台湾人がなぜ日本語を話せないか?
台湾は日清戦争で清国から割譲された1895年から1945年日本敗戦までの50年間植民地支配してきました。その間日本政府は小学校を造り日本語教育を行ってきました。しかし、戦後(光複後)かなり早い時期から一般的な公用語は北京語にとって代わり、日本語は占領下で教育を受けた世代のみでしか通用せず、世代間で引き継がれることはありませんでした。それは、なぜなのでしょうか?
私も色々調べてみました。
・宮脇俊三著「台湾鉄路千公理」では、昭和50年代で既に戦後教育を受けた世代では全く日本語が通用しない様子が描かれています。
・映画「悲情城市」では、戦後大陸から来た外省人が台湾の人が話す言葉(おそらく閩南語と思われる)を聞いて「アヒルの鳴き声のようだ」とこぼしている台詞があります。
上記2つの資料だけですが、台湾の人(本省人)たちは学校では日本語。家へ帰ると閩南語を話していたように思います。
その中で湧き上がる疑問です。
・元々台湾にいた原住民や客家人、本省人それほど抵抗もなく外省人が話す北京語を受け入れることができたのでしょうか?抵抗はなかったのでしょうか?
・日本統治時代に教育を受けた世代には北京語は全く新しい言語だったはずです。素直に摂取することはできたのでしょうか?できなければ、生活もままならなかったのではないでしょうか?
・外省人は、戦後日本語の出版・放送を禁止しましたが、日本語を話すことも禁じたのでしょうか?
1945年以降の国民党が台湾で行った中国同化政策についてほとんど文献がありません。(2.28事件や白色テロくらいか?)知っている方何でもいいので教えてください。
お礼
ほお、高砂や~も強ち無関係ではないのですか。あれは日本の地名ですが、目出度いから縁起良しとしたのでしょうか。(笑) 琉球や織豊時代の呼び名まで関係しているのですね。どうもありがとうございました。