• ベストアンサー

音楽って何のためにあるの?

 っていう問いは成り立ちますか?  わたしが音楽を聞くのは 心地よいからですが ほかに目的や効能などがありますか?  あるいは理屈を言えば 音楽も絵画美術などとともに芸術として いわゆる真善美の体験にかかわる――それによって わたしは我れに還る――ものだと考えるのですが 美としては 心地よい感覚の問題だと言ってはいけませんか?  音楽についての哲学ってありますか?

みんなが選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.12

 こんばんは > わたしが音楽を聞くのは 心地よいからですが ほかに目的や効能などがありますか?  以下のような曲を聞くと、運動会で頑張ったのを思い出す方もおられるのではないでしょうか。  音楽は、ひとの活気・活力を高めることもある(特に何かの祭典等には)、と思っております。 Hermann Necke - Csikos Post (Mail Coach) https://www.youtube.com/watch?v=DmBMVc-999U > 音楽も絵画美術などとともに芸術として いわゆる真善美の体験にかかわる――それによって わたしは我れに還る――ものだと考えるのですが  [ベートーベンと同じ1770生まれの] ヘーゲルは次のように述べていたようです(因に、ロッシーニ愛好家だったそうです)。 「不確定なものへ出てゆくのではなく、自己自身の中で分化し、自己へ帰還する運動としてのみ、メロディーは、それが表現すべきところの主観性の自由な拠自在性(自己のもとに安らって在ること)に適わしいものである。そして唯音楽は内面性というその本来の領域で直接的表白の領域に於いて理想性と解放を実現する。この解放は同時にハーモニー的必然に服してはいるとしても、魂をして或るより高い領界を聴衆せるものである。」 引用:ヘーゲルの音楽美学 https://www.jstage.jst.go.jp/article/philosophy1952/1959/9/1959_9_66/_pdf > 美としては 心地よい感覚の問題だと言ってはいけませんか?  以下に、カントの”趣味判断”に関するサイトを紹介致しておりますが、ここでの”  ”を”心地よい感覚”としてもじゅうぶん通じるところがあると思われます(ただし、カントは、音楽に関しては、ほとんど言及はしなかったようです)。 Wikipedia ”趣味判断” http://ja.wikipedia.org/wiki/%e8%b6%a3%e5%91%b3%e5%88%a4%e6%96%ad  なお、ここでの”趣味”は独語の”Geschmack(英:taste, flavour)”の訳語からきています。 > 音楽についての哲学ってありますか?  最も知られているのは、ショペンハウエルだと思います。特に、その後の芸術家達に大きな影響を与えたと言われています(思想家には散々だったようですが)。 ・芸術は、イデアを純粋に表象し、個々の争いやエゴを超越するもの。 ・これらから生じる苦悩。この苦悩から解放・解脱できるのは、芸術(特に音楽)をもってである。  概ねこのようなものだと思います。  余談ですが、ワーグナーを評価しなかったと言われています(ヘーゲルと同様、ロッシーニの大ファンだったそうです)。  ご参考になれば、幸いです。

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  Hermann Necke - Csikos Post (Mail Coach)のような曲を聞くと、運動会で頑張ったのを思い出す方もおられるのではないでしょうか。  音楽は、ひとの活気・活力を高めることもある(特に何かの祭典等には)、と思っております。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ええ。それで にわか仕込みですが ハレとケとの音楽というふうに理論づけたわけです。  ふつうの生活のリズム 日常性なるケのあゆみ( basis )の音楽とそして ハレなるときのリズムをつくる音楽と。  心としては やすらかな歩みとしての基礎とそして楽しさにも悲しさにも高鳴る調子を交えた状態と。  ★ [ベートーベンと同じ1770生まれの] ヘーゲルは次のように述べていたようです(因に、ロッシーニ愛好家だったそうです)。  ☆ ヘーゲルは 嫌われているほどには 大したことないわけではなく けっこういいことを言っていると思います。  ▲ 自由な拠自在性(自己のもとに安らって在ること) freies Beisichsein (引用文献 p.73 )  ☆ ですか。さとりだとか解脱だとかと ブディストなら言いたくなりそうな境地でしょうか。  ▲ 「不確定なものへ出てゆくのではなく、  ☆ おそらく一般に人びとは 知識を外から・また他人から得るという感覚があって 絵を見ても音楽を聞いても 一たんとしてでも外に出て行くというふうに思っているかも知れません。んにゃ! と言ったわけですね。  ▲ 自己自身の中で分化し、  ☆ 《分化》というのは ただちにはなじみませんね。それまでまだ知らなかったおのれの一面を見た・知ったというようなかたちで《部分》を言っているのでしょうか。(分かりませんが)。  ▲ 自己へ帰還する運動としてのみ、  ☆ もともと自然本性として われがわれであって しかも世の中の良きにつけ悪しきにつけのコネやシガラミをとおして やはり外に出かけてしまいがちですから(またそのようなマジハリにおいて 互いの共通感覚というのは 必然ですしヒトの社会性として大切なものでもあると考えられますが) わが固有の時においては われに還る。最初に引いた《自由でやすらかな われへの到来 freies Beisichsein 》ですよね。  ▲ メロディーは、それが表現すべきところの主観性の自由な拠自在性(自己のもとに安らって在ること)に適わしいものである。  ☆ 《メロディー》が挙げられています。リズムもハーモニーをもふくむものとしてでしょうね。  それにしても 曲がそのまま《主観性の自由な拠自在性を表現すべき》ものとして捉えられているのですね。    その調べが 初めに触れました《日から日への生活においてそのつとめを果たして行く地道なあゆみ( basis )》に沿っているなら そうなりますね。    ▲ そして唯音楽は内面性というその本来の領域で直接的表白の領域に於いて理想性と解放を実現する。  ☆ 《理想性》は いわゆる真善美でしょうね。  《解放》は すでに見て来た自己還帰・自己到来のことでしょうね。  《直接的表白》というのは 何でしょう? 音の調べが われらが心に直(ぢか)に入り込んで来るということでしょうか。いや 分かりません。  ▲ この解放は同時にハーモニー的必然に服してはいるとしても、魂をして或るより高い領界を聴取( Vernehmen  cf. p.73 )せるものである。」  ☆ 引用を直させてもらいましたが 《たましいの高い領界》ですか。  真善美だとすれば 《高い》でしょうね。ふつうの自然本性なるワレとすれば 高い低いは 必ずしも関係ないかも知れません。地べたの上でもよいはずです。でも たましいは 天翔けるのでしょうか どうでしょうか。  《解放》であると《同時にハーモニー的必然に服している》とは どういうことか?  われがわれであるやすらかな状態は ハーモニーが特に合っているということなのだろうか。  記憶という行為能力は おぼえるというハタラキよりも精神ぜんたいの秩序作用にかかわると見るのですが そういった秩序≒ハーモニーの問題として捉えられたということでしょうか。  おぼえるときにも 知識や情報の整序にかかわるのだと。しかも われは意識していないのに 記憶が勝手にはたらいている。この記憶なる領域は ハーモニーと相性がよいということかなぁ。  ▲ 高柳茂:ヘーゲルの音楽美学  ☆ は あとであらためて読むことにします。  次は カントですね。  ▼ (Wikipedia ”趣味判断”) これは人間が物事の情緒を味わう際の判断であり、ここで判断される基準というのは自身にとっての趣味であるかという事である。  ☆ 《情緒》でしたら 音楽にもとうぜんかかわりますね。  ▼ そしてこの趣味判断では美醜を判断する際には快苦を基準として判断されるという事であり  ☆ やっぱし快不快ですか。仕方ないですかね。情緒としては。    自分でも《心地よさ》と言っていますし。  つまり この快適さというのは 入り口でのことを言うのでしょうね。そのあと《自己到来》が よい音楽ならば 来るはずですから。  ★ なお、ここでの”趣味”は独語の”Geschmack(英:taste, flavour)”の訳語からきています。  ☆ 《味 schmecken 》から来ていると思ったら そのシュメッケンは 臭う( riechen; stinken )から来ているとか。いえ 独和を引いただけですが。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~   > 音楽についての哲学ってありますか?  最も知られているのは、ショペンハウエルだと思います。特に、その後の芸術家達に大きな影響を与えたと言われています(思想家には散々だったようですが)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうですか。回答No.1でのやり取りで ニーチェと一緒くたにしてしまいました。  ただし 《(思想家には散々だったようですが)》なのですか。    つまり ショーペンハウアーの《音楽哲学》を 芸術家たちはほめたたえるほどであった。そして 思想家たちは散々な評価をくだした。のでしょうか。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  ・芸術は、イデアを純粋に表象し、個々の争いやエゴを超越するもの。  ・これらから生じる苦悩。この苦悩から解放・解脱できるのは、芸術(特に音楽)をもってである。  概ねこのようなものだと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということですか。  《われがわれであるとき ほぼ生まれつきの自然本性に還っている》と思うのですが そのとき潜在的なエゴを持っていてもよいとわたしは思います。  あるいはもっと言えば 間違った推論を批判するときエゴをむき出しにして 論陣を張ってもよいと思います。人間の意志や心を踏みにじる内容の議論に対しては 言論の戦争をおこなってよいと思っています。その怒りを きよらかなおそれのもとに 対話に代えて批判するそのチカラを 芸術作品はあたえてくれることがある。こう考えます。  それではそのとき  ○ これら(個々の争いやエゴ)から生じる苦悩。この苦悩から解放・解脱できるのは、芸術(特に音楽)をもってである。  ☆ と言えるか? つまりおそらくわれに還るのは 芸術作品がきっかけになるということではないかと考えます。  還るべきわれは もともとあるわけですから芸術作品の中に概念やイメージとして――あるいはつまり《表象すべきイデアとして》―― かたちづくられているといった恰好なのではない。と思われます。  イデアは関係ないと思います。つまり プラトンのとしてはです。  そんな先入観を突き抜けて われはわれに還る。のだと見たいのですが。きっかけを音楽等はあたえてくれる。  ちょっと荒削りでしたでしょうか。  ショーペンハウアーは  ★ 余談ですが、ワーグナーを評価しなかったと言われています(ヘーゲルと同様、ロッシーニの大ファンだったそうです)。  ☆ ということですね。  ワーグナーは 話題として引っ張りだこですね。

bragelonne
質問者

補足

 ▲ 高柳茂:ヘーゲルの音楽美学   ☆ のレジュメです。  § まえがき  (あ) 音楽美学:カント; ヘーゲル  (い) 音楽観:ショーペンハウアー; ニーチェ  § 1 へーゲル美学の構成と音楽の位置づけ  (う) 芸術・宗教・哲学:《絶対精神》を内容としている。  (え) 芸術:直観を道具とする:美は 理念の感性的現われ      宗教:観念 〃      哲学:思惟 〃  (お) 芸術様式の分類・歴史的発展    a: 東洋的(象徴的):建築;精神的意味が限定的     ・精神を暗示する外的な容器に留る外はない    b: ギリシヤ的(古典的):彫刻;精神を個的形態に適合させたもの     ・有機体の身体の中に精神が現われている形態を表現するが、       尚心情の主観的内面性は未だ持たない。    c: キリスト教的(ロマン的)芸術様式:絵画・音楽・詩(劇をふくむ);       精神の直接的存在の有限性から精神自身への高揚の過程       ・彫刻迄がもつ空間の次元 Raumdimensionen が否定されて絵画が成立し、      更に絵画のもつ空間性そのもの Räumlichkeit selbst が否定されて      音楽が成立する。      このような完全な主観性への没入が音楽の基本的性格を形成する。        可視性が消え 聴覚 Gehör のみが素材として残る。  (か) カントの様式観     ・ 美は 美的理念 ästhetische Ideen の表現 Ausdruck     ・ 表現:言葉 Wort ・身振り Geberdung ・語調 Ton から成る       ・ よって      言葉の芸術:修辞術・詩      造形芸術:彫塑 Plastik(彫刻・建築術)・絵画      感情の戯れ Spiel der Empfindungen:音楽・色彩芸術 Farbenkunst    (き) ヘーゲルの《聴覚 Gehör をとおしての完全な主観性への没入》としての音楽観      従って音楽表現には全く没客観的な内的なもの das gannze objektlose Innere 、     抽象的な主観性そのものが適わしい。    「音楽の主要課題は対象性そのものではなく、反対に最も内的な自己が    自らの主観性及び観念的な魂に従って自身の内部で運動する様式を再現(鳴)    wiederklingen させることである」      従って音楽は心情の芸術 Kunst des Gemüts  § 2 音楽の一般的性格  (く) 数量的関係に依存したり、又規則正しさや均斉 Regelmässigkeit und Symmetrie の形式を所有している. ハーモニーの規則や、拍子、リズムの繰り返しとか、又音のより大規模な展開の法則  (け) 音楽の把握様式    主観的内面性 subjektive Innerlichkeit の領域で内容が生命を得ることが音楽の機能である  (こ) 音を「主観的内面性をもつ音」 Töne der subjektiven Innerlichkeit にまで形成し、それに生気を与 える beseelen ものが音楽である 心清は悟性的考察に走ったり、或は自意識を離れ離れの直感に分解せずに感情の緊密さ及び解明不能な深さの中で生き続けなければならない。この深い内容に欠けると、心情に何ら触れるところのないハーモ二―やメロディーの悟性的考察に陥るか、又は単なる音の佳さ Wohllaut を喜ぶ境地に堕する運命にあることが注意される  § 3  音楽的な表現手段の特殊な性質  (さ) 音は 相対的な独立性を持つ    諸音及びその結合の確定性は 定量 Quantum、即ち数関係に存することとなる。  そしてこの点から言えば、生命ある有機的統一が音楽の基礎を構成するのではなく、相等性、不等性等の一般に量的なものの中で支配的である悟性形式 Verstandesform こそ音楽の基礎を構成するものなのである。  (し) へーゲルは「従って楽音について確定的に語られることは、数的関係とそれを表示する記譜法についての叙述があるだけである」と断言している。  (す) カントも似たようなことを述べている。    「音の場合では、同時的あるいは継時的な音の結合が存する限り、同一時間の中の空気の振動数の割合に基くのであるから、数学的に一定の規則へもたらされることが出来る。     ……また趣味が、あらゆる人の判断への権利をそれによって予め敢えて言明しうるところのものはただこの数学的形式なのである。しかし音楽の惹き起す魅力と心情の動揺に数学がいささかも関与しないことはたしかであって、数学は印象の比例の不可欠な制約 Conditio sine qua non であるに過ぎない」  (せ) 音楽における芸術的表現はいかに可能か   第一にへーゲルは単なる時聞的持続及び運動を扱う。即ち速度、拍子、リズム Zeitmass, Takt, Rhythmus を具体的に分析する。 次には現実の音に具体化されたもの、ハーモニーの理論を考察し、 最後にメロディーについて論じている。  (そ) へーゲルは云う。「最後の領域は前のものがその中で統一され、そしてこの同一性の中で音の真に自由な展開と結合の為の真の基礎が始めて与えられるのであるが、その領域とはメロディーである」。  (た) 又「ハーモニーは音の世界の必然性の法則を構成はするが、尚拍子やリズムと同様に本来の音楽ではなく、自由な魂が従うところの法則的な基礎、土台即ち実体的な土台に過ぎないところの本質的な関係のみを把える」  (ち) 又メロディーは「音の自由な展開なのであるから、一方拍子、リズム及びハ…モニーとは独立している。併し他方メロディーは自己を実現するためには、本質的でしかも自身で必然的な関係にある音のリズム的、合拍子的運動以外の手段をもち合せない。    メロディーの運動は従ってその現存のためのこの手段の中に閉じ込められてしまい、この本性上必然的な手段の合法則性に反対して存在し得ないのである。    ハーモニーそのものとのこうした密接な関連によって併しメロディーは自らの自由を失いはしない。そうではなく唯気紛れに進行したり、奇妙な変化をするところの主観性に生じる恣意から自由になるのであり、正にこのことによってその真の自主性を維持するのである。」  (つ) 従ってへーゲルによれぽ音楽に於ける芸術的表現ぱ、空想の自由に没入することと、かのハーモニー的 関係のもつ必然性との闘争の中に成立するのである。  (て) 彼はメロディーについて次のように結んでいる.     「不確定なものへ出てゆくのではなく、自己自身の中で分化し、自己へ還帰するところの運動としてのみ、メロディーは、それが表現すべきところの主観性の自由な拠自存在(自己のもとに安らって在ること〉 freies Beisichsein に適わしいものである.     そして唯音楽は内面性というその本来の領域で直接的表白を実現し、又直接的に内面的であるところの表白の領域に於て理想性と解放を実現する,この解放は同時にハーモニー的必然に服してはいるとしても、魂をして或るより高い領界を聴取 Vernehmen させるものである.」  § 4 音楽的表現手段の内容との関係  (と) 音楽美学の三つの理論    1. 表出説: 音楽は自然の凡ての現象及び人間の凡ての感情を描写すべきであると考える立場。       1-a.観念論: 表出説のうち 更に思想、観念を描写し得るとするもの        2. 形式論: 音楽美はあらゆる観念や感情と交渉なく、単に数的関係に成立つとする。即ち音楽 の本質はその形式に在るとする。    3. 内在的音楽特有美論: 両者の中間に位置する立場であり、音楽的形式に基づく特殊感情を内容 とする。 Lehre von der immanenten spezifisch musikalischen Schönheit

その他の回答 (51)

回答No.11

bragelonneさんは、音楽のもつ力を過小評価しすぎだと思いますよ。 大祓詞 https://www.youtube.com/watch?v=ut8jZoXu8BQ この歌詞などは、ただの子供向けのおとぎ話程度のものですけれど、 音楽が加わった瞬間、 まったく別物になり、私などはこれを聞くと何故か涙が目に浮かんでしまう。 そして、 「やっぱ、オレは日本人なんだ」 としみじみ感じてしまう。 話はこれと大きく変わりますが、 日本には、西洋から西洋音楽がもたらされる以前、 合唱曲と呼べるものが非常に少ない。 これは、日本人が基本的に農耕民族で、農耕民族だからなんだって。 対して、狩猟型民族には合唱曲が多い。 狩猟は基本的に集団で行うものなので、集団の統一的な行動、役割を決めた行動が合唱曲を生むとかなんとか、そのような話を聞いたことがあります。 そして、狩猟型の民族は合唱がうまく、また、よく揃うだけでなく、 自然と歌が合唱曲のようになるという話です。 ロシア人なんか合唱がスゴいですよね。 ロシアの広い大地で動物を追って暮らしていたから、こうした能力をゲットしたのでありましょうか。 カチューシャ https://www.youtube.com/watch?v=T1q_0PXmJOk

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  事依さしまつれというみことのりは タカマノハラなる国の帝国主義です。いわゆるキリスト教なる宗教と一体となったヨーロッパ列強の植民地主義と変わりありません。    そこのところをどうお考えなのでしょう?  イヅモという国がある。人びとは斐伊川の治水に励み 薬草の研究にもすすんでいて おもしろそうだ。つまり あれは もともとおれっちの領土だ 行っておれたちのよき統治を敷いてさしあげようぢゃないかと。  トヨアシハラの中つ国には あらぶる神々(つまりそういう人間)がいてこれを事依さしたと言いますが よその国と人びとにちょっかいを出すのは 同じくあらぶる阿呆の神々である。のではないでしょうか?  天つ罪や国つ罪なる《律法》をさだめこれを敷いたと言っても 人倫として人間の自然本性にとって普遍的な基本の内容は別として あとは自分たちで勝手に決めて その祓へにしても 川に流し去るだけのことです。自分たちが みそぎが成って罪は祓い去ったというのも みんな自分たちの腹と頭だけで決めるだけのことです。  初音ミクは 声はいいし メロディも独特のものがありますね。    ですから 大政奉還なるどんでん返しをして 歴史を見直し書き換えるなら ふつうの人間の歴史になると考えます。  そうでなければ すべては 支配欲に支配されていかなる者の下にも立つまいと堅く誓ったというアマアガリ・シンドロームの所産であると見ざるを得ません。  スサノヲは これらすべてに《くにゆづり》をして 耐え難きを耐え忍びがたきを忍び 千五百年を過ごして来ました。主権在民・スサノヲ主権の世の中がとうとうやって来た。という寸法です。  ◇ 狩猟型民族  ☆ アイヌもそうですし マタギと呼ばれる人びともいますよ。山の民ですね。  農耕民に対するは 牧畜・遊牧民なのでは?  ◇ ロシア人なんか合唱がスゴいですよね。  ☆ そう言えば 思い出しました。次がいいですよ。ご存じですか。出だしがぱっとしませんが。  ○ ヴィェチェルニー・ズボーン(夕べの鐘)  https://www.youtube.com/watch?v=OWaCwTN8UtM  ◇ カチューシャ  ☆ って 極東での話ではなかったですか? ウラヂオストックかどこかの。

回答No.10

bragelonne さん こんばんは。 私のyou tubeコレクションの中から、ストラビンスキーの「春の祭典」ダンス付を添付しますのでご覧ください。 4分後に幕が上がります。うまくyou tube のサイトを添付できるとよいのですが。 https://www.youtube.com/watch?v=BryIQ9QpXwI bragelonneさんはサティがお好きとのことですが、同時代の作曲家です。 この「春の祭典」がパリで初演されたとき、斬新過ぎて、賛否は真っ二つだったそうです。 ちなみの当時は、ニジンスキーという天才ダンサーが踊りましたが、ニジンスキーは神を躍らせたら、右に出るものはいないと言われ、自身もルーブル美術館で、古代のギリシャの壷や彫刻から学んだそうです。 しかし、死ぬまぎわの言葉は「私は神だ・・神だ・・。」だったそうで、おごれるもの久しからず、成仏できたかは分かりません。 この「春の祭典」を見て、原始の人達を想像してみてください。 言語より音楽の起源のほうが早いかもしれませんよ。 ちなみに漫画「沈黙の艦隊」では原子力潜水艦「やまと」の海江田艦長は、北極海においてロシア原子力潜水艦と闘う際に、この「春の祭典」を聴きました。 ということで、日本海海戦の続きで、今回はbragelonne艦隊の旗艦である、bragelonne号に「やまと」から魚雷攻撃を仕掛けます。 bragelonne哲学、沈没か?(笑) では、お礼にて考察をください。

参考URL:
https://www.youtube.com/watch?v=BryIQ9QpXwI
bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  この「春の祭典」を見て、原始の人達を想像してみてください。  言語より音楽の起源のほうが早いかもしれませんよ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という問題ですか。《同時一体》と苦し紛れに言ったものですから そこへのツッコミですね。  舌足らずでしたが そのときの心つもりとしては焦点が 《内面における心の動きと 言葉と そして外の世界とが 同時一体なる過程をたどっている》という見方にあります。  《言葉》と言ったのは けっきょくあらゆる手段での自己表現のことを言おうとしています。音を出すのも ふくみます。――といったやはり苦し紛れの弁明がないわけではありません。  春の祭典は 原始の人たちのことを表わしているのですか?  ただし それを音楽で表現したからと言って 原始の人たちが 音楽を言葉よりも先に開発したという証拠にはならない。でしょう。――事実は そうであった(音楽のほうが言葉よりも先であった)のかも分かりませんが。踊りという分野もあるわけですね。  原始の人たちというよりは 未開の社会の物語でしょうか。  背伸びする動作が 何だかおもしろいですね。  だけど 踊りは 音楽と一体なのですか? バレーそのものは 音楽ではないですよね。  やはり 一体としてある作品なのでしょうか。

回答No.9

お礼、ありがとうございます。 ☆☆ 依然として《集団》の問題にかかわっての見方をしておられるようですね。  そうだとしても あくまで二次的・派生的な効果の問題ではないでしょうか? ◇No.1の回答を書き始めたときは、特に意識していたわけではありませんが、 書いているうちに演奏音楽には、他の芸術とは異なる特質があることを意識するようになりました。 モーツアルトを聞かせると、牛の乳の出がよくなるなどは、事実として知っていたので、ただ列挙しただけですけれども♪ このような効果がありますよとお知らせするだけだったんですがね。 絵画は、多数の人間が同時に一枚の絵を見ても、これはあくまで個人的なものですよね。 絵を見ている間、見ている人の間が互いに影響しあう、ということは、基本的に起こらない。 小説が芸術なのかどうかは怪しいので、あえて詩に限定しますけれども、詩を読むのも個人的な体験ですよね。 音楽もCDなどを一人で聞く、あるいは、楽譜を見てピアノなどを演奏するなどの場合は、個人的な体験になるでしょう。 しかし、演奏会場で多数の群集とともに演奏を聞くとなると、事情は異なってきます。 ここには群集心理のようなものが発生し、程度の差はあれ、聴衆はこれに影響され、時にこれに支配される。他者の熱気、興奮などが空気感染する。そして、群集はさらに興奮し、興奮がさらに高まる。やがて個は消失し、最終的には自分を見失ってしまう♪ 群集ですから、所詮、野次馬の如きものに過ぎませんが、この呪縛が解けないかぎり、それでも一つの意志をもつかのように群集は動いてしまう。 音楽は原始的で感情に直接訴えますから、圧倒的な説得力を有し、 演劇や朗読といった他の再現芸術以上とは比較にならない力を有している…。 演劇もやはり個人的体験なのでしょうね。音楽のように他者の感情などがこれと異なる人に感染するということは少ないように思いますので。 演劇よりも、演説の方が音楽の持つこうして面に似ているのかもしれませんね。 巧みに演出されているとはいえ、 ヒトラーの演説、そして、これを聞いて熱狂するドイツ人の姿などを見たりすると、そのように感じられます。 西洋音楽史の本などには、 クラシック音楽は、一部の者(貴族や富豪)などのものであったが、 産業の発達などによって、 ロマン派の時代くらいから、現代に見られる大規模なコンサートが盛んに開かれるようになり、 聴衆を熱狂させるような曲が作られるようになった、 といったようなことが書かれておりますが。 そして、 こうした音楽の演奏様式における演奏者・作曲家と聴衆の関係は、 宗教における説教をする聖職者と一般信者の関係に似ている、 これを模倣したものである…。 ワーグナーは、ワグネリアンと呼ばれるワーグナーの熱狂的信者、心酔者にとって、神のような存在であります。 そして、バイロイトは聖地であり、バイロイト音楽祭には世界中からワーグナー信者が巡礼にやってくる♪ 俗に「バイロイト詣」と呼ばれています。 バイロイト音楽祭 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%88%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E7%A5%AD ニーチェも、ワーグナーと決別する以前は、熱烈なワグネリアンであった。 そして、 ワーグナーの音楽に宗教の腐臭を感じることになった。 bragelonneさんは、確か、サティーが好きですよね。 こちらは「サロン音楽」の流れに属し、ワーグナーに代表される音楽の系統とは異なるんですよ。 サロン音楽 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%AD%E3%83%B3%E9%9F%B3%E6%A5%BD

bragelonne
質問者

お礼

 ◇ 音楽は原始的で感情に直接訴えますから、圧倒的な説得力を有し、  ☆ いやぁ このことはわたしの思いにはありませんでした。まだ分かりません。  ご回答をありがとうございます。  ◇ 巧みに演出されているとはいえ、 / ヒトラーの演説、そして、これを聞いて熱狂するドイツ人の姿などを見たりすると、そのように感じられます。  ☆ これには 説得されないという気持ちがあります。すなわち 聴衆である人びとにすでに気持ちの高鳴ったものが出来上がっていたのではないか。とも考えます。《熱狂》とはそういうものだと考えます。作品や芸術のほうからの働きかけだけの問題ではないであろうと。《巧みに演出されている》とも分析されていますが。  ◇ 音楽は原始的で感情に直接訴えますから、圧倒的な説得力を有し、  ☆ たぶん《原始的で感情に直接訴える》というのは――あめんほてぷ氏のところで考えたのですが―― ふたつの側面があると考えられます。  基本とその中での起伏とです。  生活のふつうのあゆみとしてのリズムが基本であり そしてその中で気持ちや感情の高まったり深まったりする出来事に出会うことがあるときそのような感情を音のしらべにして表現したメロディなどです。  《圧倒的な説得力を有し》ていますか?  これももし影響力がつよいとすれば それは 音楽の作品のほうではなくむしろ(あるいは作品と同等のチカラにおいて) それを聞く人びとの内面がすでに 影響を受ける姿勢に成っているからではないだろうか。と思うからです。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  こうした音楽の演奏様式における演奏者・作曲家と聴衆の関係は、  宗教における説教をする聖職者と一般信者の関係に似ている、  これを模倣したものである…。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これも信じたくないですね。  バッハの曲を聞いて影響を受けたとしたら それは やはりわれに還るそのうつくしさであって 《熱狂》とは無縁なのではないか。  それに聖職者の説教で納得するとしたら それはすでに道徳などとして人びとの心の中に刷り込まれているものが かなしいかな チカラを持ったものである。とも考えます。  そのむかし軍歌をつくらされた作曲家の人たちにしても 多くは 音楽の道とは別である――おのれの心とは別の脇道である――と知っていたはずです。そのような音楽の影響力を信じていたわけではないはずです。そのチカラがじっさいに見られたとしてもです。  日から日へ生活をいとなむ人びとのすでに作られて来ているリズムは そんなものではないでしょうし そうた易くくづれるものでもないと思います。音楽は ここに根差している。と信じます。  コンサートホールでの音楽会は 音楽にとって脇道ではないのでしょうか。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~  ニーチェも、ワーグナーと決別する以前は、熱烈なワグネリアンであった。  そして、  ワーグナーの音楽に宗教の腐臭を感じることになった。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《宗教の腐臭を感じることになった》あと 音楽をどう捉えたか? が大事だと思います。《訣別》などという態度は つねに善か悪か 一かゼロかという単純な論理によってしか頭の中が構成されていないことを見させます。  サティがサロン音楽の系譜にあるということは 受け留めました。  ただし サティ自身は 環境音楽だとか家具調度としての音楽だと言っていたのではなかったですか? 生活の場へ降りて来たのではないでしょうか。(いえ さほどのことは知りませんので その点 ご容赦を願います)。  音楽って 暮らしなのではないのですか?

回答No.8

bragelonne さん こんにちは。 グリーグのピアノ協奏曲 イ短調 作品16を聴きながら回答。 私の知り合いの音大生から「音楽史」は興味ないからと、ただで学生時代使っていた音楽史の本をもらいましたが、その中に現在考えられている音楽の起源が書かれています。結構高い本ですが。 1)情報伝達手段としての音楽 先史時代、人類は、太鼓やラッパの原型のような楽器を使い、その音によって信号や合図を送りあった。相した音が耳に快く感じられることを知った人類はやがてその音を使って楽曲を作り始めたという説 2)踊りや労働のリズムとしての音楽 踊りや労働に一定のリズムをもった音で伴奏をつけようとする自然な衝動から音楽が発達し、それが次第に音楽的創造の形をとるようになったと言う説 3)感情表現としての音楽 人間は怒り、恐怖、苦悩、喜びなどの声を表現する。それが発展して歌が出て来たという説。 どれが正しいかは、bragelonneさんは、アフリカに行って、アウストラロピテクスの骨に聞いて見て下さい。 しかし、音楽の起源と言語の起源はどちらが早いか? 哲学は、謎を扱う学問です。

bragelonne
質問者

お礼

 ふうむ。と同じように反応しつつ。  まづは ご回答をありがとうございます。  ★ 2)踊りや労働のリズムとしての音楽  ☆ が起こりであるように思います。ふつうにそのあゆみやリズムを表わそうとする。そのいとなみ。  そのとき  ★ 3)感情表現としての音楽  ☆ も現われて来るでしょうね。  つまりは ふつうの生活のあゆみの中に 起伏のある出来事を 同じく音の世界で表わすという。  ★ しかし、音楽の起源と言語の起源はどちらが早いか?  ☆ 同じようなかたちで共に (2)および(3)のごとき動きとして出来て来たのではないでしょうか。  (つまり この言い分は わざわざどちらかを先だと見ようとする見方を避けるために言ってみたものです)。  要するに 自己表現ですよね。内面における心の動き そしてそれは 自然の風景にしても社会の人びととの関係にしてもそのような外面における情況とも連動しているのではないか。わたしと言葉と世界とは その自己表現において同時一体なのではないか。音楽も この自己表現の過程に起きて来ている。  ちょっとパターン化した見方を書いてしまいました。批判を俟ちましょう。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.7

音楽から言語が産まれました。 文字が無かった時代には、人間は詩や音楽 で意思や事実、歴史、文化などを他人や後世に 伝えたのです。 文字が出来たので、音楽は芸術に特化 しました。 文字が無ければ、人類はもっと音楽的な 動物になっていたでしょう。 風のささやき、小鳥の鳴き声、森羅万象の 総てが音楽として楽しめたのでは ないでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 音楽から言語が産まれました。  ☆ 極端ですが 《うたった》ということでしょうか。   籠(こ)もよ み籠持ち              堀串(ふくし)もよ み堀串持ち        この丘に 菜摘ます児             家聞かな 名告(の)らさね     ・・・  でしょうか。イザナキとイザナミの話と同じように 口説きのうたですね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  文字が無ければ、人類はもっと音楽的な  動物になっていたでしょう。  風のささやき、小鳥の鳴き声、森羅万象の  総てが音楽として楽しめたのでは  ないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このとき おそらく文字が発明されなければ《音楽》というジャンルも出来ていなかったのかも知れません。  そのとき いま言うところの音楽とは どういう性格でどういう位置を生活の中で占めていたか。  音楽は 生活そのものだったのか? 切っても切り離せないものだったか。  そしてそのとき おそらくやはり《よい音とよくない音》の問題が 人間のあいだに持ち上がったか? こういう問いが必然的にともなわれている気がします。

回答No.6

bragelonne さん おはようございます。 you tube でブラームスの交響曲第1番 小澤征爾指揮を聴きながら投稿します。 私は、趣味でクラシックギターをしてますが、音楽の音符とは英語より優れた「世界共通言語」ではと思ってます。 例えば、ブラームス交響曲第1番は、悲痛な音で出始めますが、最終楽章の4楽章は人生の賛歌を歌うようなクライマックスで終わります。 ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番は、浅田真央さんのスケートなどに良く使われますが、ラフマニノフは、自分の曲が世に認められないため、うつ病にかかってしまった。 そこで、当事精神医の博士により治療しました。うつ病から治ったラフマニノフは白眉と言われる、第二楽章と、第三楽章を先に書いて、うつ病時代の思い出を第一楽章として最後に書いた。3楽章はやはり人生をたたえるクライマックスで終わる。 うつ病患者に効果があるとされるチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」を聴くと私は、チャイコフスキーの全人生が詰まっているのでないかと感じ聴いています。チャイコフスキーはこの曲を書いて、初演で指揮した後、数日後に謎の死を遂げました。第4楽章はクライマックスの逆で音が消えていくという斬新なものですが、チャイコフスキーは自分の思いはすべてこの交響曲に詰めたのでは。 上述の曲は漫画で上野樹里主演のドラマ「のだめカンタービレ」でも紹介されているので、知っているいる人も多いのでは。 もちろん私はAKB48の「恋するフォーチュンクッキー」も聴きますよ。you tubeで検索するといろいろなバージョンがあって、音楽で世界は平和になるのではと思ってしまいます。 以前、三菱一号美術館で観ましたが、カンディンスキーの「印象III コンサート」はシェーンベルクの初演のコンサートから着想を得た。 現在、横浜美術館で行われているホイッスラーは 「音楽は音の詩であるように、絵画は視覚の詩である。 そして、主題は音や色彩のハーモニーとは何のかかわりもないのである” ホイッスラーはこう語り、1865年以降“ シンフォニー”、“ ハーモニー”、“ ノクターン” といった音楽用語を用いて、絵画の主題性や物語性を否定しました。」 だそうです。 音楽カテのようになりましたが、総括すると、音符が言語であると考ええるなら、音楽は「論理性」を持ち、哲学の「真」にも関わり、世界平和に貢献できるなら「善」にも相当して、音楽は「真・善・美」のすべてを包括して、単に「美」だけと取るのはのは視野が狭いかもしれません。 これから秦の始皇帝を暗殺に行くわけではありませんが、今日は「風肅肅にして、易水寒し」ですね。どのようにケイカは歌ったのでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ふうむ。まづは お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ふうむ。  ここで 相手の方も相手の方ですから いぢわるぢぢいに成り切ってみましょうか。  作品(譜面およびその演奏)と評論とは 別である。のではないか?  作品について問うているのです。何のためにあるのか?  《総括》ではちゃんと答えてあります。あとは 評論ですよね。  真善美にかかわる。ですね。  そういう理屈を共有します。その理論も用意があります。  あと ラフマニノフについて共感します。  たまたまよく聞いた(耳に入ってきた)ものですから。  あとは 聞いてはいますが よくは知りません。そういう横着な聞き方をしています。    秦の始皇帝の話は分からんわい。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.5

異性にモテるため、っていうのは大きいかと。 プレイする側の話ですが。 自己表現というのもありますね。 後は作家の世界観に浸れるからとか、その世界観を共有できるとか。イメージソースとしての音楽というのはあるかと。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 世界観についてのイメージソースとしての音楽  ☆ ですか。イメージからヒラメキへ。そして 思考に降りて来て 言葉をとおしての自己表現に到る。ということですね。  ★ 異性にモテる  ☆ のですか? 音楽をやっているとですか?  いわゆる音楽が分かるとですか?  そうかなぁ。  画家や小説家や俳優やとくらべてですか?

回答No.4

美術にしても音楽にしても、脳の持つ「五感の相関 した経験の蓄積において、次の新たな先行感覚(光 や音など情報性の高い)に対して総和的なイメージ (そこへ行けば(より直接生理的な)何が起きるか)を 励起させる」という、総和機能に由来している。 即ち、過去の快適だった経験の総和である刺激パタ ーンを好む事で、実態を理解できなくとも直感的に 正しい志向性を保つ、ていう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 過去の快適だった経験の総和である刺激パターンを好む  ☆ ということは 《心地よい》と感じるということですね。  つまり  ★ 脳の持つ「五感の相関した経験の蓄積  ☆ はその中身として何か? と問うているわけです。つまり最初の経験は どうであったか?  初めからの《快適だった経験》の積み重ね なのですね?  あとは つねにそのような快適さとしての同じ感覚を予期しそれが励起されることをのぞむといったワン・パターンであるのか? という問いが気がかりですね。  ということは 心地よさが 《われに還る》体験にかかわっているかどうか。こういった哲学の問いに移行するかも分かりません。そこが質問者として知りたいところです。

  • kakibesuto
  • ベストアンサー率19% (248/1301)
回答No.3

気持ちを高揚または興奮させるため、調子を整えるためにあるのですよ。 掛け声や雄叫びもその一種です。 分かりやすく言うと音楽を聞くことで元気が出たり落ち着いたり、気持ちをコントロールするものです。

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ 分かりやすく言うと音楽を聞くことで元気が出たり落ち着いたり、気持ちをコントロールするものです。  ☆ という要素もあるでしょうね。  もっと大きなチカラをも持つとわたしは考えます。  《わたしがわたしである》状態から人は世の中のシガラミやよき友とのマジハリやをとおして 心があっちへ行ったりこっちへ来たりしつつ気持ちを時にはさまよわせて生活しているかと思います。    ★ 元気が出たり落ち着いたり、気持ちをコントロールする  ☆ というのは すでに悪しき友やよき友とのマジハリをとおしておこなっているかと思うのです。  音楽や絵画あるいは芝居や小説やをも含むでしょうかの芸術は そのような《気持ちの落ち着きや元気ジルシ》のことをわれわれに確認させてくれるように思われます。つまり われに還るということ。  そうではなく  ★ 気持ちを高揚または興奮させるため  ☆ というのは やはりオマケとしての効果なのではないでしょうか?  ということは 高揚・興奮のための音楽があるとしたら それは くだらない。のではないでしょうか? じっさいに  ★ 調子を整える  ☆ 効果があるとは思います。それを否定して言っているのではなくです。  ★ 掛け声や雄叫びもその一種です。  ☆ これは ふつうの音楽にとっては その付随物だという見方をわたしは 持っています。  

回答No.2

そうそう、 ナチスがワーグナーの音楽を政治利用したので、 イスラエルでは現在でもワーグナーの演奏はタブーとされています。 たとえば、 ~~~~~~~ 一方、ワーグナーはその反ユダヤ主義的言質やナチス・ドイツの文化的象徴ゆえに、事実上タブー視されている。1981年にメータがイスラエル・フィル演奏会のアンコールで「トリスタンとイゾルデ」の前奏曲を演奏したが、一部の団員は演奏を拒否し、観客の間に殴り合いが発生する事態となった。メータは数日後にやはりアンコールでワーグナーを取り上げたが、観客の激しい抗議を受け、数小節で演奏を中止している[1]。イスラエルにおけるワーグナーへの抵抗は未だに根強く、2001年にエルサレムでダニエル・バレンボイムがベルリン国立歌劇場管弦楽団とワーグナーを演奏した際も、抗議して会場を出て行く聴衆が見受けられた。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%A2%E3%83%8B%E3%83%BC%E7%AE%A1%E5%BC%A6%E6%A5%BD%E5%9B%A3 ~~~~~~~ コードレス☆照れ☆phone ゆかたんコンサートバージョンが聴衆を一つにまとめるように、 音楽は単に個人的経験を超えたものがあるように思います。 http://www.nicovideo.jp/watch/1388065030 この曲を聞くと、王国民は一体化するのでありました♪ 音楽は、絵画などの芸術にはない力を秘めたものだと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてのご回答をありがとうございます。  ◇ イスラエルでは現在でもワーグナーの演奏はタブーとされています。  ☆ 日章旗は単なる図柄ですからね。音楽作品となると可能性として思想を伝達しうる内容を持つかに見られますから 嫌うことに理屈は立つと思います。  ◇ コードレス☆照れ☆phone ゆかたんコンサートバージョンが聴衆を一つにまとめるように、 / 音楽は単に個人的経験を超えたものがあるように思います。  ☆ 依然として《集団》の問題にかかわっての見方をしておられるようですね。  そうだとしても あくまで二次的・派生的な効果の問題ではないでしょうか?  わが《固有のとき》にこそ 音楽や絵画はかかわっているのではありませんか?  ◇ 音楽は、絵画などの芸術にはない力を秘めたものだと思います。  ☆ それは どうか分かりません。と思います。つまり それは ひとによるのではないでしょうか。  《秘めた力》にかんして基礎となるいちばんのよさは やはり人がわれに還るそのきっかけになることだと考えます。  かんたんには 心地よいと感じる。  バッハが流れていると 何の問題もなく心地よく感じます。受難曲であっても わたしには歌詞の意味が分からないのでそういう雰囲気だけの問題に縮こまってしまいますから だいじょうぶです。(身が耳だけになって真剣に聴くという態度は 採りませんが)。  それ以外に何か効能書きがあるでしょうか?  ということは 作品と評論とは別だというふうにも問うているかと思います。  評論も 二次的な派生物ではないのかと。

関連するQ&A