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フーコーの生政治学
フーコーの生政治学がよくわかりません。 生死、どう生きるか、を権力が統制する政治のこと、でよいのでしょうか?
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フーコーの生権力、あるいは生政治というのはフーコーの晩年の「監獄の誕生」以降の考え方で、現代社会あるいは国家の権力の在り方を述べたものです。 近代以前、権力と言えば国家権力が典型で、それを考えてみれば分かりますが、人民を統治するために犯罪人を公開処刑することで死の恐怖を人々の心に植え付け、さらに法というものを強制して人民を脅しました。 私たちはすぐ国家権力と言い、権力は国家が独占しているものと思っていますが、現代の国家はそのようなものではないのです。 そういう権力を「マクロ権力」と言えば、現代は「ミクロ権力」であり、現代社会の隅々まで、見えない形で浸透しています。 家庭にも、会社にも、工場にも、病院にも、…・・・至る所に。 しかも、人間を死の恐怖で脅すのではなく、人々を「生かす」という形で。 それを「生権力」と言います。 フーコーは「監獄の誕生」で、ジェレミー・ベンサムの「一望監視システム」を論じています。 「一望監視システム」とは現代社会の国家権力の「メタファー」で、一昔前の刑務所は建物が放射状に作られ、その真ん中に監視所を設け、囚人のいる部屋をその監視所から一望のもとに見られるように作られていました。 そうやって囚人を監視していたわけですが、大切なことは監視していることでは無くて、監視されていると囚人に思わせることです。 つまり「視線」です。 誰かに見られている、というのが現代社会の国家の在り方の一つです。 たとえば現在、町の至る所に監視カメラが設置されていて、私たちはその存在に気づきませんが、監視されているという感じは持っています。 それが犯罪の抑止になります。 それと、これはフーコーが言っていることではなく、ルイ・アルチュセールの「国家と国家のイデオロギー装置」という論文で言っていることですが、イデオロギーというのは言葉だけでは継続性がないので、何か組織に装置の形で存在しないと受け継がれないと言っています。 装置とは、現代社会の組織というものの全てが備えているもので、会社・病院・軍隊・学校・自治体・国会・政党・農協・NPO・各種協会・寺院・教会・刑務所…・・・・およそ組織と言われるものには組織としてのイデオロギーがあり、そのような組織が集まって国家というものを作り上げています。 そしてフーコーによれば、そのような組織では、日々「身体訓練」が施されています。 フーコーはそれを「規律権力」と言っています。 刑務所には刑務所の規律権力があり、身体訓練を行なっています。 軍隊のように整列して、点呼を行ない、整列して行進し、毎日決まった時間に入浴します。 学校にも学校の規律権力があり、毎朝、朝礼をやったり、みんなで校歌をうたったり、運動会をやって一等賞を上げたり、成績表を展示して、生徒を成績順に並ばせたり、そうやって生徒が社会に出た時に、下のモノは上のものに従うような訓練が施されています。 頭にイデオロギーを植え付けても、すぐ忘れ去れますが、肉体に植え付けられたイデオロギーは一生続きます。 それがフーコーのいう「生権力」であり、「生政治」です。
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 わたしも分かりませんので 質問をしています。それを掲げてみます。 ☆☆ 【Q:フーコーは 人間は権力人だと見たのですか】 ~~~~~ http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4877805.html 【Q‐1】 かつての実存主義で言うように 権力ないし権力関係というのは 社会生活において一般的に見られるものであって それは 基本的に言って 人間関係における視線の上下関係のことを言うと捉えてよいのでしょうか? 【Q‐2】 もしそうだとして このように 視線をそそぐ・受けるという関係が たとえば西欧中世では《羊飼いと羊の関係》のごとくであったと考えられるが これは そういう《認識の装置》が 大きく言って《物語》として 人びとに共有されたことを意味する。これで よいでしょうか? 【Q‐3】 この《認識の装置》としての物語は いわば 権力関係の素であるように思われるのですが それは どこから来るのでしょうか? たとえば 《構造》から来る。もしくは社会の総体的な《構造》じたいが そういうものである。ということでしょうか? 【Q‐4】 このような構造ないし物語が どの時代にも はたらいて その意味で一定の文明をかたちづくっているとするのならば 人間は 権力関係人ないし権力人(――これを ホモ・何と言えばよいでしょう――)であると規定したと捉えてよいのでしょうか? 【Q‐5】 もしすべてこのようであるとすれば そのときには フーコーは そのように自分の紡いだ《権力人物語》を 人間と社会とに あらたな認識の装置としてのごとく おおいかぶせようとした。としか捉えられないのですが じっさいのところは どうなのでしょう? おおしえください。 【Q‐6】 わたしの見るところ どうも 《構造》を 人間の意志の与り知らない《無主体の過程》であると捉える前提があって 簡単に言ってしまえば この前提が わざわいしているように思えるのですが どうでしょう? ☆☆ (回答No.1へのお礼欄からの抜き書き) ~~~~~~~~~~~~~~~~ ◆ (回答No.1) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (α) フーコーはこの「権力の効果」に対して、それは抑圧の仮説に過ぎないのではないかといって批判したのでした。 (β) 「主体」という存在によって、中央集権的に権力が生まれるのではなく、そうではなく「主体」こそが、地方分権的にそこ彼処に偏在している権力の戦略によって、生み出されたものだと言ったわけです。 (γ) 従来のかたちで権力が語られるとき、それは「――をするな」という禁止の形態を取るのに対し、フーコーのいう権力の戦略とは「規律」、すなわち「――になるべき」という当為の形態を取る。 (δ) この制度的な権力に対して、彼は言及をします。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ (δ)は その《制度的な権力》が 全体の文章にかかると採りました。 細かい点について疑問・質問を持ちましたので ただちに お尋ねしてまいりたいと思います。 (1) (α)にかんして。視線を上からそそぐ場合 それは 《抑圧》するかたちで 従属させるという《効果》を期することもあれば 《道徳や社会慣習の規範に 倣うべし》という効果を期することもあると思いますが その点 どうか。 (2) (β)ですが。(1)の後者の場合には 規範に従いなさいという権力関係が 効を奏したなら 《そこかしこに》 この規律人間という意味での《主体》は 生まれてくるでしょう。そういう見方は どうなのでしょう? (3) それ(=規律人間という意味での主体)は 言うならば 一定の社会形態(つまり 国家)の ◆☆ 〔それがどのように生じたにせよ〕権力が 中央集権的に統治するときに 生まれてくる。 ☆ のではないでしょうか? (4) 次の分析内容が いまひとつ わかりにくいです。 ◆ 「主体」こそが、地方分権的にそこ彼処に偏在している権力の戦略によって、生み出されたものだと言ったわけです。 ☆ つまり 《主体》が生まれる前に ここで言う《権力の戦略》が生起していることになっています。 ◆ 地方分権的にそこ彼処に偏在している権力の戦略 ☆ これは いったい どういう主体なのでしょう? 何ら主体ではなく 《構造》のことなのでしょうか? どのように生起してきたのでしょうか? (5) (γ)および(δ)は この上での考えに従えば 従来の《権力》概念で捉えても 現象すると考えるのですが その点 いかがでしょう? ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ フーコーは権力一般の問題意識から、極めて近代的な権力を切り取っていると思います。・・・どちらかというと通時的な問題を立てるのではないと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ たぶん このご指摘を前提として 全体として ご質問していると思います。ですから 時代による《断絶》があっても 《認識の装置=物語=権力》は 次々とあらたに 生起してくると捉えているのではないでしょうか? というのが ここでの推測です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 結論は――不案内でしょうが―― フーコは勝手なことを言っている・勝手な見方をしているとなると考えます。
お礼
回答ありがとうございます じっくり読ませていただきます
お礼
なるほど… わかりやすく教えてくださりありがとうございました!