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戦後日本の闘争史で

1960 安保/ 日本社会党員の労働者が主に敗北 1970 安保/ 大学教育の一時停止。戦後日本の崩壊。 両闘争ともに対アメリカの図式ですが。無条件降伏した 日本の経済成長はバブル崩壊まで継続しました。犯罪においては 受益者が犯人である、法則によれば。売国奴が戦後にアメリカの走狗 となり。アメリカは再三篩いに掛ける構図でマツリゴトし、 Decade 1 after か2 after か3 after の生存者がスパイだったと判明する。 頃には、次世代の若者が内部粛清を繰り返すんだと。悔し涙するだろう人々は、 すでに人ゴミで夢の島、いない。 上記の認識で正しいですか?

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回答No.1

1960年安保闘争、文字通り安保条約改定に反対する国民的大運動でした。 闘争の中心となったのは当時の労働センター『総評(日本労働組合総評議会)』でした。組合員でない一般国民も、広く支持して国民的闘争に盛り上がりました。その流れの中に社会党が居たこと、総評幹部達が党員であったことは事実ですが、党員数は僅か5万。それで2000万票を獲得できたのですから、歴史的には不思議な出来事でした。60年安保を期に日米で日本の労務対策が練られ、総評の一部が今日の『連合』の前身である『同盟』を結成して分裂、社会党右派の一部は『民主社会党』を結成して離れて行きました。 それだけ強いアメリカ寄りの政治手的動きがあったのです。 1970年安保は、『全学連』を称する過激派学生が暴れ回りましたが、国民一般は過激な行動は支持しませんでした。可笑しなことに、社会党や総評は彼らを高く評価していました。何のことは無い、『毛沢東の紅衛兵礼賛者』等、日本国民は支持していないのに『赤軍派』其の他の暴れ者が、暴動騒ぎを起こそうとしただけです。 その一方で『10年ごとに見直し協議』とされていた安保条約は、『日・米いずれかが希望する時は、一年の通告期間を置いて廃止できる』事とされ、定期協議が無くなりました。 定期協議が廃止されたため、安保闘争は終息しましたが、在日米軍基地の返還の代わりに、沖縄が米軍の一大拠点にされました。ベトナム戦争では、日本の基地はフルに稼働されました。 ベトナム戦争反対運動や基地反対運動は、非常な盛り上がりを見せた時期もありました。 極左の連中の動きに目を奪われ、彼らが暴れている間にどんな事態が進行していたかを、見極めることが大切です。小泉内閣がイラク派兵を決断できたのも、労働者の総評離れや社会党のグウタラ化と無関係ではありません。社会党や総評幹部の子弟が、学費免除でアメリカ留学を許されたり、党派を問わず国会議員がアメリカに招待され、日米文化交流などで反米感情の一掃が図られました。 このような流れを、当時の在日大使の名を取って『ライシャワー路線』とも言いました。 日本の経済・安全保障・国民生活などの変容を見届けなければ、現代史を正しく掴むことは出来ません。

fujisaway65
質問者

お礼

餃子の王将 餃子一日百万個 中国四千年の歴史 らしいです 社長?