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川路利良と警察と陸軍
ちょっと混乱していますのでご助言ください。 明治維新後、川路利良を祖師とする警視庁が発足しましたが、これは旧幕時代の薩摩勢が中心として組織されたのでしょうか? というのも、このあと、西郷隆盛を中心とする近衛(陸軍)と西南戦争で闘いますよね。 ということは、薩摩同士で闘っていたのでしょうか? 当時は近代とはいえ、まだ旧幕時代の名残が強かったでしょうから、同じ藩同士で真っ二つに割れたというところが理解できません。 薩摩同士で戦ったのか?警察も陸軍も薩摩を中心として組織されていたのは正しいか? このふたつの疑問で何かおわかりでしたらご教示願います。 宜しくお願いいたします。
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- cse_ri2
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司馬サンの小説が主なネタ元ですので、参考程度に聞いてください。 (故司馬遼太郎氏の小説が多くの資料に基づいた緻密な 作品であったとしても、小説である以上、どこかにフィ クションが入っていますので) 薩摩藩の武士は、エライ上下関係が厳しくて、同じ藩士で あっても、城下に住む藩士と、城下を離れて地方に住んで 農業に携わる藩士では、差別があったそうです。 西郷自身は同じ薩摩藩士を差別するようなことは、もちろん なかったと思われますが、それでも長年の習慣はそう簡単 には消えず、明治維新後、城下にする藩士は軍隊に、城下 から離れたところに住んでいた藩士は川路配下の警察に入った ようです。(例外は桐野利秋(中村半次郎)。彼は西郷の 側近であり、かつ軍事の才能があったので、陸軍に入った) 陸軍に入った薩摩藩士は、西郷の下野とともに多くが薩摩 に帰って行きますが、川路配下の薩摩藩士は元々の対立関係 もあり、政府に残る人が多かったようです。 西南戦争の直接のきっかけは、川路が密偵を薩摩に送った ことにあるようですが、彼らも城下士に反発していた郷士 だったと記憶しています。 その他、西郷に近い人物であっても、明治政府に愛着をもち、 西郷と行動をともにしなかった薩摩藩士は少なからずいました。 西郷従道・大山巌などが代表ですが、川路利良もその一人です。
実態は少し違うようですね。 川治利良は大久保利通や西郷に引き立てられ、警察制度 導入のためフランスやイギリスを視察しています。帰国後、江戸時代の犯人を捉えて裁くものが同じという奉行所制度を改めて、国家公務員という保証された身分で司法から独立した近代警察制度を東京に作り、これが後に全国に広まり近代国家らしい警察が出来上がっています。 警察官に応募したものは職を失った士族たち、特に官軍にめちゃめちゃにされた東北諸藩出身者が多かったようです。彼らは官職についてかつての賊軍の汚名挽回を図ったのではないでしょうか。勿論、警察幹部には 多くの薩摩人もいたことと思われますが、大久保に反感を持ち西郷を慕う人々は帰郷し西郷軍に参加したでしょう。多くの人は旧藩と新国家の板ばさみになって悩んだことことでしょうね。 熊本や宮崎において西郷軍と死闘を繰り返した人々の大半は薩摩藩以外の旧士族と全国の農村出身の次男、三男からなる陸軍の兵たちだった筈です。農村出身の兵は西郷軍の抜刀隊に(白刃に)恐れをなして逃げ出すことが多く、その結果、旧士族からなる警察庁の抜刀隊が威力を発揮したようです。彼らは恐らく数年前の汚辱に満ちた負け戦の名誉挽回のために薩摩憎しと奮戦したのかも知れません。 生まれたばかりの近代国家を護らんがため、故郷の恩人に背を向けて東京に残った川治、司法制度を作りながら後に佐賀の乱に破れ、逃亡中に逮捕され司法制度が機能していることを喜んだという江藤新平、共に尊敬すべき人たちですね。
- tiaki7
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どちらのお方かわかりませんが 質問を読んだだけで涙がでます 司馬遼太郎によると その時 東郷さんはヨーロッパへ留学中だったそうです 大久保、川路方で戦って戦死して残された家族は 鹿児島へ帰るしか、、、、
お礼
ご回答有難うございます。 私は東京の者ですが、郷土の方にはお辛い話だったのですね。すみません。