18世紀の啓蒙主義は、それまでの呪術的世界観を追放し、人間や世界を科学的・合理的に考えることに成功したが、人々を呪術から解放した後は啓蒙的理性は反動に転じ、道具的理性に転落し、自然や人間を支配し、それを破壊するに至った。
アドルノ・ホルクハイマーの「啓蒙の弁証法」にそのことが詳しく論じられています。
18世紀以前は、人間の頭がおかしくなると魔物が憑りついたと言って、あやしい呪術師がお祓いをしたり、祈祷をしたりして魔物を追い払おうとしたり、あるいは女性に魔女が憑りついたと言って、火焙りにしていました。
しかし、18世紀以降は、それは人間の心理の問題で、精神医学が発展することで解決されて行きました。
また、18世紀以前は神が存在すると思われていて、その神が国王に統治を委任したと「王権神授説」が信じられていましたが、17世紀末にロックやホッブス、あるいはルソーが神なんかいないんだから、その神が国王に統治を委任したなんてあるはずがないと言って、社会契約説を唱え、絶対王政を打倒して、新たに国民を中心とする共和制の国家を作って行きました。
そこまでは啓蒙的理性はひじように役に立って、新しい時代を切り開く原動力になったといえます。
しかし、19世紀になると、もう絶対王政は消滅したし、共和制の世の中になったし、魔女騒ぎもなくなったし、人間の頭が狂っても、精神医学がそれを治すようになったし、………そうなると啓蒙理性は変質を蒙らざるを得なくなりました。
啓蒙理性は道具的理性に、技術的理性に変質し、人間や自然を支配する力になりました。
「時は金なり、知は力なり」、の時代がやってきたのです。
権力は知を独占することによって、あるいは道具的・技術的理性を用いて、自然を支配し、改造し、破壊してゆくと同時に人間を支配の対象として社会の中に組み込んでゆきました。
具体的にはメディアを独占し、広告宣伝を駆使して、人々のモチベーションを操作し、商品を買わせるように仕向けました。
今や私たちはそれが欲しいから商品を買っているのではなく、メディア・広告宣伝によって、商品を買わせられているのです。
もはや啓蒙期にあった人間の理性の自発性、自由、が形骸化し、人間の主体性が失われるにいたった。
フーコーが言う権力とは19世紀的な国家権力とは違い、見えない権力、社会の至る所に存在し、社会の隅々に存在する「ミクロ権力」です。
あなたの家庭の中にも存在し、学校の中にも存在し、病院の中にも存在します。
なにも昔のような警察権力だけが権力ではありません。
誰もが知らずに持っている権力、身近にある権力です。
社会・国家の権力、その「マクロ」権力は、社会の隅々に、至る所にある「ミクロ」権力の集合体です。
20世紀になると啓蒙的理性は道具的・技術的理性に変質し、二度の世界大戦と、原爆の発明につながり、さらに環境汚染、自然破壊、大気汚染、を引き起こすに至ります。
そうした時代に、改めて啓蒙的理性への懐疑が持たれるようになり、今やそれが否定されるに至ったのです。
お礼
urigadai2013 さん ありがとうございます。わかりやすいです!この啓蒙主義の考え(合理性などは)はユーロセントリックなのでしょうか?それとも普遍的なのでしょうか