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満州帝国建国後の新京における関東軍兵士の存在
趣味の小説執筆で以下の知識が必要になりました。 1.満州帝国建国後は、満州軍が首都警備にあたっていたとおもわれますが、その間関東軍兵士は新京に駐屯していたのでしょうか? 2.例えば、関東軍司令官、武藤信義の警護の武官、送迎に当たった運転手はどのような人物だったのでしょうか? つまり、関東軍の兵士なのか、軍属か、あるいは民間人だったのでしょうか? 3.終戦時の部隊配属一覧によれば、関東軍補給部に独立自動車第64大隊の名が見えますが、 この部隊は、いつから、どこに配属されていたのでしょうか? 以上、まことにとりとめのない、厄介な質問ですが、どなたかご教示いただければ幸いです。
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- yatiyochan
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1:満洲国建国当時の首都新京には、満洲国禁衛軍と、関東軍部隊として獨立守備歩兵第1大隊(長:小川大佐のち本間中佐)、歩兵第4聯隊(長:森尻大佐のち石原大佐)などが駐屯していました。第1大隊は吉林省要地及び鉄路警備の任に当たり、第4聯隊は満洲駐剳(ちゅうさつ)として派遣されていた第2師団歩兵第3旅団隷下部隊でした。 2:昭和期軍司令部は、軍司令官と幕僚および各部(経理部・軍医部・兵器部など)に大別され、さらに幕僚は参謀部、副官部に分かれます。このうち副官部は、今の会社でいうと秘書、庶務などの業務を担当し、高級副官は秘書室長と庶務課長の役割を果たしていました。すなわち高級副官は管理部長を兼任し、部長として質問にある司令官警護や車輌手配などを統括しました。さて、武藤大将二度目の司令官親補をさすのでしょうが、昭和7~8年当時でいうと、1の部隊から司令部衛兵要員として出向し管理部衛兵隊長指揮の下、任務についていました。他の聯隊の事例から推察すると第4聯隊からは最大で一個大隊が出ていたと考えられます。第2師団の内地帰還に伴い交替の第10師団他が到着する間は、歩兵第1大隊からの要員が中心となって警護しました。軍司令官の車輌は、在新京の関東軍自動車隊(長:落合中佐)からの配属車輌を使用し、同隊は民間から徴用した乗用車(外車もふくむ)からなる中隊を有していました。 3:関東軍自動車隊は、昭和11年11月に自動車第1聯隊(長:米山大佐のち河根大佐のち川崎中佐)に改編され、引き続き新京にあって輸送任務に従事すると共に前任務を継続し、その後ノモンハン事件に参加しました。同聯隊は、昭和16年7月のいわゆる関特演に際して独立自動車第64大隊(長:川崎中佐のち城戸少佐のち小田大尉のち早川少佐のち薦岡大尉)に改編されました。同大隊の本部、第2~4中隊、材料廠、教育隊は新京にあってその一部を以て前任務を継続しました。終戦時には同大隊の第3中隊が関東軍総司令部管理部に配属されていましたが、二個小隊を残し奉天へ移動しました。
お礼
早速、大変有益なご回答いただき、感謝申し上げます。特に2の回答が大いに参考になりました。 おかげで、ストップしていた小説の執筆を直ちに再開することができます。 本当にありがとうございました。