡張を把握できるだけの 認識の深まりを醸成し、自己存在の本質に根差した 自律的生=愛による助け合いとしての社会行動= 生きること自体による根源的な喜びにおいて、真 (本質の認識)、善(社会的必然)、美(充足感の 追及)は統合され、他の喜びを自らの喜びとし、 全体の最大機能を自ら(社会生命)の成果として、 嘘も強制も我慢もない、唯一の価値を成す。

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