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江戸詰の藩士
長く江戸に詰めている藩士(任期の長い留守居役など)で、国許に妻子がいるのも関わらず、江戸でも妻(正妻ではない?)を持った人もいたようですが、これはごく普通の事だったのでしょうか? 「江戸お留守居役の日記」に出てくる幕初の長州藩江戸留守居役・福間彦右衛門は、国許に妻子がいて、留守居役を拝命して江戸に来て、江戸でも妻(他藩の武士の娘)を娶り、任期満了で帰国する際には江戸の妻とは別れて国許に戻っているみたいです。 国許で何十年も待ってる方も、任期満了で帰国する夫と別れ江戸に留まった方も、現代人の感覚からはなかなか理解に苦しみますが、当時としてはままあったことなのでしょうか。 素人の質問ですみませんがご教授頂ければ幸甚です。
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質問者さんのご指摘の例は少なかったんじゃないでしょうか。 大概がNO.1さんのご先祖様のようだったと思います。 江戸詰めの人は代々そうなもんですから、言葉も江戸弁に変わってしまい、幕末のゴタゴタのとき、佐幕でいくか勤皇かの意見調整のために帰国した人は、意見の違いの上に言葉の違いもあって苦労したという話を聞いています。 加賀藩の例では、江戸への単身赴任者に対しては単身赴任手当てが出たようです。↓ http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/2000Kaga/04/040200.html 江戸留守居役といえば相当な上位職です。 当時は各藩の留守居役で情報交換や相互援助のための留守居役組合というものがあって、寄り合いのたびに交際費をたくさん遣っていたようです。 質問者さんご指摘の「江戸お留守居役の日記」は読んだことはありませんが、藩のお金もかなり自由に使えたと思います。 福間さんの江戸妻が公認であったかどうかは知りませんが、それくらいの維持費は問題なく工面できたのでしょうね。 http://www.city.tsuyama.okayama.jp/chikujo400/history/rusuiyaku/index.html まるで現在のサラリーマンと同じですね。小生も東京本社へ単身赴任のときは、単身赴任手当を貰いました。 また、同業他社の同職位の人たちとの情報交換会が、年2回観光地であり、会議の後は飲めや歌えの・・・ということになりました(談合ではありません)。
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- Willyt
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私の先祖は尾張藩士でしたが、江戸屋敷開設以来明治維新までずっと江戸詰めで、勿論家族一同は江戸に住んでいたと聞かされています。青山にある家で家族ともども明治維新を迎えたそうです。こういう藩士はごく普通にいたようですよ。先祖代々尾張名古屋へは一度も行ったことがないという徹底ぶりでした。
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ご先祖が尾州家の藩士だったのですね。 幕初から幕末までずっと江戸詰めでしたか。先祖代々名古屋へ行かれたことがないというのもすごいですね。 名古屋は当時も日本有数の大都会でしたけど、田舎の小藩の代々江戸詰めの藩士は都会暮らしの便利さに慣れすぎてある日突然に国許勤務を命ぜられたりしたら絶望したかもしれませんね。 旗本の問題児は甲府勤番として山深い甲府へ山流しされて絶望したと聞きますが、もし代々江戸詰めの藩士がいきなり国許勤務になったらそんな心境だったかもしれませんね・・・ ありがとうございました!
お礼
江戸詰は代々江戸詰という人も多かったのですね。 江戸留守居役は小藩では家老相当の重職だったようですね。毛利家の福間彦右衛門は家禄三百石(後に五百石)だったようです。 「江戸お留守居役の日記」は東大の山本教授が書かれていて第一級の史料に基づいて書かれているという事で面白い本でした。彼の著書は「江戸城の宮廷政治」もそうですが私のような素人にも分かりやすく平明に書かれている好著が多いです。 留守居役の組合には藩主も手を焼いていたようですね。 藩主よりもよほど良い物を料亭で飲み食いしていたといいますから呆れます。 毛利秀元が江戸城で持参した弁当を広げた時に、おかずに入っていた鮭の切り身がよほど珍しかったらしくて大名が集まってきてお裾分けしてもらい「これは珍味」と喜んだそうですが、それと比べて食生活だけは現代は本当に豊かになったものだと思います。 今も昔も同業他社との交流は大事だったのですね。 ありがとうございました!