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学園闘争って何であったの?。
70年代の大学に流行った学園闘争というのがありましたが、どうしてあの現象が全国的に流行ったのでしょうか?。 どうやっら日米安保条約に対する若者の主張というのがあるらしいのですが、東京大学の安田講堂占拠などあそこまで暴力的な行為に走らせた動機は何だったんでしょうか?。これ以外にも学生から派生した日本赤軍など、結構共産的な思想が流行ったんでしょうか?。 これはアメリカのヒッピー文化に通ずるものがあると思うのですが、全世界的な流れでもあったんでしょうか?。
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安保闘争と呼ばれた学生運動は60年代初頭のことです。これは学生に限らず一般市民にも波及しており、共産党や共産党から追い出されたブント主導の全学連もこれに同調して「17万人国会包囲デモ」とか大盛り上がりでした。 60年末期から70年代にかけての学生運動はこの残照勢力がそれぞれに分裂して内ゲバなどを繰り返した最中に始まったベトナム戦争への反対運動がきっかけで盛り上がります。ベトナム反戦運動はこれは世界的な運動で仰る通りヒッピー文化の影響も大いにうけています。 特に安保だけを目的としていた訳ではなく、沖縄問題やら学費問題やらもその対象に入っています。特に安保問題に関しては60年代のときほど盛り上がっていません。とりあえず目的は何でもよくw その当時の社会問題全般に対しての若者なりの憤りをぶつけていたという感じです。日本の主要な国公立・私立大学では軒並み何らかの理由で紛争状態にありました。 まだこの時点ではこういった運動に対して世間の目は温かい点もありましたが、70年以降は運動そのものが下火となり、浅間山事件をきっかけに凄惨な内部事情が公になったことで大衆の支持は完全に失いました。 ・安田講堂占拠事件そのものは別段暴力的行為ではなく、占拠して封鎖(授業妨害)をするのは全国的に行われたことです。 ・暴力的だったのは浅間山の方で、これは時代に置いていかれることに対する断末魔のような自壊行為でした。 ・そもそもの学生運動は共産党主導で始まりましたが50年代半ばに決裂しています。共産党系の勢力は民青ですが、決して主流だったわけではありません。ただし共産主義(マルクス・レーニン)の思想は多分に影響をうけています。 ※日本共産党は世界的な共産主義の勢力のなかでは異端児扱いです。 こういう理想主義的な運動が次第に変質していくのは当時の特徴でもなく、至極普遍的なものです。特に市民運動と呼ばれるものはえてしてこういう変貌をとげていきます。現代でもHIV訴訟問題などで小林よしのり氏の著作に詳しいですが、学生ボランティア主導で始まって現実的な運動が、左翼的/空想的な運動に変貌していった過程が細かくかかれています。
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- jameskun
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こんにちは、自分もリアルタイムでの参加世代ではないですが、浅間山荘事件を子供心に『どうして東大まで行ったアタマのいい人達があんなことするんだろう?』と疑問に思ってました。 その後大人になってから、当時の団塊世代の方に聞いたら、実際に日本の将来を真剣に憂いていたのは一部の人達だけで、その他大勢の多くは『授業がなくなる、無試験で卒業できる』とかの便乗犯だったそうです。当時の学生の娯楽なんて、テレビゲームもメールもなかった時代ですから、必然的にそっちに有り余ったエネルギーが発散されたはよくわかります。 もちろんヘルメット&ゲバ棒で政治討論や議論・論争は『意義な~し!』とかいって、今の学生の比じゃない位よくやったそうですが。 まあ、一種の時代的な流行でしょう。 それと、アメリカのベトナム戦争の反対運動(ヒッピー文化とも関連)が世界的に若者の奮起を促したことも大きな要因だと思います。 日赤や過激派などは、その運動をどっかで勘違いして革命まで起こそうとした連中です。いつの時代にもやり過ぎる奴はいるものです。安田講堂などは、集団心理・群集心理を巧みに点いた行為でしょう。いわゆる『みんなでやれば怖くない』的な。 でも浅間山荘をキッカケに、その後の大学生は豊かなキャンパスライフをエンジョイする風に仕向けられたのは事実です。自分もバイト→マージャン→パチンコみたいな典型的三無主義学生生活を送りましたから。 入学前、しつこい程『学生運動には絶対参加するな』と臭いものには蓋的に念を押されました。 まあ、どちらが良いかはわかりませんが、あの世代は間違いなく『熱い』人々だったことは確かです。 今のようにバイトも充実してなく、皆貧乏な苦学生というイメージが存分にあります。自分はかなり憧れましたですよ。