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江戸幕藩制下の藩の役人の身分

関八州取締出役は勘定奉行配下の吏員であるが、身分的には足軽であったとの事です。 それではたとえば水戸徳川家の銭蔵係という三家で24時間交代制の警備の吏員もやはり足軽身分であったと見るべきでしょうか? その場合の足軽は無論、下級武士ですよね。

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回答No.1

こんにちは。 足軽についてですが、3代将軍家光が「武家諸法度」を発布するにあたって、例えば、町奉行所などについて言えば、それまでの戦国時代で活躍した「足軽大将」だった者の中から「与力」をつくり、足軽で功績のあった者の中から「同心」をつくりました。 従って、それ以後は「足軽」という言葉は「死語」となりました。 そして、身分についてですが、「与力」は旗本と御家人の中間位、「同心」は御家人格と位置づけられました。 さて、銭関係についてですが、少し話が飛びますが、 千代田城にも「御金蔵」が富士見櫓の近くにあり、老中支配下の勘定奉行支配下に「金奉行」(かねぶぎょう)という役職がありました。 幕府金庫の出納経理を役目とし、当初は躑躅之間詰だったが、後に焼火之間詰となった。元方、払方の二部に分かれ、それぞれ収納と支払いを担当。定員は各4~7名。「金銀出納奉行」または「諸国金銀奉行」とも呼ばれました。 「金奉行」の配下に「金同心」(または「金蔵番同心」とも呼ばれた)がおり、「金同心」は、明和3年(1766)3月に守衛役として20人を下僚として付属させたのが始まりとされています。金同心は30俵3人扶持で、定員22~23人。同心元締め(3~6人)は役高のほかに役料5両が支給された。 この「金同心」が交代で金蔵を24時間体制で見張りや警護をしていました。 次に、紀州、尾張、水戸などの御三家ですが、 「家老」直属で、やはり「金(蔵)奉行」と呼ばれる者が2~3人おり、同じく、「金同心」が20人位いて、千代田城と同じように24時間体制で見張りや警護をしていました。 この「金奉行」にしても「金同心」にしても、信用の置ける者が選ばれましたので、確かに、下級武士ではありましたが、いわゆる、殿様の身辺警護をするような武士よりも信頼が厚く、厚遇されてそれ相応の待遇だったようです。 また、各大名家はと言うと、 これも、何事も公方さまに右に倣えでしたので、例えば、千代田城の「表」「中奥」「大奥」を真似て、規模は小さいながらも「表」「奥」とに分かれていましたし、食事の作法なども公方さまに見習えで、大した食事でもないのに、作法だけがうるさく、大名たちはへきへきでした。 このような状態でしたので、「家老」直轄で「金奉行」もおり、「金同心」もいたと思います。やはり信用の置ける者がその役職に就いたと思われますので、下級武士としてはかなり優遇されていたと思います。 これについては、詳しく古文書などを調べれば判るとはおもいますが、このような職務分掌を詳しく調べたり、公表している研究者がいない(少ない)ため、多分、千代田城や御三家等を真似たのではないか・・・。というところが本音です。

krya1998
質問者

お礼

ご多忙にもかかわらず、いつもありがとうございます。

krya1998
質問者

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父は石高は少し大げさに言っていましたが、まぁ何人扶持というのとは違ってはいました。 ありがとうございました。

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回答No.2

追伸: 「金奉行」は当初から旗本から選ばれましたし、 「金同心」も後には御家人からも選ばれました。

krya1998
質問者

お礼

ご多忙にもかかわらず、いつも貴重なご解答を賜り心より感謝申し上げます。

krya1998
質問者

補足

水戸徳川家の家禄を離れて、水戸よりだいぶ距離のある霞ヶ浦近くにいた本陣である親戚の近辺に広大な荒地を耕してきた先祖はいかにもえらそうにしていましたが、足軽は死語となりいわゆる同心という舞鶴でいう旗本、御家人の中間にあったのですね。まぁ父の言っていたことと正に一致します。 ありがとうございました。

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